暑い暑いって駄々をこねたからかわいくポニーテールに結んでやったのに、仕事から帰ってきたイルミの髪は通常運転に垂れていた。「満員電車で崩れた」庶民か。視線を辿った彼が長いそれをひっぱりながら言って、ポケットから髪ゴムを取り出す。なくさずに持ち帰るなんて希少だ。弾かれたゴムはいまいち放物線を描かないうちにわたしの右手に収まった。

そのままシャワーへ見送って、アイスコーヒーでも煎れて差し上げようと腰を浮かせる。脱ぎ散らかした服を洗濯籠に放ったりハンガーに掛けたり、部屋の人口が増えた途端忙しなくなるわたしの生活は基本こんな繰り返しで形成されている。誰かが来るまでは誰にも会うことはない。数少ない「誰か」も大体キルアさまかカルトさまだ。ミルキさまはあまりお部屋の外には出られないし、アルカさまは、まあ、うん。

シャワー帰ってきたらタオル放るんだろうなあ。まるで心を読んでいるかのように的確に、帰ってきたイルミは湿ったバスタオルをやたら綺麗なフォームで床にスローインした。「あー暑」「パンツでうろつくなってば」蝋の如く白い肌が派手なパンツに映えて、なんというか、目にわるい。それにこいつの体にはムダ毛という概念がないのだろうか。適当に引っぱりだしたスエットを着ながらうるさいなあだの何だのぶつぶつ呟いたわたしの主人は、反省した様子もなくよっこいしょとソファに座って手招きをした。昔はここまで俺様じゃなかったはずだ。渋々やってきたわたしを膝に乗せようとして、なぜか床に降ろす。


「ね、足の甲にキスして」

「…はあ?いきなり何言ってんの」

「いいから」


何だろう。一体なんの思い付きだろう。さすがというか何というか、このわがまま野郎意味がわからない。ちゅ。結局従ってしまうあたり所詮わたしはわたしだった。特に満足気でもなく、わがまま野郎はきれいな脚をくるりと動かす。

「次、爪先。脛…はいいや、そしたら手の甲、指もいいな」……なんだろう、これは。まるでやらしいタイプの奴隷だ。役職上は一応身の回りのお世話係であるわたしの仕事ではない。ちらりと見た黒い眼は特に私情の欲を孕んでいるわけでもなく、とりあえずただ言われたとおり唇を押しつけておいた。


「なんなのこれ」

「キスには場所によって意味があるって、ヒソカが」

「…変態知識か」

「ね。気色悪いだろ。なんとなく実践中」


それを実践するこの人も十分変態のかおりがすることは本人には言わない。男はみんな変態だからいちいち気にしてたらきりがないよとカルトさまが言っていた。幼い頃から屋敷詰めにされたわたしにはあまり関係のないことである。男は、イルミしか知らない。…響きがまさしく変態ちっくであるが事実なので仕方がない。今度こそわたしを向かい合わせに膝に乗せてソファに深く沈んだイルミが「まず足の甲だっけ」と語り出す。


「足の甲、隷属。爪先は崇拝、脛だと服従」

「初っ端からイルミ節だね」

「まあオレ専属ではあるしね。手の甲敬愛、指先賞賛」

「賞賛!?したことないわ」


冗談が下手だなあ。イルミは口元だけで笑った。ガチだし。わたしばっかり変なのさせられてなかなかに不満である。もうすこしこう、ロマンのあるものはないのだろうか。こんな一方的なものではなくて。普通の恋人のようなやわらかい意味合いのもの。一度でいいから、ロマンばかりこだわったような生ぬるいこともしてみたい。街に出てデートだとか。

使用人が主人に望むものではないので心にだけぺらぺら喋らせておいて、肝心の口は強固につぐむ。その関係を越えた今更、言ってはいけないわけでもないが、わたしの中には妙な線引きがあった。そしてその線上に立つ壁はなかなかに重厚だ。
専属というのもイルミ本人が勝手にわがままを言っただけでキキョウさまがどう思っているかはわからないのだ。飼い主が死んだらきっと犬は処分される。庇ってくれそうなひとは今この屋敷にはいない。さっき盗み見た漆色に今度は見つめられて意識を戻す。

「何考えてたの?」「特になにも」「オレに隷属してるくせに嘘なんてよくないと思うけど」「してねーよ」「えー?」20過ぎにもなってかわいいブーイングをしてきやがる。これがいわゆる萌え、恋は盲目である。自分で話を振ってくるくせに終始気だるげ、一体こんなやつのどこに賞賛して崇拝する価値があるのか。

わたしが煎れたコーヒーをがぶがぶ胃に収めながら、イルミはソファの上で子どものように揺れた。一緒に揺れてやりつつ、まじめにもうちょっと自然なロマンがほしいななんて途方にくれる。キルアさまに借りて何回か読んだ漫画の中では戦う男女も戦わない男女もきれいな恋愛を繰り広げていて、うらやましかった。もちろんイルミにそれを伝えたことも伝える気もない。
わたしは何だかんだ言って、やはり使用人でしかないかもしれない。洗濯物なんて誰だって畳めるし、鋲も拾えるし、髪の毛も切ったり直したりしてやれる。もし街に出て大衆に紛れたとして主人がわたしを見つけてくれる自信はない。そのくらいにはわたしは平凡で、奇異なのは「イルミに気に入られている」というだけ。いくらでも捨て置けるそのへんの馬の骨。まあ、それ以前に紛れ逃げたり出来ないけど。

飲み干したマグカップを窓辺に置いて(すぐ割るくせにそういうとこに置く)、イルミはわたしの体に手を回した。とりあえずみたいな顔をして鼻の頭にキスを落とす。「…鼻は愛玩ね」またお勉強が始まったらしい。恥ずかしいのも痛いのもこそばゆいのも、10年を越える間でたくさんした。キスくらいでもうわたしの心は動じてはくれない。それが微妙にさびしくて強く目をつぶってみたけれどいまいち空気は変わらなかった。もしかしたらイルミの方は最初からなにも思っていないかもしれない。

耳は誘惑。喉は欲求。首筋に指をすべらせて、服越しの胸元に整った顔が埋まる。「や、」「胸はね、所有」所有って。もうちょっとなんかないの。艶めく黒髪に手を置いて頭を引き剥がすと、その手首にも流れるように一度ふわっと唇をつけた。…あ、案外やわらかい。毎回普通にするときはこっち側の弾力もあって、イルミのそれのやわらかさはここまで分からないから妙な気分だ。手首は欲望だそう。シャツを捲りあげて腰骨にも口を付けてからわたしを見上げるイルミの妖艶さが憎い。スエットなのに。何年も前に買ったやつだからズボンの丈足りてないのに。


「…で、腰は?」

「なんだ、乗り気じゃないか」


むかつくので聞くのはやめた。えろいことに持ち込みたいだけなのかとも思ったけれど、どうやらやはり違うらしい。跡をつける訳でもなくただひたすらにちゅちゅっと吸って回るだけ。官能的ではない。首筋に歯を立てたままわたしの肩で頬をつぶして、イルミは何やらんーんーと唸った。いじけた時のキルアさまに似ている。濡れ髪を服に押しつけるのは正直やめていただきたいなあ。眠いのかなあ。そう思いながら子どもにするように撫でてやった。

カーテンを引き忘れた窓から鬱蒼と広がる色合いの中で、何かあったのだろうか。重々しく沈んだ夜。わたしはきっともう一生触れ合えない世界。ひとに出会った数もひとを殺した数もなにもかもわたしはイルミに劣る。勝つということは捨てられることだ。ならばわたしは支配されたままの愚図でいたい。そんな感じの、忠誠。


「唇は愛情だけどしてほしい? あ、いいや、オレがしたいからすればいいんだ」

「そういうのは聞かな、…………最後まで言わせてよ」


ごまかすように瞼にも。外とはまた違う闇の世界が見える。さっきからぎりぎり食い込む指が痛くて、でも特になにも言わずにいた。もし何かあったのだとしてもイルミが話し出すまではわたしはなにも聞かない。話さないならそれは何もないということ。今日は多分あったのだろうけど。
あるのならただ気分のままに愛して傷つけてくれればいい。もしもなくても、わたしはただこの部屋で待っているだけ。

湿り気を帯びていく自分の肩先を気遣いながら、ふと首に手をやる。噛まれたところだけ熱く感じる首元に絡まった鎖を、すこしだけ緩めた。冷たい。この冷たさがゾルディック家からわたしを守るもの。歪んでいるだけかもしれないけれど。そういえば腰と瞼は結局どういう意味なんだろう。ゆるく抱きすくめる彼の吐息は熱い。彼が死ぬまで、わたしはきっと凍えない。



腰:束縛
瞼:憧憬


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