宿舎からの帰り道は雨だったのに、家を出る頃には地面に白があった。ちょうど止んだ様だ。ホワイトバレンタインもそんなに嬉しいばかりじゃない。
ここから待ち合わせの公園まで5分はかかる。なのに最後に部屋の時計を見た時点ですでに約束の時間をすぎていた。彼は時間にはしっかりした性格だからもう着いていることだろう、わたしから誘ったのに寒い中待たせるわけにはいかない。
ヒールはあまり高くないし荷物もそんなに多くない。……いけるかも。よし、白い地面を踏みしめて、わたしは雪を鳴らす間隔を狭めた。
ぐちゃぐちゃの所を避けながらしばらく走って、ようやく公園に伸びる階段に着く。あー前髪、彼に見えないうちに直さなきゃ。時間も確認するひまがないからどのくらい遅れてしまっているかわからない。最初は慎重にゆっくり足をかけて、でも精神的にだんだん早足になって。
もうすこしで視界が開ける。もういるだろうか。あせって乗せた足がすべって、ずれた。
「う、わっ」
視界が回り始める。バランスを崩した体は倒れかけて、いま登ってきた階段を頭から下ろうとした。
おちる。
「みょうじ!」
がくんと肩と肘が痛んで、左半身だけ階段に乗った不思議な態勢のまま落下が止まった。ひっぱられた左手の先。がっしり繋がれたすこし血色の悪い手は、
「……ひろとくん」
「だから家まで行くって行ったのに、危なっかしいなあ」
ふうと息をついて、そのままわたしを一番上まで引き上げる。やっぱり待たせてしまったらしい。ごめんなさいと頭を下げると、無事でよかったと笑われた。
理由は何であれ初めてつないだ手はすごく冷えていた。きっと待たせてしまったのだ。
「心配したんだよ、どこかで転んでないかと思って。迎え断ったのはみょうじなのに結局目の前でしっかり滑ってるし」
「う……だって誘った側なのに申し訳なくて…」
2月14日、バレンタインデー。なのに今日に限って練習はおやすみ。イナズマジャパンのみんなには明日渡すことになっている。
でも今紙袋に収まっているチョコケーキは、目の前の彼のために作ったいわゆる「本命」というやつであって、どうしても今日渡したかった。というかあの濃いメンバーを避けて告白なんてきっとむりだ。
「で、みょうじは俺に何のご用?」
屋根のあるベンチにゆっくり腰掛け、小首をかしげた微笑で改めてこちらを見るヒロトくん。その笑みはどこかいじわるで、紙袋と傘をぎゅっと握る。負けるなわたし。なんのために頑張って約束までこぎつけたの。ここまで来たらもう、戻れない。
「えと、……バレンタインなので」
「うん」
「その…ち、チョコあげよと思って!いつもおつかれっ」
ちがうこれ絶対義理用のせりふだ!
脳内では完全に間違いが認められているのに、緊張してしまってうまく話せない。もし振られるくらいならこのまま義理としてこっそり気持ちを込めるのもアリかもしれないとまで思い始めた。
そうだ、今更訂正したって何だか複雑だし。むしろ渡せたこと自体喜ばしいことだもの。わたしは言い直しをあきらめ始めて、紙袋を受け取ったヒロトくんの反応を待つ。
細めた瞳で、閉じられていない袋を覗き込むヒロトくん。すこしだけ瞠目。カラフルな袋にラッピングされたケーキが彼と目を合わせているはずだ。
「ありがとうみょうじ、嬉しいよ。かわいいね」
再びわたしに笑いかけた彼は朗らかにそう言った。完璧に義理だと思っている雰囲気。かわいいというのもケーキの話で。いよいよやっぱり訂正できる可能性は0に近くなって、ちょっとだけため息をつく。
またちらちらと風花が舞い始めた。ヒロトくんは傘を持っていないようだし用も済んでしまった、大事な選手に風邪を引かせるわけにはいかない。もう帰宅ルートだ。
「ヒロトくん、また雪だし…」
「うん、綺麗だね。そろそろ帰ろうか」
女の子は冷えちゃいけないんだとわたしの頭をぽんと叩き、ベンチから立ち上がる。帰りは送ってくれるらしい。実際滑ったところを助けられているから今度は断る訳にもいかなくて、せめてとわたしの傘を差し出した。
「選手が濡れちゃだめですよ」
女子向けなパステルカラーだけど、柄はないからまあましじゃないかな。マネージャーとして不自然もないだろう。そう思って閉じたままの傘を差し出す。
と、赤い髪を揺らしてなぜかまた不思議そうな顔をされてしまった。
「俺だけ使うの?」
「え? うん、ふたつは持ってきてないから…」
「ちがう、そうじゃなくて」
ばさっ。パステルの雪除けを勢いよく開いて、前に立つわたしの上に傾ける。伸びてきた空いている方の手が、濡れた頭を優しくはたいた。冷えた手がまた触れる。はずかしくて目をそらせば、横目でヒロトくんが笑う。
「一緒にはいろうよ、って。だめ?」
「…!?」
相合傘のおさそい。まさかそんな漫画じゃあるまいし、仲はよかったけどこれはさすがにない。付き合ってないお年頃中学生が相合傘だなんて。
固まってしまったわたしの視界でおーいと手をひらひらさせたヒロトくんは、なにかを思いついた様に口元を弛ませた。サッカー中とは違った種類の楽しそうな笑み。
かっこいい。そう思ったのもつかの間、わたしの肩に傘の柄を寄せて、耳元に形のいい唇。
「だって、今日からなまえって呼んでいいんでしょ」
紙袋を目の高さまで持ち上げてふふっと笑う。しまった、緊張してすっかり忘れていたのだ。あの中身のケーキのかたち。わたしたちの、心のかたち。
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