キッチンシンクが鳴っている。士郎がわたしより先に起きるなんてめずらしいこともあったものだ。携帯の光に顔をしかめながら時間を見れば大して早くもなかった。なんだ、早起きだったら褒めてあげようと思ったのに。水が止まって今度はぺちぺちと化粧水を叩くかわいい音がする。流しで顔を洗ったらしい。あのスピードじゃまだ全然頭が起きてないのだろう。
士郎が起こしてくれるまで二度寝を決めようとおもったのに、彼は意外とさっさと帰ってきた。なかなかな勢いでドアが開いたかと思えば「起きてなまえちゃん、どうしよお」なんて泣きそうな声。なんだなんだ、仕方ないので無理矢理瞼を開く。見えた顔はやっぱり泣きそうに歪んでいた。動揺と焦燥感。読み取れるのはそれ。
「なに士郎、おいで」
「あのね、ピアスのね、キャッチがね」
「…付けたまんま寝るからでしょ」
一瞬怖いゆめでも見たのかと思ってすこし冷えた身体を引き寄せてやってから、わざわざきっちり洗顔してから泣き付くわけなかったなと甘やかしたことを微妙に後悔した。士郎は横になったわたしの肩先に潰れてべそべそしている。これはたぶん、まだちょっとだけ寝呆けているのだ。
カーテンの隙間から日が差して、士郎の髪を銀に光らせていた。それをかき分けるとちょうど耳の裏側が見える。確かにない。踏んだら地味に痛くて不愉快なので困った。腰を鳴らしながら起き上がる。枕元にはないようだ。
「どんなやつ、何色?」「おそろいで買ったやつ…いたっ痛いよごめんね!」そんなやけくそみたいなごめんなさいじゃ許せない。どうして上手い具合にそれを失くすんだろう。不本意ながら捜索意欲は増した。
二人分の枕をひっくり返して床に落とすと、士郎がわたしのそれを抱きしめながらベッドに乗り上げてくる。人の枕を嗅ぐな。探しなさいと頭を叩くとはあいと伏せていた視線を滑らせた。大事にしているくせに失くすだなんて何とも言えない。そういやアツヤのマフラーを汚した時もこんなんだったなとシーツを手探りしつつ思い出した。紙メンタルは完全には治らないのだ。
そうこうしているうちに士郎はまた眠たくなってきたのか、四つんばいで足元を探すわたしのがら空きボディに腕をのばした。「うざいよ士郎」「さむいんだもん…」誰のせいで暖かい布団をひっぺはがすはめになっていると思ってるんだ。また方向転換して枕元のシーツを剥がす。
士郎はついに布団のないままわたしにへばりついて丸まってしまった。甘いマスクで観客を悩殺する吹雪士郎はどこへ行ってしまったのか。重い身体で一歩膝を踏み出すと、さっきの士郎の髪のようにちらりと眼下でなにかが光る。ほんとだ、おそろいのやつだ。つまみ上げて振り返れば失くした本人は、わたしの横っぱらに顔をうずめたまま完全におねむモード。
「あったよ」
「んー…付けて」
「寝るならだめ。ほら一回離れて」
んむ。不満そうなうめきを上げて案外がっしりした手が離れた。何かを言おうとして開いた口があくびを産んで閉じて、これは確実にもうひと眠りするつもりだな。キャッチのないピアスを外して背中を押せばうまい具合に枕に頭が収まる。暖気の逃げ切った羽布団を掛けてやると士郎は半分ねむったままにこにこした。泣いたカラスが何とやら。
「なまえちゃんも寝るでしょー?」
「おなかすいたんだけど…」
「僕はまだ食べたくないなあ」
「…はい」
ここに来て士郎さま君臨。入れと言わんばかりに空けられた布団に潜り込んでぬるい湯たんぽを捕まえる。ああピアス置いてない。サイドテーブルの方へ身体をのばすと、また隙だらけの胴体に巻き付けられた長い腕。「起きちゃうの…?」「寝てやんよ」「なまえはいい子だねー」そんな会話をもにゃもにゃした後、士郎はそのまましゃべらなくなった。寝てしまったらしい。
擦り寄ってくる頬は化粧水でぺたぺたしていて正直うざったいし、おなかもばりばり鳴っている。でも暖かいシートベルトがはずれないかぎりわたしはここから逃げられない。逃げる気力も体力もあんまりなかった。成人男性には感じられない寝息がし始めて、二度寝しようと腹を括る。次に気がついた時きっと士郎はわたしを揺すって、ご飯できたよなんて優しいことをほざくのだ。吹雪士郎はそういうやつなのだった。
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