どうしても野球というスポーツへの憧れから逃げられなかった。身の丈に合わないと思いながらも青道に入り、恐る恐るマネージャーになった。初めは何人かいた同級生の女の子は、いつのまにかわたしと藤原さんだけになっていた。「貴子でいいわよ」なんてクラスもグループも違うようなわたしに笑ってくれた日を一生忘れないと思う。聡明で気配りの出来るいい子だ。美しさも兼ね備えていた彼女には男子からそれなりに視線が集まっていたし、わたしも同い年のはずの彼女に憧れていた。その隣でひっそりと「優しい」だけが取り柄のマネージャーを続けることは何も苦ではなかった。むしろ話題に上がらない方がいい。嫌われるよりよっぽど安心する。二年半の短い青春に恋愛は求めていなかった。ただ迷惑にならないように、彼らが輝いているのをそばで眺めていたい。真剣な野球を感じたい。だってそんな漫画みたいな恋愛は身分に合わない。

はずなのに、最近少しだけ、本当に少しだけひとりに集中してしまうことがある。ぬかるみの残るグラウンドの隅。フェンスにかけられたスポーツタオルがずり落ちている。それを拾って籠に入れながら視線を上げると、ちょうどその彼がわたしのところへ歩いてくるところだった。かき集めた汗の匂いが一瞬で神経から吹っ飛んでしまう。

「はい、よろしく」
「わざわざありがとう」
「今日大変だろ、みんな適当に置くし」

だから直接渡しに来てくれたのだ。籠からすべり出た誰かのタオルをキャッチして、自分のものを重ねて籠に入れる。その些細な所作ひとつ、女の子らしくはないのに粗雑さも感じない。大きくて太い先輩ばかりに囲まれているから気になってしまうのだろうか。何せ小湊亮介は小さくて細くて、むさくるしいという言葉からは程遠い男だ。

「大丈夫、泥まみれってかっこいい」
「なにそれ。みょうじってわりとアツイんだね」

軽く笑ってから小湊くんは練習に戻って行った。小さな背中が大きな身体たちに隠れてしまうのを、わたしはしばらく見守っていた。いつもは重たくて仕方のない籠もなんのそので持ち上げたまま。

タオルの他にも洗濯物は色々あって、彼らのアンダー等を洗うこともあった。臭くて時間もかかる洗濯は一年生の仕事になることが多いけれど、わたしはむしろ進んでやりたいくらいだった。広げると前が見えないようなシャツばかりの中に、Sサイズの小湊くんのものを見つけるのがとても好きなのだ。見つけたからと言って特に何をするわけでもない、ただ洗濯機にまとめて投げ入れて広げて干すだけの話。でもその過程の中で、彼の背中が記憶よりも随分大きいのだと知ることができる。実際に触れたことはないけれど、ちゃんと男らしく肩が広いこともわたしは知っている。女の子みたいでかわいいと持て囃す女先輩を遠目で見ながら、何も知らないなこの人と性格の悪いことを思う。周りより小さなユニフォームに人一倍泥をつけて、小湊くんは毎日少しずつ大きくなっているのに。

実際に触れる機会なんて作れないまま、そもそも作る気もないまま、わたしたちは冬を終えて二年生になった。二年生になって仕事を選ぶ猶予が出来ても「わたし洗濯好きだから大丈夫」なんて言ってやっぱり洗濯機をがらんがらん回していた。触れ合わないのに触れられる、そんな距離感がわたしにはお似合いだ。最近はおにぎりやスポーツドリンクを渡しにいくだけでおどおどしてしまう。関係も何も変わらないはずなのに、気持ちばかり大きくなっている気がする。

洗濯ババアとか呼ばれて虐められるかも。そんな小学生レベルの心配も杞憂のようだった。むしろ係として定着し始めたわたしに、小湊くんのように優しく接してくれる部員が多くなって来た。「これよろしくな!」と一声掛けてもらえるだけで嬉しいものだ。大好きな野球でいい汗を流した結果なのだからわたしは臭いも汚れもなにも不快に思わないのだけれど、妙にデリケートな彼らは「ごめん今日めっちゃ臭い」とかわいい予防線を張ってみたりする。厳しい強面の先輩にそんな謝罪をもらう新鮮味が増えて、わたしの洗濯係の楽しみはひとつだけではなくなり始めていた。







「みょうじ」

洗濯機に入れる前の手揉みをしていたわたしは、背後からかけられた声にぶわっと産毛が逆立ったような気がした。高めのゆったりした声。小湊くん以外の誰のものでもない。お湯から手を抜いて慌てて振り返ると、小湊くんは思ったよりもすぐ後ろにいた。更に慌てるわたしに彼は「手伝う」と短く言って、腕まくりをしながら隣にしゃがみこんでくる。二人きりになることは早々ない。

「自主練習いいの?」
「オーバーワーク気味で夜まで休憩。ユニフォーム、ちょっと今日ヤバイから自分でやろうと思ってさ」

そういえば今日の練習試合はいつにも増して横っ飛びをさせられていた。それでも毎回正確に食らいつく小湊くんのかっこいい姿が鮮明に浮かんで、どれだけじっくり見ていたのかを自分の記憶が突きつけてくる。恥ずかしくて「そういえばそうだね」なんて曖昧な返事をしたわたしに、小湊くんは「なに、あんま見てくれてないの?」と少し残念そうにユニフォームの山を掘り始めた。目がちかちかするくらい見てる。そんな訂正は出来ない。

黙り込んだわたしにそれ以上追求せず、黒土で変色したユニフォームを引っ張り出すと、小湊くんは「お邪魔します」とふざけながら湯張りのたらいにそれを漬けた。わたしが最後の楽しみにとっておいた背番号4が泥水を吸う。確かに普段よりも汚いけれど、今までで一番ってわけでもない。
プラスチックの壁に囲まれて、薄緑の固形石鹸を掴んだ小湊くんの手がこんなにも近い。ユニフォームにもアンダーにも手の部分はない。背中も肩も胸も、脚の長さだってわかるのに。おにぎりを渡す一瞬では知り得なかった彼の手の形が、大きさが、すぐそばで分かる。男の子の手だ。

「……そんなに沁みないから平気だよ?」

いつの間にかわたしの視線を辿っていたらしい小湊くんが、ユニフォームを水中に放って掌を開いた。わたしがまめの心配をしたのだと思ったらしい。中指あたりに集まったごつごつとしたまめは、出来ては潰れてを繰り返しているようだ。導かれるままにそのまめを見つめていたわたしの無防備な手に、突然彼の掌が翻って触れた。

「ほら、こことかは硬いだろ」
「……え、あ、うん」
「みょうじは思ったよりあかぎれとかないね」
「冬は手袋したりしてるから…」
「よかった」

小湊くんはそう言って手を一回きゅうと握ると、何事もなかったかのように離してまたユニフォームをこすり始めた。わたしも思わずつられて作業を再開する。え。な、なんで今握ったの。そんな質問をする勇気はない。土に負けてなかなか立たない石鹸の泡ほどもない。小湊くんはそこからなにも喋らずにただ自分のユニフォームを洗い続けて、わたしはそのうちに「聞いてはいけないのだな」となんとなく悟った。水や布の擦れる音と、自主練の遠い喧騒だけを、ふたりきりの器の中で聞いていた。







楽しみがひとつではなくなったと思っていたのに、あの日以来わたしの洗濯は何か味気ないものになっていた。一度うまいものを食うともうそれまでの安飯では物足りない、なんて贅沢なことをよく言うけれど、あれと同じようなものだと思う。そう、贅沢だ。あの日の出来事は幾つもの幸運と彼の気まぐれが重なった、めったにない出来事だったのだ。

そう言い聞かせていても洗濯中つい彼の姿を探してしまう。あんなに嬉しいと感じていた先輩たちの声掛けも、小湊くんがくれる「よろしく」の一言と比べてしまうようになった。ひとりだけ集中してしまうなんて余裕を持った言い方はもう出来ない。わたしはずっと小湊くんばかり見ている。

はっきりと自覚をしても結局動くことのないまま、わたしは二年生を終えようとしていた。本格的に先輩となって慕われる小湊くんの背中は、初めて追い始めた時よりも随分広くなったように見える。もしかしたら掌だってあの日より大きいのかもしれないなと、Mサイズになったシャツを広げながら思う。多分三年生になってもわたしは洗濯係をしているだろう。小湊くんのなにかに触れていたい、そんな邪な想いを抱えて。マネージャーを志した頃には考えつかなかったような理由で。でも選手の野球は邪魔出来ない。わたしからは何もしてはいけないと、思う。

「あ、俺の」
「!?」

後ろからかけられた声にまた産毛が逆立つ。取り落としそうになったアンダーシャツを抱きしめると、予想通りの小湊くんがわたしの前に回り込んで来てからから笑った。

「サイズ上がったの気付いた?」
「うん」
「だよね。見てくれてるの知ってた」
「……へ」
「いつも俺のやつ最後に洗ってない?」

ぐるぐる、脳が高速回転を始めた。どう答えれば当たり障りがないか。何と言い訳すれば、どんな顔をすれば。人様のアンダーシャツを抱きしめたままのわたしの腕をほどくと、小湊くんはあの日のように掌をわたしのそれにひたりと当てて包んだ。すっかり固まりきったまめの感触。緊張してよくわからないけれどなんとなく前よりも大きくなったような気のする掌。前回とは違い、反射的にこちらから握ってしまって慌ててぱっと離す。

「あっご、ごめん」
「大丈夫。痛くなかった?」
「まめ? うん、でもすごく固まったね…」
「そ」

小湊くんは満足そうに掌を見つめると、奪ったアンダーシャツを洗濯機に放り込んでしまった。手持ち無沙汰になった手先をそっと後ろに回して隠す。勇気なんて覚悟なんてないと言いながら、いざ向こうに動かれるとこんな風に我慢出来なくなるのだから困ってしまう。小湊くんはわたしをどうしたいのだろう。これ以上恋い焦がれさせてどうするつもりなのだろう。

「小湊くん…?」
「それなんだけどさ」

彼は洗濯機を慣れた手付きで操作しながら、わざわざランドリーに来てくれた目的であろう話を始めた。わたしもかごを片付けながら耳を傾ける。

「来年の新入部員で、俺の弟が入るんだよね」
「弟くん? 合格おめでとう」
「ありがと。……みょうじさ、俺のこと苗字で呼ぶだろ」
「あー、小湊くんだね」

洗剤を擦り切って彼は頷く。弟だって小湊だからややこしい。そう言いたいのだろうと思いながら、かごを片付けるためにかがんでいた姿勢を戻す。小湊くんを見ると、彼もわたしの方へ向き直るところだった。再び襲い来る緊張にどんな顔をすればいいのか分からなくなる。小湊くんの手が再び前に出て来てしまったわたしの手に触れて、息を呑んだ。

「だから、俺の方を名前で呼んでね」

よろしく。いつもの言葉を添えたところで、また一瞬指が絡んで離れた。不自然な形に浮いたままの腕を慌てて引っ込める頃には、小湊くんの頬も少し赤くなっていて、もしかしてこの人も結構恋愛が下手なんじゃないかと思った。我慢しようと決めたり、やっぱりちょっと出来なかったり、するんじゃないかと。

「……亮介くん」
「下の名前なんてよくすぐ出てくるね」
「いつも、見てるから」
「…知ってる」

古い形の洗濯機が遅めの起動音を鳴らす。お互いすこし視線をずらしたままの会話に、がたがたと大きな音が混じり始めた。手を伸ばしてもいいのだろうか。何なら告げてもいいのだろうか。

「そのお願い、貴子にもする?」
「何それ。なまえって結構バカだよね」
「り、亮介くんもだよ」
「そうかも」

ごめんね。亮介くんが笑ったので、わたしもつられて笑ってしまった。結局わたしからは何ひとつ伝えることが出来ず、触れにいくことも出来なかった。すきも、つきあっても、わたしが先に明言していいものかわからなかった。
わたしがこんな優柔不断だから彼も迷っていたのだと気付いたのは随分後、本人の口からそう伝えられてからである。目を合わせないまま抱きしめてきた亮介くんの背中は、広いだけじゃなくて硬くて暖かくて、いい匂いもしたりした。




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