※嶺二×保育士




「あ、そういえば昨日帰りにガソリン入れといてって頼んだのに忘れたでしょ」

「あー…ごめんちょっ」


可愛く言えば許されるとでも思っているのか。よろしい許す。お風呂も入ってテレビを点けて。しなくてはならないことはいくつかあるのに心ばかりがじりじりとしている。学生時代のテスト勉強みたいなものだろうか。淹れただけの紅茶が1人で勝手に冷めているテーブルに向き直った。明日までにやらなくてはいけない週案。こんなもののレパートリー何十個もわたしの頭にはないっての。以前も書いたようなことばかり浮かんでは定まらずに落ちていく。寿退社してしまえばよかった。寿と結婚して寿退社なんてなんだか猛烈に恥ずかしくて出来なかった。


「おっ、お仕事開始?えらいっ!がんばれいちゃんしてあげよう!」


シャーペンを持ったわたしを見て、ソファに座る嶺二が後ろから騒ぐ。なんでいつも手の届くところにマラカスがあるのだろう。体のくねりが何やらオーバーなので多分酔っているのだ。いつのまにやら角ハイボールの缶がからりと飲み干されてソファの下に鎮座していた。もうわたしが数ヶ月口にしていないアルコールのにおい。

彼はひとしきり騒いで酔っ払い絡みをしたあげく次の日にはアルコール分解を終えてケロリとしている、楽しいだけの酔い方をする。わたしは女なので変に飲まされることはあまりないけれど社会人としては羨ましい限りだ。ROTおそろいなのだと延々自慢していた緑色のスエットで(次はQ★Nでおそろいがほしいのだと言う。むりだろ)、ソファに背中を押し付けたまま飽きることなくシャンシャカしてくる。そしてわたしの手は反比例するかのごとくうだうだと進む。「あっ動いたら酔い回った!ヘルプ!」「死んどけ」マラカスのなかで最後の砂が滑り落ちて、久々にテレビの音が耳に届くようになった。がんばれいちゃんタイムは5分弱で終了である。わたしの週案は5分の1ほどしか進んでいない。

すっかり先生だねえ。言いながらも嶺二は、床に座っているせいで随分下にあるわたしの頭を親のように撫でた。


「よしよしするのはわたしの仕事なんですけどー」

「じゃあなまえ先生をよしよしするのはお兄さんの仕事でしょ」


得意気な顔で空いた手を腰に当てる25歳、あたりまえ体操でも始めそうなノリである。
成人男性がひとり大人しくなると、それなりに余裕のあるリビングはテレビから流れる音声に支配された。時折缶をぺこりとへこませる固い音。そして耳朶のすぐそばでさらさら髪が動く。テンションの上げ下げというかスイッチの切り替えどうにかならないのだろうか。…心臓にわるいのだ。さっきまで騒がしく邪魔ばかりしていた手は打って変わってわたしをふわふわした気分にしてくる。どっちにしたって困らせる要因にしかならない。

そんなこんなでなんとか完成させた週案は内容以前に誤字がありそうだ。無理矢理思考回路に貼り付けていたこどもたちのことを振り払うように勢いよくソファに座った。後頭部にあった嶺二の手はそれに伴って流れるように肩に移動して、お酒の匂いのする唇がすっぴんの頬に寄る。んーっ。キスするときによく謎の鳴き声が出るところがわたしはだいすきなのだった。指摘したことはない。指摘するとあざとくなることを熟知しているから。自然体の嶺二がたまらないのに、嶺二はわたしにより愛される寿嶺二になろうとするのだ。その努力は激しくこう、来るものがあるのだけれど、いまはちょっとお呼びでない。


「そうだ。なまえ先生と言えばね、クラスにほっぺちゅーがマイブームの子がいてね」

「……はいはい?」

「その子が最近なぜかちゅーじゃなくてがぶっになったの。すこし困ってるんだ」

「………れいちゃん初耳ちゃんだぞん?」


シャラン。謎のマラカスSE。
いつのまにか角ハイボールから楽器に持ち替えた左手はなんとなく力がない。ちゅーしたままの数センチの距離でいわゆるマジな顔をして話を聞いてくるものだから、気恥ずかしくて逆側へ顔をそらす。そちら側の肩に回されたままの手が応じるように頬を撫でた。


「男の子なんだよね?」

「うん。2歳の」

「いやだ奥さんぼくというものがありながら!」

「おませさんだよねえ」

「そうだねぼくも人のこと言えなかったけど〜って無視かい!」


再びガシャガシャ始まったマラカスタイムを抑えこんで強制終了させると、嶺二はやっとわたしから距離をとってソファに足先を乗せた。ねっとり重い空気を感じて仕方なくそっちを向く。待ってましたと言わんばかりに目を逸らされる。あっこれめんどくさいやつだ。見るだけ見てやったし声はかけないままでいよう。わたしがいつものように意思を固めたあたりで嶺二もさっさとひとりで勝手に寂しくなって、そうっとわたしのおなかに頭を乗せた。

「子どもは女の子がいいな」泣いたあとみたいな枯れ声を出して嶺二はわたしの頬を上書きのように噛んだ。「セクハラおやじにでもなりたいの?」笑ってやれば逆だよもう!なんてまた泣く。嶺二が母親にプロポーズするようなませた子どもだったことは聞いたことがあるので、その血をばっちり受け継いでいるおなかの子どももまあそんな感じだろう。嶺二が危惧しているのは十中八九それなのだろうけど、わたしはあえてそれを楽しみにしていることを伝えないでおいた。


[] []



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -