「ねえ、起きなくていいの」

寝ている人間を起こす気があるとはとても思えない声量は、二度寝三度寝の浅い眠りの世界にぎりぎり届いた。

「いま何時」
「おひる」
「うわあ今日こそ有意義に使うって言ったのに!」
「自分で目覚まし止めてたから」
「覚えてない!」

暁は困った顔をしてから、なぜか布団をひっぺ剥がしたかと思うとわたしの背中と膝裏に腕を差し込んだ。朝からお姫様抱っこ。ご機嫌取りの方法が独特すぎる。
ほぼ片手でわたしの身体を支えて、暁はリビングへのドアを開けた。まだうまく目が開かないまま運ばれていくおとなしいわたし。赤子か。キッチンシンクめがけて進む空中でふと気付く。布団から出された時に感じた冷気がない。むしろ。

「暁、ストーブつけた!?」
「……つけた、かなあ」
「いやおもくそついてるよ、まだ灯油屋さん回ってないのに!」
「もうくるよ」
「適当なこと言わないの!」
「……ごめんね…」
「いやあったかいけど! ありがとうだけどー!」

そっか。暁は頷いてからようやくわたしをシンクの前に下ろしてくれた。なぜ昼っぱらからだっこされながら夫婦漫才をさせられたのか。顔を洗ってから時計を見ると、十二時をちょうど超えたところだった。よく考えたら時間を聞いたのに『おひる』って。

スポーツマンと同じ家で暮らすようになってから、わたしの自堕落な生活は大分規則正しいものになった。早寝早起き、三食ちゃんと。暁が休日の日はお弁当も何もないのでゆったりのんびりするのがなんとなくのルールになっていた。
けれど、そうすると暁はまったくわたしを起こさない上に隣で改めて昼寝を始めるので、日の高いうちに起きることが出来ない。もったいない。って伝えたのになぜ昼まで起こしてくれないのか。起きないわたしは、多分悪くない。寝るのが遅くなるのはいつも暁のせいである。

「暁は何時に起きたの」
「七時。でも走っても眠かったから、もう一回」

そして今、空腹で目が覚めたのだろう。気付けば説明を紡ぎながらもちゃっかり食卓についていた。仕方がないので起床早々食事の準備。またいつもの食べて寝る休日と変わらなくなってしまった。

昼ごはんは、出てきたものを食べるルールになっている。暁は基本的になんでも食べるし、それ以前に昼ごはんのレパートリーというもの自体が少ない。米か麺かホットケーキ。
漫画やドラマのように毎日何品目も作っていたら保たないです、と同居する前に行った会議で暁に正直に話したら、「夕飯にかに玉は出ますか」ととんちんかんな質問が帰ってきたので勝手に容認されたことにした。食事にいちいち文句をつけない男は楽だ。



食休みを経て買い物に出た。電車に乗るわけでもなく地元でカカクヤスク。暁はなぜかこのフレーズがやたらとお気に入りである。勝手に使った灯油で温まっていた手はすっかり冷えてしまったけれど、レジに並ぶ頃には暖房でまた生き返っていた。この極端な温度差が逆に風邪に繋がるのだという。野球野郎には関係ないのだろうか。

「暁、トイレットペーパー取ってきて」
「くまが書いてあるやつが」
「高いから普通の!」

どうせくまさんでうんちなんか拭けないくせに。暁は口を尖らせたまま紙類の売り場へ歩いて行った。ちゃんと安いのを持ってこれるだろうか、どのレジに並んでいるか覚えているだろうか。時折子どもを連れている錯覚に陥ることがある。
「ただいま」律儀にご挨拶をして戻ってきた暁は、いつものシングルトイレットペーパーと一緒に小箱をカゴに放り込んだ。

「……買ったばっかりじゃん」
「昨日なくなったよ」
「嘘」
「本当。……覚えてないの?」

記憶を飛ばしている本人が寂しそうな顔をする。前言を撤回したい。子どもはおかしのノリでコンドーム持ってこない。カカクヤスイから、そう主張する暁のかわいい顔が憎い。

しかもお会計したら定価だった。


トイレットペーパーひとつ抱えてスーパーを出ると、冷え切った空気に粘り気が足されていた。重々しい空を仰ぐ。暁もおとなしくつられて空を見て、少し早足で車道側を歩き始めた。

いつもTシャツ一枚をラフに適当に着こなす暁がトレーナーを引っ張り出してくると、ああ秋が来たんだなと思う。北海道出身だから寒くても平気と言うわけではない。北海道だって暖房はつく。でも夏はそんな次元を超えて無理らしい。本州の夏は変だよね、衣替えするわたしの横に座って毎回そう言う。
手伝わせると逆に時間がかかるので暁の衣服管理はわたしがやることになっていた。元々ファッションにそこまで興味のない男だ。好きな子が用意してくれたお洋服、それだけで十分に嬉しいのだという。肝心の服がなんであろうと。だから手伝わないのに、横に座ってわたしを眺めている。

「あ」暁がまた空を仰いだ瞬間、わたしの鼻先にもタイミングよく水滴が落ちた。初っ端から大粒の雨だった。家まであと五分はある。急ごう、一歩前を歩き出したわたしを追って暁も袋口を縛りながらもたもたする。
「なまえ、これ、濡れるから」彼は両手に持った買い物袋を鳴らしながらかぶっていたキャップを脱ぐと、そっとわたしにかぶせてくれた。大きな鍔に視界が守られる。

「風邪引く」
「あ、ありがとう」

満足気に頷く暁。でもこれね、布製なんだよね。



役に立たなくなった重たい帽子を、これまた水浸しの暁に再びかぶせた。タオル取ってくるからちょっとまってて。そう言い聞かせて玄関で服を脱ぎ、おとなしく立っている暁を置き去りにして風呂場へ。わざわざ言わないと伝わらないことと言わなくてもいいことの区別は、いまだにはっきりしていない。何を言っても嬉しそうにこくこく頷くものだから、つい手間をかけてしまう。

バスタオルをいくつも掴んでとりあえず一枚を身体に巻き、まずは買い物袋を救出しに行く。纏ったふわふわ繊維を眺める暁の残念そうな視線は無視しておく。袋を拭いて中身を出してみると、とっさに持ち手を閉じたおかげで無事だった。「暁えらい、ありがとう」自慢気な顔をした暁が玄関に雨を降らせながら屈む。帽子越しに頭を撫でると、その体制のまま冷え切った腕がわたしのバスタオルを捕まえた。

「寒い」
「タオルあるよ」
「これがいいの」

三枚千円の布を剥いで、暁のてのひらがまた素肌を濡らす。一度布の暖かさに触れた裸にぞくぞくと鳥肌を立てていく。さむい、と反復するように身をよじるわたしの首元に顔を埋めた暁は「服着てないからじゃない?」なんて適当な返事をした。

雨でさらに増した体重がわたしにかかって、踏ん張ろうとしてもさするように滑っていく冷たい指に邪魔をされる。こいつ、全然暖まる気のねえ手つきしやがって。首元から移動した唇に濡れてもいない耳朶を食まれ、ついに膝をついた。玄関の段差をびしょびしょのまま越え、冷蔵されるのを待っている買い物袋をわたし越しにがさがさ退かす。

「お風呂入ろう」
「…やだ」
「どうして、寒いんでしょ」
「先に入っておいでよ」
「……なまえ、照れてる」

自分で服脱いだのに。暁はそう笑いながら、わたしの背中と膝裏に手を差し込んだ。もしかしたらお姫様抱っこはご機嫌取りのためだけではなくて、彼のお気に入りでもあるのかもしれない。わたしの胸元に落ちた水滴を吸い上げ、反射で震えた肩を撫でる。そんなことを流れるようにこなす暁の表情は実に楽しそうだ。どうしてこんなことだけ器用なのか。先程退けるついでに小箱を拾い上げたことを、わたしは気配で悟っている。




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