真っ白の壁に真っ青の屋根。絵本に出てくる『おうち』って感じ。人気がないのをいいことにひとりきりでくすりと笑う。もうひとりの親友は時間がうまく重ならず、先に僕だけでこんなかわいらしい新居に失礼することになってしまった。お邪魔虫、緊張する。

FURUYAと一行だけ刻まれた表札の下のチャイムはカメラ機能のついたいいものだったけれど、今日は使わないでと先程連絡されてしまったので残念ながら使えない。はじめての家に勝手に入るなんて悪いことをしている気分だ。恐る恐るドアを開けた途端、親友と同じ香りが流れてきて、僕はなんとなくほっとした。知らない玄関からどう動くか悩む暇もなくスリッパの小さな音がし始める。廊下に繋がれた正面の部屋。

「春っち! いらっしゃい!」

童話に出てくるような装飾の施された茶色のドアは、見かけよりも幾分も軽いらしい。現れたみょうじさんが抑えた声でそこから出てきた。スリッパは、やっぱりしろくまさんだった。うーん。家といい降谷くんの趣味はわかりやすい。

「新居おめでとう。お邪魔します」
「ありがとうー。はい、春っちはうさぎさんスリッパ。暁が選んだんだよ」
「どうして新婚さんのうちに僕用のスリッパがあるの…」
「沢村くん用もあるよ? わんこ」

何年もの付き合いの中で慣れていたつもりだったが、このカップルは基本どこかずれている。普通ふたりきりの夢のマイホームにいきなり他人のスリッパ買うだろうか。どんだけ呼ぶつもりなの。お邪魔虫だと物怖じしていた数分前までの僕に、心からの大丈夫だよを届けたい。

お土産にと買ってきたスイーツの箱を受け取って、みょうじさんは僕を正面の部屋へ案内してくれた。芳香剤の強い香りもしなければ、新居の薬の刺激臭もしない。名状できないやさしい匂いに包まれたリビングに、うさぎさんスリッパで初めてのお客さんが割り込む。そんな大事な場面だと言うのに、家主である親友はといえばソファに転がって安らかに寝息を立てていた。

「ピンポンご遠慮くださいって、こういうことか」
「そうなの。昼で一旦電池切れちゃって」

なっかなか起きないから。謝りながら椅子を引いてくれたみょうじさんがダイニングキッチンに向かう。ついこの間までふたりで暮らしていた、綺麗だけれどこじんまりとしたアパートは、こんな風に絵になるキッチンではなかった。降谷くん、こういうかわいい場所にかわいいお嫁さんを立たせたいと思いながらお金貯めてたんだなあ。微笑ましくなる。

青道高校卒業後、周囲の予想通り難なくプロ野球を仕事にした降谷くんは、22歳という若さで結婚を発表した。ルックスでも大人気を集めていた降谷くんは、テレビやファンからアイドルのような扱いを受けることも少なくない。けれどデビューしてすぐのうちから「ずっと大好きな子がいて」云々となにも考えていない発言を繰り返して来たド天然キャラのおかげで、世間からのお祝いエールは妙な熱を持っていた。同じように青道からプロへ進んだ栄純くんと御幸先輩は「お前のせいでやたら質問に恋愛沙汰を組み込まれる」と文句を言っている。確かに僕もよく飛び火を食らう。

そして籍を入れて幾月経ったこの秋に、ふたりは今の新居に移り住んだのだった。もうみょうじというファミリーネームではなくなってしまっているのにそのままなのは、下の名前を呼ぶと旦那さんが隣でちょっとむすっとするからである。

「初めてのお客さんは僕が接待、なんて意気込んだらこのザマだよ」

僕の待つテーブルにティーセットを置いて、みょうじさんは熟睡する降谷くんを見やる。朝早く起きて自ら部屋の掃除をして、普段はついて歩くだけの買い物も先導してくれた。映画やゲームはどうかと珍しくレンタルビデオ屋にも寄った。そして帰宅してお昼ごはんを食べたら、目を離した数分で寝てしまった。……なるほど。なんて降谷くんらしい。相変わらず子どもでしょ、笑ったみょうじさんの表情があまりに優しいので、僕も思わず和んでしまう。

ぽやぽやした降谷くんに対して、みょうじさんは穏やかながらも結構快活な性格をしている。一歩出遅れる降谷くんの手を引っ張っていく。でも両手で優しく包み込んで、ちゃんと彼の方を向きながら。高校の時からずっと見守って来たけれど、僕や栄純くんがうっかりみょうじさんに惚れてしまうこともないくらい、ふたりはセットだった。

「式の準備、順調?」

かわいい陶器に入った角砂糖を、これまた絵本のようだと思いながらカップに入れた。他の家の味がするミルクティー。これが降谷家の味。

「順調だけど、説明わたしが聞いとかないとやばいからプレッシャーがね」
「降谷くん頼りにならないもんね

「起きてるんだけどパンクしてるからねえ」

数メートルの位置で爆睡する男の噂を、内緒話のようにした。女子会をしている気分だ。僕の体格も身長も初めて出会った頃より大分男らしくなったはずなんだけれど、大きさも凛々しさも平均を超過した降谷くんが『男性』の基準になってしまっているみょうじさんからすればまだまだかわいいままらしい。

僕がみょうじさんに惚れなかったというよりは、みょうじさんが僕に一切恋愛的興味を持たなかった。それでいいと思っている。親友の彼女とも親友になれるなんてとっても素敵なことだ。
そもそもこのふたりは、恋人以外の異性をどう見ているのか謎なところがある。降谷くんなんて彼女以外の女の子の話をするところを見たことがない。生で対面した芸能人の美女でも、名前すら覚えていないことがよくある。

「でも暁はほんとにいい子だよ」
「いい子?」

動物模様のマグカップから目線を上げると、みょうじさんはまたソファの降谷くんを見つめていた。ぽかぽかしている優しい空気を紅茶と一緒に飲み込む。幸せをもらうような気持ちで。

「事あるごとに、今幸せ? って言葉にして聞くの。選択肢があるとなまえが幸せなほう、って答えるの。好きなほう、じゃないんだよ」

わたしその言い回しがすごく好きなの。だからマリッジブルーとかなんにもなくて、安心して適当に準備してこれた。まあ難しいこと分かんなくて投げてるだけなのかもしれないけど。
そんなことを言うみょうじさんに笑顔を返しながら、思い起こす記憶がある。あれは彼らが入籍する少し前の飲み会のこと。




「プロポーズを、します」

聞いて、なんて珍しく意気込んだ声で僕らを黙らせた降谷くんは、真剣な面持ちで突然言った。さっきまで隣で騒いでいた栄純くんが、入れたばかりの空豆を口からぽろりと落とす。

「……おめでとう?」
「うん。ありがとう」

動揺のあまりがんばれをすっ飛ばしてしまった。普通プロポーズ段階では軽率にこんな祝辞言えないけど。お礼を言いながらじーんと喜びに浸っている降谷くんが、ずっと付き合って来たあの恋人に断られるところなんて想像がつかない。まあ、大丈夫だろう。

「プロポーズ、とは、降谷はご結婚をされると」
「うん。ご結婚される」
「うおおお……お前すげーな…」
「なまえ大学終わるから。僕に永久就職してって、お願いする」
「どこで覚えたのそんな言葉…」

すげえすげえと連呼しながらも栄純くんはずっと空豆を剥き続けている。彼なりにだいぶ動揺しているらしい。
僕ら三人でいる時の降谷くんは相変わらずぼーっとしているけど、昔よりも口数が多くなって、微笑む率も増えた。きっとみょうじさんの前だとまた違う降谷くんなのだろう。マウンドに立っている時のような頼れる表情も、ふたりでいる時間のどこかにあるのかもしれない。

「家でするの? それとも夜景の見えるレストランとか?」
「スイートルームとか取んの?」

前のめりになって問いただす僕らに、降谷くんは「動物園……いや、水族館」と言い放つ。水族館。水族館? 僕と栄純くんは思わずクエスチョンマークを頭いっぱいに溢れさせてしまった。『プロポーズ』とは、服も場所もバッチリ決めてムードを意識して…と男の力の入れどころのようなものだと思っていた。安易だけど、漫画やドラマで見るのはどれもロマンチックで大人っぽいから。多分栄純くんも同じイメージなのだと思う。「降谷、スーツで水族館行くの?」なんて聞いて戸惑わせている。メディアから刷り込まれているだけで、実際プロポーズにドレスコードなんてないけど。

「なまえはいつも、僕が幸せだとつられて幸せになれるって言うんだ。僕が笑うとなまえも大体笑ってくれる、多分ほんとなんだと思う」

なかなか減らないビールジョッキを両手で包み込んで、降谷くんは一生懸命説明をしてくれた。普段はこんなに長い文章を自ら紡いだりしない。お酒の場の空気と彼女への愛情が背中を押しているのだろうか。

「だから、僕が一番幸せな場所でしようと思って。そしたらそこをなまえにとっても一番幸せな場所に出来るんじゃないかって」

栄純くんはいつのまにか静かになって、真剣に降谷くんのいっぱいいっぱいの言葉に耳を傾けていた。ぼくも居酒屋の喧騒なんてさっぱり忘れて彼の声だけを聞いていた。「それってすごく、幸せなことだよね」未だにたどたどしさを残した締めくくりをして、降谷くんは僕たちに微笑んでくれた。三人とも笑顔だった。みょうじさんにはやっぱり降谷くんしかいないなと、強く思った。




そして本当に降谷くんは、大好きな冬の水族館でプロポーズをした。イルミネーションイベントの華やかな音楽をバックになぜか現地から報告電話をして来た時は、首を傾げつつもみんなで沸いたものである。

「降谷くんなら、みょうじさんのこと絶対幸せにしてくれるね」

紅茶の湯気が僕の浮ついた声と一緒に登っていく。そうだね。微笑んだみょうじさんは、プロポーズの話をしてくれた時の降谷くんとそっくりの表情をしている。羨ましいけれど、妬ましさは生まれない。無意識に応援してしまう。彼らはそんな美しいカップルだった。降谷くんが彼女に幸せか聞くと言うことは、その時まさに降谷くんが幸せだということだ。なんて破壊力の惚気なのだろう。

穏やかな沈黙が訪れたところで、みょうじさんは壁に掛けられた時計に目をやって、呆れ笑いと共にため息をついた。しろくまさんスリッパを鳴らして立ち上がり、寝息を立てる降谷くんの頬をむぎゅっと強く挟みに行く。

「暁、そろそろ起きれる? 春っちもういるよ」
「……んん」
「うさぎさんスリッパ履いてくれたよ」
「……おもてなし…」
「遅いわ」

紅茶に温められているであろうみょうじさんの掌に頬を擦り寄せながら、降谷くんは亀のようなスピードで起き上がった。うわーすっごい甘えてる。今度ベンチで寝たら同じ起こし方してみようかな。見守る僕を視界に捉えた途端、降谷くんのぼーっとしていた瞳がぱっと輝いた。あれ、お嫁さんそっちのけじゃん。それだけ降谷くんの中で彼女の存在は常なのかと思うとまたにやにやしてしまう。

結婚式は降谷くんが一年前にプロポーズしたあの日。オフシーズンの真冬に、みょうじさんは改めて真白の花嫁となる。
おめでとう。彼に対してもう何度口にしたかわからない言葉を投げかけると、降谷くんは新居のリビングを見渡してからやっぱりみょうじさんと同じ顔で微笑んだ。








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