「X万円」
「…は?」
「私が先日、君に渡したご祝儀です」
「……新しい嫌がらせでしたね」
「とんでもない。お返しなんて不要です。ただ私は」
「連れて来ませんよ」
「淡島くんからも一言」
「私もX万円にすればよかったのかしら」
「金でガキは釣れません」
「……………」


外気にも大分慣れてきた赤ん坊も、初めて触れるバーの空気にはさすがにきょとんとしていた。でも特にぐずりもしなかったので草薙さんが嬉しそうに笑う。

お散歩がてら、社畜旦那が仕事に行ったのをいいことに吠舞羅の本拠地にいるのである。毎日相変わらずの入れ替わりメールをよこされていたおかげで全然久しぶりの感覚がない。隅からお洒落なベビーベッドを引きずり出してきた十束さんが「久しぶりに気合入れて日曜大工しちゃったよー」なんて言う。店の自慢のバーカウンターにやたらと似合うシックな作りで、贔屓目を抜いても今までの作品の中で一番の出来だと思った。しかしそこに寝かされるはずの乳児はといえば、ふわふわした顔のままいろんな男の腕を巡り巡って忙しそうだ。

「えらい父親似やな」

「こんなにちいさくても似てるもんなんだねえ」

「ほんとにあの伏見の子なんだな」

「あの伏見のなあ……本当に…」

想像できないのはわかるけどわたしの浮気を匂わせる言い方やめてくれ。息子は気付けばバーにいたクランズマン全員に愛で回されて、一番に構いに来た十束さんの腕の中に戻っていた。
いい年の人間が大人数集まっているものの、メンバーの子供が連れて来られるのは初めてのことだ。つまり、我らがお姫様が年下と触れ合うのも初めてなのである。頬をそっとつつくアンナの指はぷるぷるしていた。かわいい。生まれてすぐからこんなにたくさんの人たちに可愛がってもらえるなんて、あいつ幸せ者だなあ。笑顔に猿比古の面影を見てどよめく男どもも面白い。




「伏見くん!」
「パワハラです」
「まだ何も言っていません」
「連れて来ませんからね」
「まだ何も言っていない!」
「生まれてすぐ来て片っ端から原始反射試して満足気に帰ってく上司とかありえないです」
「…淡島くんからも一言!」
「室長、それは…」
「……」


緊張で強張っていたアンナの顔がはっと階段の方を向いて、わたわたしつつも無事に十束さんから赤ん坊を借りた。さすがのキングもこの喧騒には目が覚めたらしい。

「ミコト、はい」

「…なんだこれ」

「サルヒコたちの」

「…………似すぎじゃねえのか。ああ、頑張ったな」

「あ、ありがとうございます」

尊さんはフッと短く、でも深く笑って、わざわざこっちにきてわたしの頭をぽんぽん撫でた。多分赤ん坊を触る力加減が分からないのだと思う。アンナに差し出された小さな生き物には視線だけを向けてソファに収まってしまった。真っ赤なフリルの袖に包まれた息子は、特に王相手にも臆することなくきょとんとたれ気味の目で見つめ返している。一向に紫煙の臭わない店内は、男ばかりだというのに生ぬるい暖かさに満ちていた。

手持ち無沙汰になって、草薙さんが出してくれた小洒落たフルーツジュースに口をつける。爽やかな黄緑と青の微炭酸に、真っ赤なチェリーが添えられていた。ああ。三人で挨拶に来たかったなあ。こんなに愛されていること、見せてやりたい。「俺に似ちまったな」なんて吐き出すように呟いていた猿比古に。この子が愛されていること。猿比古が愛されていること。




「伏見くん」
「なんですか」
「散歩には最適な気候ですね」
「間に合ってますんで」
「…仕事に取り組む父親の姿。いい教育になると思いますよ」
「俺と他人の見分けなんかつかないでしょ」
「あら伏見くん、育児に参加していないの? 最低よ」
「…して、ますけど」
「ほう。イクメンですか」
「……はあ」


「美咲、赤ちゃん抱くの上手いね。さすが」

「サルは萌抱くの下手だったよな」

生まれたのが男だと聞いて一番大喜びしたのは誰よりもこいつだったような気がする。わたしはどちらでも嬉しかったし、猿比古はどちらだろうが扱いづらそうにしたと思う。遊び倒してやらねーとな! フリーターどものなけなしの金がつめられた連名の祝儀を手に、美咲は猿比古が仕事に行っている時間に現れて笑った。わざとらしく家族が揃っているタイミングにやってきて猿比古ごと息子を抱きしめたどこかの十束さんとは大違いである。

よだれを拭いてやる美咲の姿は、完全に年の離れた弟をかわいがる兄貴だった。20歳。その子の親の、同級生。…………。人生はまだまだある。まだ大丈夫だ。

「……あいつ、大丈夫か?」

「え」はしゃいでいたトーンが突然下がったのを感じて、申し訳ないことを考えていた脳内世界から帰ってくる。特に泣きもせずおとなしくかわいがられている小さいのをあやしながら、美咲は言う。

「その、…父親、出来てるか」

まだぱちくりしているわたしに大して、美咲は真剣な光を双眸に携えて猿比古の生き写しのような子どもを見ていた。美咲は伏見家を知っているから。自分と生き写しという事は、そういうことだとわかっているから。ぶっ殺す予定の野郎の子どもを抱えて、その野郎の心配をしている優しい美咲。
対面していなくてもこんなにわかっていてくれる時もあれば、隣にいたって大切なところがとんちんかんだったりする。この話を本人にしたら、また手を握りつぶされそうだ。

猿比古ね、パパって呼ぶと普通に振り向くんだよ。

さっきのわたし以上に猫目をぱちくりさせた美咲は、ぶっと吹き出して涙が出るまで笑って、むずがる子どもをすりすり撫でまくった。その優しい動作が子ども越しに猿比古に向けられている気がして、わたしも少し泣いた。




「今ちょうど、クランのバーにいるそうですね」
「は!? なんで知ってるんですか」
「全ての目と、耳を」
「……このツンドラ」
「ふむ。私は少々外回りに出てくるとしましょう。伏見くん、同行をお願いします」
「行きませんし行かせませんけど」
「王だって市民の平和を守りたいのです」
「家庭の平和守るのも俺の役目なんすよ」
「ほら淡島君。伏見くんは立派に父親ですよ」
「ええ。安心しました」
「…………チッ」



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