うちの親はご存じの通りああだったから、夜になるまでは誰も帰ってこなかった。夏は蒸された、冬は冷えた部屋だけが俺を待っている。
なまえの家もそうだったのだといつだったか話された。学生時代も一人暮らしを始めてからも誰もいない部屋に帰っていたと。俺の親戚。東京に一人暮らしの、俺の居候先の社会人。

愛媛から帝国に通うのは無理だったから、上京してしまってから何となく疎遠になっていたあいつの家に転がり込んで大分経つ。あいつは忘れただろうか。かじかむ指で暖房のボタンを押すとき、少しだけ寂しいとか訳のわからない感情に苛まれるのを。


「ただいまあ」


玄関先が物音で騒がしくなって、顔を覗かせたなまえはなんかの紙袋片手にあったかい!とにやついてみせた。当たり前だろ。あったかくしてやったんだよ。ホットカーペットの上に二人分の羽毛布団をめいっぱい広げれば、特別広い訳でもない部屋は埋まる。
着替えもせずに隣に潜り込んできたなまえは、俺の手元を見てへえーと気の抜けた声を出した。


「明王シェイクスピアなんて読むんだ」

「悪いかよ」

「や、意外やんなあーと思って」


あ、訛った。きっと気付いていないだろうからスルーしておく。大学から東京にいるはずなのに、彼女はまだたまに伊予弁なのか関西弁なのか分からない訛りが出る。俺の母さんは標準語だったから別に懐かしくもなんともならないが、こいつの訛りは都会にかぶれきってない感じがして嫌いじゃなかった。


「しかもオセロとマクベスて…ヤンデレ祭り、ふふ」


笑うところなんだろうか。べたべたくっつけてくる足を振り払いながらマクベスのページを繰る。なまえも隣で軽くオセロを開いた。つめたい足だ。布団内の暖かい空気の中に冷気が放たれているのが分かるくらいには冷たくて、でもおつかれなんて絶対に言ってやらない。言わないかわりに家を暖めておくのが俺の仕事。

手洗えよ、言えばなまえははあいと素直に天国から抜け出していく。年齢にしてはガキくさいけど今更だし気にしない。俺がそういうの嫌いだから。大人だからとか子どもだからとかで縛るのは好きじゃない。そんなのは親になってから気にすりゃいいんだ。
手元の重い冊子に視線を戻したタイミングでなまえに呼ばれて、入り込みかけた世界を振り切る。


「明王、血が落ちないの、まだここにしみが!」

「……はあ」

「ため息だとー!?お姉さん今日も明王を育てるためにがんばって働いたのに!」

「はいはい。いいから飯、何がいいの」


手を拭いたタオルを持ったままわあわあ騒ぐので、仕方ないから俺も天国から滑り出た。読書はお預け。うるさいのが帰ってきた。拗ねたらしい腰を捕まえて張り付けば、なまえは冷蔵庫を開けながら威嚇のような声を上げる。血が落ちない。五幕第一場、マクベス夫人の台詞。次の台詞は忘れたから、何も言わずにまだ握っているタオルを奪って洗濯籠に後ろ手で投げ入れてやった。

冷蔵庫から白い空気が流れ出てくるのを見る。細い腰に回した腕にぶち当たって曲がる冷気。食材を確認しながらなまえが俺の手をきゅうと包んだ。すかさず指を絡める。「あきお手つめてえー」「布団から出してたからな」「ちぇ」唇を尖らせた彼女はもう笑顔だった。


「ハムあるからオムライスにしようか」

「ん。汁ほしい?」

「いいよ一品で」


バランスのよろしくない食事だけど家庭料理ってそんなものだろう。二人で台所に立つ。ホットカーペットの温度を下げてくるのを忘れてしまったのを思い出した。小さい頃からケチくさいのは自覚がある。

それでも血の匂いは取れぬ。アラビア中の香水を振り掛けても。…マクベス夫人の台詞の続き。思い出した。王を殺した手の血の汚れがいくら洗っても落ちないのだと、狂気に取りつかれて死ぬイカれた女。玉ねぎを刻んでぼんやり思う。なまえのへたくそな演技が脳内に浮かんだ。

この皮膚を切り裂いた中の色で染まっているのは、なまえなんかより俺の手だ。人の命を奪ったことはないけれど、心を殺したことはたくさんあった。体を壊したことはそれよりもたくさん。
はい上がるためには仕方なかった。躊躇なんて忘れたし、気遣いなんて最初からお互いにするわけもない。どうでもいい事をつらつら喋るなまえに適当に返事しつつ巡らせる思考に、罪悪感なんてものは見つからない。見つからない、けど。


「明王、きいてないでしょ」


俺が刻んだ玉ねぎをフライパンに移動させて、なまえは寂しいのアピールをした。再度ぷくっと寄った眉間。いい年して何なんだよ。言ったらまた機嫌を損ねてしまうだろう。それにいい年したガキを好きなのは紛れもない俺だ。好きなもんをばかにされるのは気に食わない。俺だけど。

さっき指を絡めた女っぽい手がこっちに伸びてきて、反射的に目をつぶった。狙われたのは頬。むにい、伸びる皮膚が痛みを訴える。裂ける裂ける。そんなのはだめだ。裂けたらなまえの手はきれいに汚く染まって、さっきの演技は本物になるのだ。


「お話聞いてくれない子はごはんなし」

「なまえみじん切りうまく出来ねえじゃん」

「…みじん切りだけさせちゃる」


わーいじめだあ。棒読みの反抗をしつつ手元で硫化アリルを気化させ続けていると、なまえは不機嫌を装って釜へ向かう。そう、お前は危ないことしなくていいの。小さくつぶやいた。一応なまえはもう社会人だから、炊きたての米で火傷はしないだろう。…たぶん。

包丁が俎板に当たる小気味いい音だけが台所を支配した。「テーブルセッティングだけしたら布団入っててもいーい?」不機嫌設定を忘れた猫なで声にまた適当に返事。どうせ俺が掘り出したシェイクスピアを久々に読みたいのだ。さっき触れた手はまだまだ冷えていたし、勝手にあったまっといて頂こう。

なまえの料理は危なっかしくて見ていられなくて気付いたらふたりでやるようになり、いつからか料理当番は俺になっていた。危なっかしいとはいっても、バラエティーで可愛くもねえアイドルがわざとらしくやってるのよりはましなんだけど。多分俺の視界にはフィルターが掛かっているのだ。今にも手を切りそうで怖い。俺が怖いなんて面白い話だ。

切り傷も火傷も、なまえには似合わない。だから包丁も鍋も、ピーラーもおろし器も触らせたくない。心配性なんてキャラじゃないのに。そんなのを全部表には出さずに、不動明王14歳、今日もフライパンと戦う。


「出来たぜ、ほら」

「おー!ふわふわやね!」

「(また訛った)」


でっかい皿に乗るひと固まりのオムライスを切り分ける(ナイフも触らせたくない)。スプーン片手にゆるゆる笑って、なまえは布団を俺の方へ寄せた。大人しくそれに入って、俺もスプーンを持つ。サッカーと家事とでがさがさした手。一度穢れてしまえばもう気にならない。もうきっと落ちない。罪も、なにもかも。

なまえのきれいな手が好きだ。それも言ったことはないけど。切れた指が見えないように、俺はそっと左手を皿に隠した。






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