高速稼働中、と電子案内されたエスカレーターに導かれていた。風も何もない地下のコンクリートに、暖房の重い熱が漂っている。一段後ろのわたしに当たらないようにそっと上着を脱いだ亮介が振り返って「別に東京のとスピード変わんなくない?」と言う。東京と神奈川では流れる時間の感覚が違うのかもしれない。あっちはなんとなく、いつだって生き急いでいる気がする。

受験勉強の息抜きになにをしようかと考えて、わたしはなんとなく、横浜に行きたいなあと言った。亮介は首を傾げてなんもないじゃんと返した。わたしも亮介も出身は神奈川県で、みなとみらいにも中華街にもとっくの昔から馴染みがあって。東京の学校で出会ったわたしたちが出会う前からの馴染みを共有できる、それを味わいたくて、なにをしに行くというわけでもなく電車に乗った。

なにをすればいいんだろう。数ヶ月前まで後輩だった倉持くんからは「横浜っつったらしゅうまいか肉まんッスね!」という助言を頂いた。
神奈川出身の伊佐敷からは「カップルがランドマークタワーと赤レンガ行かねーでどうすんだよ」とお叱りの言葉。地元民だろうがなんだろうが、実際たいしたイメージは持っていないということだけがわかった。

亮介はまだまだ食べ盛りだけれど、喜んで食べ歩きをするタイプでもない。そうなると中華街は合わないだろう。食べ物も雑貨の見物も興味のないタイプにとって、あの街は怪しい外人と観光客が通りに押し込められているだけの肉まん売り場である。
みなとみらいがいいなあ。そうお願いをして様子を伺うわたしに、亮介はまあいいんじゃないの、と他人事のような口ぶりで笑って見せた。

エスカレーターを登り切って開けた視界を、また沢山の人が覆う。人をよけることに慣れ切った人、そうでない人。わたしと手を繋いで、前者の亮介がするするとJR改札への道を開いていく。
帰省以外では全然高校から出ることがないくせに、わたしも亮介もなぜかなんとなくICカードを持っていて、遠出デートしやすいことを今更知った。「春市がなかなかうまくタッチできなくてさ」ちいさな弟くんがブザーにおろおろする様を想像して笑う。地元に近づいたことで過去の記憶が蘇りやすくなっているのだろうか。

左端のホームへの階段を快活に登っていく亮介の足は、現役の頃と比べてもあまり衰えていないことを感じさせた。このひとは本当に野球するのが、動くのが好きなんだと、最後の数段を弾むように駆け上がった後ろ姿を見て思った。わたしの体力は落ちていた。振り返った亮介が手を伸ばしてくれる。開いた距離はいつだって数秒以内に埋められる。

「今度キャッチボールでもする?」
「キャッチボールで体力つくかなあ」
「じゃあ俺の球拾い係」
「ハードすぎ」
「文句多いんだけど」

電車が入ってくる。頻繁に利用していたわけではないけれど、馴染みはある色合い。東京とは真逆の方向へ向かう電車に、亮介と乗る。



なんとなく、高校を卒業したらもう会えないような気がしていた。マネージャー目線から見ても小湊亮介という二塁手は眩しくてかっこよくて憧れる存在だった。実弟だけでなく沢山の選手から尊敬され追いかけられていた。それと同時に、追うより追われる立場の方が大変なことも、誰よりも努力していることも周りには感じさせない強かさがあった。

選手とマネージャーのユニフォームを脱いで、野球という接点を失って。そしてただの同級生の恋人になったわたしは、なぜ今小湊亮介の隣に立っているのかがわからなくなった。立たせてもらっているのかが。彼はわたしのことを好きだとは言ったけれど、理由だとかいつからだとか細かいことは何も語ってくれない。

電車が大きく揺れる。亮介の腕がよろめくわたしのリュックサックを捕まえて引っ張った。
「支えてほしいなら手そばに置いといてよ」
怒られてしまった。ごめんなさい。素直に謝って俯いたわたしの手を繋ぎ寄せながら、亮介は眉根を寄せて「なに、酔った?」と小さく聞いてくれる。いつもは余裕のある口調が少し早かった。優しい。そんなことは、よくよく考えなくたってとっくに知っている。

この休日一日を使って、三年生で野球をすることもできた。デートをするにしたって、近場のバッティングセンターにわたしを連れていって一緒にごはんを食べて帰ってくればよかった。亮介はそうしない。特別目当てのものがあるわけでもない桜木町駅に、わたしの手を引いて降り立ってくれる。わたしのためだけに、東京じゃない場所でそばにいてくれる。なにが不安なんだろう。こんなに甘やかされているのに。これからの未来に確証がないことなんてどんなカップルでも同じだって、ちゃんと知っているのに。

ガラス張りの駅ホームから見える観覧車と海。亮介はその景色を見るというよりは、景色の中で動いているたくさんのカップルを見下ろして「ほんとデートのための街って感じだよね」なんて感想を言った。行きたがったわたしに対してロマンチストだと呆れたわけではなくて、他人事のようでもなかった。

今度は下りのエスカレーターに辿り着く。スピードの差は、正直よくわからない。もたつく人の波に焦れたらしい亮介が閑古鳥の鳴く右側に首を向けてから、歩く? と振り返ってくる。きっとわたしがいなければ、それかわたしが彼にとって大したことのない存在ならば、はなから左側に立ち止まるという選択肢は無駄を嫌う彼の中にないだろう。
二人分の振動が通常稼働のエスカレーターに伝わっていく。後ろ手でわたしの手を取って、わたしのペースで亮介が前を行く。一度分かってしまうと、それからは逃げ出したくなるくらい伝わる。このひとは、こんなわたしのこと、大好きなんだ。

駅を出る。亮介が動く歩道に乗りたいと子どものようなことを言うので、わたしもなんとなく楽しくなってそこへ向かった。東京の機械漬けな観光地よりも空が広くて青くて、気持ちいい気がする。そしてまたエスカレーター。やっぱり通常稼働の。
後ろに並んでいざ行かん、というタイミングで、亮介が思い出したように小さく声を上げてわたしを引っ張った。

「うっかりしてた。俺の前来て」
「へ? はい」
「ん。上りは俺が後ろ」
「……亮介、それすごく、彼氏みたい」
「みたいで悪かったね」

背後から今日初のチョップ。せっかく亮介が恋人らしいことをしてくれても、大体わたしが照れてしまってだめである。こっちが照れ隠しをするとあっちもつんと横を向いてしまうのだ。亮介のも照れ隠しなのだろうか。そうだといいな。怒らせてるわけではないんだからそれしかないよね。そんな風に調子に乗ってもいいのだろうか。彼の心を都合の良い解釈で信じることができない。自らデートスポットに行きたがったような女が。意味が分からない。難しくて嬉しくて泣きたくなる。

高校も野球もなにも関係ない海辺に、私服を纏った亮介と立っている。ずっと手を握りっぱなしで。「離さないでね」その一言を言葉に出来ないまま。

三月の始め、東京の街で、彼の唇が同じ言葉を紡ぐことを、秋空の下のわたしは知らない。






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