眠っている暁の手が、すっぽりかぶった布団から出て来て宙に浮いた。神経も筋肉もばっちり使っているのに無意識だなんて人間はすごいなあと、わたしは特にその手をどうするというわけでもなくただ見つめていた。真上に向けて伸ばされた手は右に行って左に行って、敷き布団の上に落ちる。どうせ夢の中でも白球を追いかけているのだろう。太陽と重なって硬く輝くさまを、わたしとふたりきりの暗闇から抜け出して見に行っているに違いない。

夢でもわたしに会っていて、会いにきて。そんな願いわたしは考えついたこともないけれど、暁は多分まっすぐに望んでいる。
「眠ってても僕のこと好き?」
初めて彼と同じ布団に転がった時、そんなことを聞かれた。暁がよくわからないことを言うのはいつものことなので、わたしは特に戸惑いもせず「覚えてないけど、それしかなくない?」と正直な返事をした。暁は「それしかない」とその部分だけを何回も何回も反芻してから、嬉しそうに目元をふんわり輝らせて、瞑って、数秒で寝落ちした。

そんなわがままなことを望むくせに、当のあんたは野球かい。家前の道路をバイクの過剰なエンジン音が過ぎ去っていく。暁の快眠を、楽しい野球を雑音が蝕む。顔も知らないライダー畜生へ呪いを飛ばす。こんな風に過保護にかわいがってきてしまったからなのか、気付けば暁は出会ったその日よりも何倍も何百倍も貪欲に無邪気になっていた。

わたしの心配などつゆほども知らないであろう暁の寝息リズムは軽やかなままだ。秋の気温に右腕だけを晒したまま、ぐうぐうと安らかに眠り続けている。重い腕を持ち上げて布団に戻してやろうとしたのに、腕は身じろぎとともに手元を離れてわたしの背中へ回った。咄嗟に暖かいものを探したのだろう。微動だにしなくなった重い身体は暑く湿っている。暁だけずっと夏に生きているかのようだ。生き急いで冷えて渇いて行くわたしを抱えて暖めて夢へ誘う。カーテンから漏れ始めた朝日に背中を照らされた暁は、太陽の子どものようだった。



濁った音に目が覚めた。と言っても目が覚めた理由に気付いたのは、寝返りを打って暁の姿を確認してからだった。住宅街の朝の静けさに隠れるように、小さく小さく音を立てて、暁は洟をすすっていた。頬骨に掌を押し付けて、大泣きしていた。何があった。聞く前に、暁の水気ばかりの瞳がわたしの起床を捉える。呆然と見つめているわたしより先に暁が口を開いた。

「とまらない」
「えっ?」
「これどうすればいいの」

いつも下へ下へと潜るように進んでいく暁の声は、すべての音がばらばらの方向へ泳いでいた。
こんなに涙が溢れているのに、暁は妙に落ち着いていた。自分の涙ただそれだけに動揺しているかのような。雫が垂れるほど濡れてしまっている掌を引っ張って握る。意識を落とす前にわたしの背中を暖めたものとはまるで違うもののようにひんやりと、ぬるい涙を冷やしていた。


「怖い夢見た?」
「覚えてない…」
「起きたら泣いてたのか」
「起きてから泣いた」
「えええ?」

ぼんやりした受け答えの最中も、暁の切れ長の瞳からは涙が流れている。眦から滑り落ちるのに焦れる暇もないほど、絶え間なく。袖を伸ばして拭ってやろうとすると「寒くなるよ」と短く言ってわたしの手を避けた。幼子のように首を振って逃げるたびにしずくが新しくパジャマに染み込んで行く。お互い様である。

数時間前の暁を思い返す。安らかだと幾度も思った。バイクの爆音にも負けないくらい、それこそ夢中で夢を楽しんでいたはずだった。太陽の子どもはどこへかき消えてしまったのだろう。暁の背中へ目を向ける。冬に攻め込まれつつある秋の空は暗く曇っていた。

「多分なまえといたんだけど」
「夢のなかで? 野球してたんじゃないの」
「野球…?」

大好きな単語を聞いて、顔中にちらばった涙とは違うきらめきが満ちるのがわかる。なぜはしゃぐ。泣いてんだぞお前は。お前が。心配して損したような気になったものの、まだ涙は止まっていない。眉尻を下げて潤んだ瞳でわたしを見る。暁は美しい造形をした男だけれど、正直今の彼に甘美の成分はあまりない。べしゃべしゃと子どものように頬に涙を染み込ませて、そろそろかゆくなってくる頃だろう。でも初めて見るその表情は、なんだかんだ言って、魅力的だった。

夢の中でも僕を好きでいて。そんなわがままを押し付けてきたひとが、夢の中のわたしに振り回されてこんなに泣いて困っている。色欲をかけらも孕まずに潤んで輝いている瞳に唇を寄せる。「しょっぱいけど」暁はいつもの調子でそんな的外れな断りを入れながら、おとなしく目を閉じるとわたしの背中へ両腕を回した。
わたしも彼の背中をあやすように叩いてさすってやる。母のように手先で優しさを伝えてやりながら、唇だけを恋人の支配欲で満たして涙を喰う。異性の涙は性的興奮を抑える働きがあると、いつかふたりで見たワイドショーで語られていた。そんなことないけどと暁はしれっと呟いていたけれど、わたしも暁と同じ気持ちだ。

かわいくないえぐい思考で汚されているとはまたつゆも知らない暁は、長い睫毛をぱたぱたさせてわたしの濡れた唇を見た。なんで涙なんか吸ったのかよくわかんないけどちゅーしてもらったから嬉しいからいいや。そんな、子どものような顔をして、塩辛い湿り気を取り返しにきた。角度を変える度に涙で冷えた頬が時折ぺとぺととくっついて落ち着かない。

それも乾いてしまうのではないかと思うほど長い時間が経って、暁はようやく涙の奪還を終えた。背中に回されていた手が、朝方以上の熱を持ってわたしの腰を引き寄せている。

「とまった」

唇と入れ替わりのように水気の失せた瞳を細めて、彼は低く低く潜るように囁く。微笑んだその瞳は、涙以外のものでぎらりと輝いていた。










[] []



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -