吠舞羅を抜ける。
落ち着いた声音とは裏腹に苦虫を噛み潰した顔をしていたけれど、何を思ってクランズマンを辞めるなんて大層なことをするのかは分かりきっていたから、わたしは「そっか」とだけ返事してコーラを飲んだ。すぐそばでずっと見ていたわたしからしたらまあそりゃそうだろうなという感じだった。美咲美咲美咲。彼女であるわたしはちゃんと隣にいるというのにバーカウンターの端から彼が眺めて考えているのはいつも八田のこと。特別不満に思ったことはない。わたしがそばにいることを前提に猿比古は八田のことを考えるのだから。ふたりとも俺だけ見ていてほしいなんてわがままな男。綺麗だった白い肌はやけどにただれていて、三人おそろいだった徴を残念に思った。


「青服入る。公務員になるから金とか心配しなくていい。18なったら結婚」

「……………あ、はい」


じゃあ、とりあえず同棲から。
憧れの『プロポーズ』は苛々した口調で淡々とだった。照れ隠しなのは知っているから言い方に噛み付いたりはしないけれど、さすがに自分の男運を呪う。
でも強引すぎるその流れに嫌気ひとつ感じないのは重症なのかもしれない。むしろ女子高生アルバイターと中卒フリーターでははばかられた共同生活が出来るようになることが嬉しかった16歳。恋人がセプター4に所属したというのにわたしは吠舞羅をやめないままだったけれど、それに関して猿比古は特に文句を言わなかった。吠舞羅のみんなは大好きだし王のことも尊敬しているし、鎖骨に浮き上がる徴も誇りだ。しかしそれと同時にそれ以上に猿比古のことが好きだったから、もしむき出しの独占欲をぶつけられて「俺と一緒に抜けろ」って無理やり徴を焼かれてもよかったのに猿比古はしなかった。 わたしと美咲では吠舞羅や尊さんに対する熱情が少しばかりちがうことを、彼はちゃんと知っていたようだった。


「やあ!伏見は元気かな?」


猿比古が帰るまで。吠舞羅として活動できる時間は以前と比べて減ってしまったけれど、バーに顔を出せばまず十束さんが笑ってそう聞いてくれる。裏切り者の恋人、そんな扱いをされるわけでもなく(というか猿比古自体をそこまで責めもせず)猿比古がいた頃と変わらないポジションにいるわたしに八田はしばらく落ち着かない顔をしていたけれど、てっきり一緒にいなくなると思っていた旧友のわたしがまだ居座っていることが嬉しいらしい。尊さんラブっぷりをどんどん加速させながらも、時折わざとらしく思い出したかのようなそぶりをして猿比古のことを聞く。顔も見たくねえ!なんて仲間に豪語していたわりには正直な子である。今までどおりアンナの世話をしたり特攻トリオの名残を感じたりしながらゆるゆると高校生活を続けて、そして高3の秋ついに苗字が変わった。仲間たちはややこしくなったなあと言いながらも旧姓のままわたしを呼んで、敵クランズマンの嫁をかわいがってくれるのだった。

そして今、専業主婦になった19の冬。わたしは大きなお腹を抱えてHOMRAのことを考えながら街を歩いている。妊娠してからは忙しかったし体調も優れなくてHOMRAにはあまり顔を出していない。「妊婦さんがこないな気使えん連中の溜まり場におったらあかん!」って草薙さんに心配されてしまったし、なにより必要以上にひとりで出歩くと猿比古に怒られてしまう。定期的に十束さんからメールが来るのだけれど内容はといえば「八田が出産祝いってワードでググってた」だとか「伏見って家では昔とおんなじ髪型してるの?」だとか「キングの髪切ったんだけどなんか前と違う気がする(写メ添付)」だとか、いまいち吠舞羅の近況はわからない。まあ平和なようなのでよしとしよう。

基本旦那か吠舞羅幹部からしか連絡のない、そんなわたしのタンマツを猿比古が横から覗きこんで呆れたように舌打ちした。彼が下げる食料入りのビニール袋がガサガサやかましい。買い物袋を持ってくれている旦那さんとお腹の大きいお嫁さん。そう言えばとても幸せな微笑ましい図だけれど、実際旦那さんは仕事帰りで着崩した青服のまま。わたしは徴こそ見えないけれど吠舞羅のそれなりの上層部。なんだかそう聞くとヤバイ。でもそれが不謹慎ながらちいさい自慢だった。


「今更だけど、猿比古の職場のひとたちってわたしが吠舞羅なの知ってるの?」

「言ってないけど知ってた。室長なんかなまえが妊娠してんのも知ってた」

「わたしお腹出てから吠舞羅として活動してないけど…」
 

マジキモイ…。猿比古が吐き捨てたそんな言葉も彼の耳には届いているような気がしてならない。肩掛けの鞄にタンマツを突っ込んだら途端にその手を握られた。多分メールを見ていたのが嫌だったのだろう、おとなしく右手を絡めて振る。揺らしているのはわたしだけれど、彼が手をつないでるんるんしてるみたいでかわいい。笑うわたしを怪訝そうに見た猿比古も、目が合うと切れ長のそれを細めた。こんなに柔らかい顔もするのにどうして他人にはああなんだろうと思う。野菜を食べないのと八田へのヤンデレっぷり以外はとってもいい旦那さんなんじゃないだろうか。変態加減以外は。変態以外は。

「今日のお仕事どうでした?」「……ロシアンシュークリームさせられた」「は?」「カラシがハズレで、他は生クリームとあんこみっちり。ハズレのほうがまだマシだっつの」定時に職場を出てきてわたしと買い物をしたわけだし、つまり暇だったということだろう。ツンドラの女って天然なんだろうか、天然が極まってそんな悲惨な人物になったんだろうか。お味を思い出したのか眉間に皺が寄った旦那の手をぶんと振って意識をこっちに戻した。巨乳美人に嫉妬したわけではなく単純な同情。またガサリと一際大きな音をたててビニール袋が揺れると同時にぱっと猿比古が前を向く。俊敏な動きは珍しい。どうしたのと聞こうとしながらつられて顔を上げれば、予測通りわたしの仲間が坂を滑り降りてくるところだった。


「よお美咲ぃ」

「うわっサル!となまえ!」


左右それぞれに忙しく表情筋を動かしながら、複雑な三角関係にある八田はスケボーから降りた。ひとしきり隣の猿比古とテンプレになりつつある言い争いをしてから改めてわたしの方を向く。「久しぶり。その、あれだな、腹でかくなったなあ…」すこしデリカシーのない言い方だけれど、きらきらと子供のような瞳が純粋な感動を物語っていてわたしと猿比古は顔を見合わせた。こいつほんとかわいいなあ。少なからず猿比古もそう思っているのだろう。


「だけどよ。猿比古が父親なんてまだ考えらんねーよ、大体ガキ嫌いじゃねーかお前」

「そうだな、同い年なのに童貞な美咲には考えられないだろうなあ」

「んだとテメ、俺だってすぐ子供くらい!」

「いやまず彼女作らなきゃね」


中学時代にはよくあった2:1の陣形に八田はしばらくぐぬぬの顔をしていたけれど、突然けらけら笑った。「やっぱお前らセットだな。並んでんの久々に見たけどさ」慣れないことを言われて隣で大きな舌打ちが響く。きっとわたしがこの場にいなければ即喧嘩になっていたのだろうが、お互い身重のわたしを放って真横で殺し合いをしようとはさすがに思わないようだ。八田って全然猿比古の気持ちをわからないくせにさらっと照れることを言う。鈍感天然を相手に何年も四苦八苦している旦那の手を握り直してやると、やけっぱちなのか力いっぱい潰され返されてすこし痛かった。

半笑いで八田から目をそらすと、大分遅れて息を切らした冬仕様の鎌本が駆けてくるのが見えた。泣きそうな声で兄貴分を呼んでいた鎌本は坂の中腹辺りで八田と対峙している青服を見咎めて一瞬立ち止まった。でも仲良く手をつないで立っているわたしと目が合うと「ひさしぶりだなあ!!」と大声を上げてやってくる。隣で再び舌打ちが響いたけれど、見上げて微笑むと帰路に戻ろうとした足を渋々引っ込めてくれた。今日はなんだか優しい。


「みょうじ、ほんとに母親になるんだな……なんかやっと実感湧いたぜ…」

「なんで関係ない鎌本がしみじみとしてるの」

「吠舞羅みんなで安産祈願してるからな、王の加護でバッチリだろ!産まれたらちゃんと連絡しろよ!」

「うちのガキはクランズマンじゃねーよ。…つかみょうじじゃなくて伏見だし」


巨体の存在をガン無視していたはずの猿比古がそこは許せなかったのか横から棘を刺してくる。だってなんかややこしくてよ、そんなことを言って巨体を揺らす昔の仲間に猿比古は居心地悪そうにまた手の力を強めた。ほんとにこの子はわたしと八田以外の人間と会話するのが嫌いだ。今日の惚気と旦那いじめはこんなもんにしておこうかな。わたしの腹をちらちら見ていた八田がふとくしゃみをして、それは欠伸のように伝染った。感動に身体の信号が負けてしまっていたけれど、ここは冬空の下なのだ。

「じゃあそろそろ、」「もういいだろ。帰んぞ」わたしがふたりに向き直るよりも早く、溜息と共に猿比古が突然動き出してぐんっと引っ張られる。じゃあな美咲。言い捨てて振り返らない彼に八田はぎゃあぎゃあまた喚いて、わたしに向かってがんばれよーと叫んだ。鎌本からも野太い優しい言葉。おなかに届いたかな。空いた手でお腹をさすりながらにこにこ歩くわたしを猿比古は不満全開の目で見ている。そんな顔するなら吠舞羅をやめろって一言言えばいいのにそれをしないのは、このひとが心の底から赤のクランを嫌っているわけじゃないからだといいな。だって猿比古照れるときも怒った顔するもん。「なんだよ。ガン見すんな」さっきまであんなに柔らかく笑っていたのに、ペースを崩されたと言わんばかりの態度でわたしが駆け足にならないぎりぎりのペースで家までの道を急いでいく旦那はかわいくて仕方がない。


「寒いなら早く帰んねえととか思わないわけ?」


家までずっと黙ったままだった猿比古が、玄関に入ってわたしの足元にしゃがみこんだ拍子に聞く。ヒールのないブーツが脱げていくのをぽけっと見つめながら「ごめんね」と言うと、猿比古はまたこれみよがしに不満気な顔をしながらも手際よくわたしの靴下も脱がしてくれた。おてんばしてお世話係に怒られたお姫様みたい。心配するときも怒るんだから困ったものである。
『過保護』の感覚が日に日に麻痺していくわたし。彼が隣にいる時は、自らなにもしなくても大体気付けば部屋着になってソファに座っている。怖い幸せ。ふくらんだおなかに当ててしまわないように気を使いながらわたしを着替えさせる冷たい手。


「猿比古も手凍ってるね」

「魔法のキスで溶けるやつ」

「きも」

「はあ?お前がダラダラ喋ってるから冷えたんだよ責任とって溶かせよ」


自分から言ったくせにまたおこである。あの時意地でもくしゃみ我慢すればよかったなあ。こうして今日もまた猿比古の中で、鎌本の評価だけが理不尽に落ちていくのであった。


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