冨岡義勇の場合(後)
「ベタですけど目にゴミが入ってゴシゴシ擦ってたのを見かねて、冨岡先生が見てくれただけです。幼馴染ですから気心が知れてるところはありますけど、だからこそ逆に絶対に何もないです。兄弟みたいなものです」

よくもまぁ心にもない説明がスラスラ出てくるものだとミズキは自分で驚いていた。
登校した途端に教員から呼び出されて会議室に入ってみれば義勇もいて、校門に貼り出されていたという写真を示された。
映っているのは身を乗り出した義勇の後ろ姿と、学生服の上半身だった。幼馴染という間柄を知る誰かがミズキの名前を挙げたのだろうことは予想がついた。

「誤解を受けることのないように」と厳重に注意を受けて会議室を出ると、ミズキは「災難でしたね冨岡先生、それじゃあ」と笑って去っていった。





「悪かった」

夜、帰宅後に義勇はミズキに電話を掛けて開口一番詫びた。カーテンを閉めた窓を見た。視線はカーテンを抜け窓ガラスを抜け、空間を抜けて隣家に辿り着いた。彼女はその壁の内側にいるはずだ。

「起きてるときにしてくれたらよかったのに」

電話から聞こえるミズキの声に責める色は含まれていなかった。敢えて言うなら拗ねているように聞こえなくもなかったけれど。
とにかく義勇は何も言えなくなってしまった。

「しばらくは電車通学するね。ほとぼりが冷めたらまた、義勇さんの車に乗ってもいい?」
「…それは構わないが…、お前が嫌じゃないのか」
「どうして?義勇さんが好きっていつも言ってるじゃない、私」

どちらが年上か分かったものではない、と義勇は自責した。嬉しく感じてしまうことも含めて。
その時ミズキの電話口から雑音を感じて、義勇は「外にいるのか」と言った。

「うん、コンビニにリップ買いに行くの」
「…また無くしたのか」
「そうなの。帰りに駅のお手洗いで塗るまではあったんだよ?たぶんそこで落としちゃったの」
「ポケットに穴でも開いてるんじゃないのか」
「ないよ、さすがに」

ミズキは「じゃあおやすみ、義勇さん」と笑った。義勇は通りに面した窓のカーテンの隙間を覗き込んで、端末をポケットに仕舞うミズキの後ろ姿を見た。


翌日、義勇はいつになく早い時間に帰宅していた。
校門に貼られた写真は早朝に回収されて大人数の目には触れていないとはいえ、生徒達の間で噂が立つのは避けられない。事態が落ち着くまでは顧問をしている剣道部にも顔を出さないように上から言われてしまい、剣道の心得のある煉獄に代理を頼んで早々に帰宅したのだ。
自宅の駐車場に停めて溜息をつくと、ふと違和感を覚えた。
今まで、ミズキに迷惑を掛けてしまったことにばかり気を取られていたけれど、いつものこの向きで車を停めればあの画角の写真はミズキの家の庭からしか撮れない。さらに言えば、学校指定でもないジャージを着ていた自分が制服姿の少女にキスをしていたとして、それを弾劾されるべき教師の淫行と判断できる人間が、学校の近所でもないこの地区にどれだけいるものか。
それが偶然ミズキの家の庭に立っていたというのは、出来すぎた話ではないか。
さらに、ここ最近のミズキの言葉が義勇の頭に蘇った。リップクリームがいつの間にか無くなる、いつも同じポケットに入れているのに。駅のトイレまではあったのに帰ったら無くなっていた。
ミズキが頻繁に同じものを無くすことなど、これまで聞いたこともない。
義勇は止めたばかりのエンジンを掛け直してアクセルを踏み込んだ。


ミズキは驚きのあまり声も出なかった。満員電車の中で人と接触することは仕方がないとはいえ、右の腰辺りに触れた手が明確に意思を持っているような気がして視線を落として見ると、男の手がそっと上着のポケットに入り込んで指先にリップクリームの筒を挟んで出てきたのだ。
恐ろしくて振り向くことが出来ない。反射で背後を見られないかと窓に視線を巡らせても、丁度写してくれる窓は無かった。手が震え、歯がカタカタと鳴った。
あと数分で次の駅に着く、着いたら一度降りて、と思っている内に、スカートに何かが触れたような気配があった。

「怪我をしたくなければ大人しくしていろ」

ここにいるはずのない声にミズキが振り向く前に、後ろから肩を抱き寄せられて背中が温かい胸板に迎え入れられた。
「義勇さん」とミズキが呟いて顔を向けると、厳しい目をした義勇が、さっきミズキのポケットからリップクリームを持っていった手首を骨が軋むほどの力で握り締めていた。

次の駅で扉が開いた瞬間、掴まれていた腕は無理矢理に振り払って人混みの中を逃げようとした。けれど義勇がその後ろ襟を捕まえてホームの硬いタイルの上に引き倒し、呻き声が上がる間に腕を捻り上げてうつ伏せの背中を膝で踏んだ。

「駅員と警察を」

冷静な声色の指示で、野次馬の中の何人かが動いた。

「俺は非常に怒っている。許すと思うな」

ミズキの聞いたこともない、怒りを含んだ声だった。
人混みを割って駅員が駆けつけ、ミズキは普段利用客の立ち入らない事務所の一室へ促された。

「ぎ、義勇さんっ」

ミズキが震える声で呼ぶと義勇は押さえていた男を駅員に引き渡して彼女に駆け寄り、肩を抱いた。

警察の聴取を終えて帰宅した後ミズキは週末までの2日間学校を休み、週末に義勇は彼女から請われて部屋を訪れた。事件以来顔を合わせるのは初めてだった。
部屋に招き入れてミズキがまず礼を口にするのを義勇は「親御さんから充分に感謝してもらった」と遮った。
ベッドに凭れてカーペットに並んで座った。

「少しは落ち着いたか」
「ん、実害はそんなになかったし、リップクリーム4本くらい?」
「数や金の問題じゃないだろう」

犯人の男の所持品の中からはミズキのものと思われるリップクリーム4本が、スマートフォンからは先日校門に貼られていた写真のデータが見付かったと警察から聞き及んでいる。
ミズキは揃えて三角に立てた膝を抱いた。

「週明けからは学校にも行く」
「送り迎えはする。多少時間を合わせてもらうことになるが」
「え、でも…」
「電車に乗せる訳がないだろう。学校にも話してある」
「…それは先生として?」

義勇はしばらく黙り込んだ末、絞り出すようにして「違う」とだけ言った。
ミズキが「義勇さん、好き」と言って彼の方を見ると、美しい横顔は痛みを堪えるように顰められていた。

「…お前は馬鹿だ」

義勇は苦し気な横顔のまま続け、ミズキはそれを柔らかい表情で見ていた。

「歳の近い男を相手にしていれば、無駄な我慢もせずに済んだろう。美しいくせに俺なんかに構って時間を無駄にするな」
「じゃあ、どうしてキスしたの?」

最大の殺し文句に義勇はさらに眉間に皺を寄せ、ほとんど唸るように「…ずっと前からお前を好いてる」と白状した。
ミズキは立てた膝に緩む頬を預けて義勇に微笑みかけた。

「迷惑になっちゃうから諦めようとしたこともあるの。1年の秋だったかな、告白されたから付き合ってみたけど、キスされたときにやっぱり違うと思「待て」

突然義勇が、普段湖底のように静かなその目を丸く見開き、ミズキの腕を掴んだ。
ミズキが目をぱちくりさせていると「今何と言った」と畳み掛けた。『自分で待てって言ったのに?』と思いつつ「やっぱり違うと思ったって」とミズキは答えた。

「その直前だ。キスさせたのか」
「しっかり聞いてるじゃない。え、さっきまで歳の近い彼氏作れみたいなこと言ってたよね?」
「…作れとは言ってない」
「えぇ…作らないでほしいの?」

義勇はまた痛みを噛み潰すように顔を歪めた後で「今回の件でも思ったが、お前が他の男に触れられるのは我慢ならない」と吐き出した。

「義勇さん、キスして」

義勇はミズキの顔を見たけれど、彼女の顔がしっかり真剣に自分を見つめていて、やがてゆっくりと瞼が降りてしまえば、吸い寄せられるようにその艶々とした唇にキスをせずにはいられなかった。
唇が離れるとミズキはゆっくり目を開いて微笑み、「やっぱり違わない、義勇さんが好き」と言った。義勇は今度は顔を顰めるのではなく目を柔らかく細めて、「やっぱりお前は馬鹿だ」と言ってミズキにもう一度キスをした。


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