肌寒くて、でもマフラーを巻くにはまだまだ早い季節。「もうそろそろ上着るかあ」のんびりそんなことを言うみょうじの手を引いて走る。爪がちょっとだけ刺さるけど気にならない。彼女が子どもっぽい自分の手を嫌がって伸ばしていることを知っているからかもしれないが、どう考えても俺は彼女を贔屓目で見ている。
伸びたカーディガンで覆われた手は細くて小さくてやわらかくて。一度強く握ると、風で変な前髪のみょうじがふにゃあと笑った。…かわいい。馬鹿っぽい所が。
「佐久間、時間やばいよー?」
全然やばくない声で言われて、今はそんな場合じゃなかったのを思い出した。加速。後ろからあわてたような声がして手にかかる力が強くなる。走りながらぐっと上向きに引いてやれば、体勢を立て直せたらしいみょうじがちょっと息切れしながら礼を言った。
こんなに急いでいる理由はというと、平凡に遅刻の危機である。次の電車に乗らないと門限ぎりぎりの最後のバスに乗れないのだ。なんというか、まあ、俺の寝坊のせいで。
柵を越えて裏道にでる。これを過ぎたら駅前だ。みょうじの荷物も肩に引っ掛けて改めて手を握りダッシュする。踏み切りの音がする中改札を走り抜けてエスカレーターを駈け降りると、ちょうど電車から人が吐き出されているところだった。ギリギリセーフというやつだ。
「16分のバス、乗れるね」
「ああ。…大丈夫か?」
「血の味する」
車内は人だらけだった。肩で息をする背中を撫でてやりながら角に寄せる。触られたりしたらたまったもんじゃない。意図を理解したらしいみょうじが息切れしたままにこにこするので、ごまかすように「変な髪型」と彼女の前髪をかき撫ぜた。
「佐久間さんも変な髪型っすよ」
「みょうじさんには負けます」
伸ばされた手が俺の乱れた銀髪をぐしぐしと撫で付けていくので、俺もエナメルを足の間に陣取らせて同じようにみょうじの個性的になったヘアスタイルを見よう見まねでセットした。無理だった。さっき走るために手軽にまとめていただけだったからだろう、ひどく崩れてしまっていたのがさらにひどくなってしまった。
「もう解いちゃって」
「ん。痛かったらすまない」
二、三本ぬけたって平気よ。そう笑うので電車が盛大に揺れる中、髪ゴムを解くという慣れない作業に取り掛かる。なんだこの複雑に重なった結び方は。
「引っ張るんじゃなくて解くんだよ?」「……?」解くってどうやって。一本の丸くなったゴムのはずなのに、一部を引っ張ってもなぜか締まっていく。
電車が次の駅を通り過ぎたあたりで、小さくぶちんと音がして、なんというか…それはもう抜けた。全然二、三本じゃない。毛根あたりを押さえたみょうじが俺を見上げて微妙な顔をする。怒るに怒れないといった感じの。
上目遣いの涙目がかわいい。さっきといい今といい、俺はせっかちなようで案外呑気なのかもしれない。
「…悪い」
「いや…二重ゴムむずかしかったよね、わたしこそ頼んでごめん」
二重ゴム。新種が出てきた。俺のレベルではまだ無理な敵だったようだ。
押さえていた部分をそっと撫でてもう一度謝ると、俺の髪直しを再開しながらみょうじはなぜか楽しそうな顔をした。やっと息切れが治まったと思ったら、痛がったり楽しげだったり。俺はよく彼女のくるくる回る喜怒哀楽についていけなくなる。それを見ているのが楽しいというのもあるが、何よりその喜怒哀楽の理由は大半が俺だというところも彼女の大きな魅力のひとつだ。
眼帯を避けてうまく前髪を下ろしてくれたみょうじが自信ありげに息をついたのと同時に、停車を告げるアナウンスが放送された。次はバス。人数オーバーの危険性を考えてまた走り込みである。次のを逃したら終わる。俺はともかく、普段運動しないみょうじを自分の責任で朝っぱらから走らせているというのはひどい罪悪感で。
「もうちょっと頑張れるか?」
「疾風ダッシュ伝授してほしいなあ…」
「悪い、俺烈風しかできないんだ…」
自分のエナメルとみょうじのスクール鞄を右手に、左手でまた手をつなぐ。改札口で離すのがわかっているのに、直された前髪のみょうじは俺の手をぎゅうぎゅう握ってまたふにゃあと笑った。…かわいい。俺が彼女の表情でいちばん好きなのはやっぱり喜と楽だ。贔屓目や罪悪感なんてどうでもよくなってしまった。
学校についたら絶対ご褒美のキスなり何なりしよう、不動にからかわれるだとかそういう次元はとうに超越した。
とりあえず前払いとしてバッグに埋もれた右腕をさっき撫でていた背中に回す。カーディガンの向こうの体がすこししだけ脱力したのを感じながら、電車が止まりきるまで抱きしめた。こういう時だけは満員電車がありがたいと思う。
開いたドアに我先に踏み出したとたんに冷気に包まれた俺の体は、しばらく温いに違いない。
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