煉獄杏寿郎の場合
母校の養護教諭の枠が空いたのはミズキにとってとても嬉しいことだった。
必須科目の教員と違い就職の枠が狭いことは覚悟していて、地元からは遠く離れてしまうかもしれないけれど選り好みしていられないと思っていたからだ。
母校には自分が教わった先生もいるし、何より気心知れた幼馴染が在校している期間に居合わせられるのは奇跡的な幸運だと感じた。

ミズキが内定の報告に隣家の煉獄家へお邪魔すると、幼馴染の杏寿郎・千寿郎兄弟は大変な喜びようだった。特に、在校中ですぐにミズキと居合わせることになる杏寿郎は輝かんばかりの笑顔で、千寿郎は「良かったですね、兄上!」と兄の周りをぴょこぴょこ子狐のように跳ね回っていた。
『私の幼馴染たち、何て可愛いのかしら』とミズキがホワホワしているところへ、兄弟の母親の瑠火が歩み出てミズキの手を握り、凛とした表情で「ミズキさん、杏寿郎のことをお願いしますね」と言うものだから、ミズキも姿勢を正して真剣に返事をしたのだった。

「杏くん」
「うむ!」
「まだだけど、学校では一応礼儀として『煉獄くん』って呼ぶからね」

途端に杏寿郎は喜びの形をした口元のままピシッと一時停止をかけたように固まってしまい、千寿郎が横から「でっでもっ!傍にいられるんですから、ねっ兄上!」と健気に励ました。

「そうだな、休み時間の度に保健室へ会いに行く!」
「や、遊びに来ちゃだめよ?」
「よもや!」
「よもやじゃないったら。怪我したり、体調が悪いときに来るの。来ないで済むのがいちばんのところよ」
「ムゥ…」
「気持ちは嬉しい、ありがとね。一緒の校内にいるの心強いよ、杏くん」

ミズキがにっこりと笑って自分よりも随分高い位置にある杏寿郎の頭を撫でると、彼は嬉しいような照れくさいようなもどかしいような、どこに足を置けばいいか分からないような微妙な表情で、少し頭を傾けて彼女の掌に協力していた。
ミズキの手が頭を離れて、彼女が挨拶して煉獄家を去っていくと、杏寿郎は撫でられていた姿勢そのまま固まってしばらく考え込んでいた。





ミズキは困惑していた。

「すまないミズキ、今いいだろうか!」
「はいストップ。学校では『先生』、保健室で大声出さない」
「そうか、ミズキ、すまない!またやってしまった!」
「うん、いいや…入っておいで…」

勤め始めから2ヶ月ほどが経ち、前任者の丁寧な引継ぎと先輩教員たちの親切に助けられて仕事にも慣れ始めた頃だった。
しかし、元気の鑑と思っていた幼馴染が生傷を引っ提げて、小鳥に餌を運ぶ親鳥のように毎日保健室に来るのだ。しかも呼び方や振る舞いを注意しても一向に改めようとしない。
ミズキの知る幼馴染の彼は礼儀正しく真面目で素直で可愛い子だったはず(5歳しか離れていないとはいえ)なのに、こんなに何度も言い聞かせても聞き入れてくれないとは。
おまけに、最初の内こそ剣道部なのだから生傷も絶えないのだろうと受け止めていたけれど、それにしては他の剣道部員はあまり保健室に来ないし、こうも連日では少々不思議にもなる。

今日は左の手首に大きな青痣ができている。ミズキは杏寿郎を椅子に座らせ、相対したスツールに腰掛けて相手の手を握り、反転させたり五指を開閉させて痛み具合を尋ねたりして、病院は必要なしとの判断に至った。いつも絶妙に病院に行くほどではない傷を作ってくるところも気になる。
ミズキは慎重に湿布の裏フィルムを剥がした。

「あのね煉獄くん」
「…」
「剣道部ってこんなに怪我の絶えない部活なの?ちょっと心配に」
「ミズキ」

怪我をしているはずの左手で力強く手首を掴まれ、ミズキの指先で湿布が皺くちゃに引っ付いてしまった。彼女は咎める表情で顔を上げたのだけれど、目の合った杏寿郎の顔が思いの外真剣で、勢いを削がれてしまった。

「その呼び方はやはり嫌いだ!」
「え、でも」
「俺とミズキの仲だろう、親しく呼んでほしい」

ミズキは表情を厳しくして戸棚から新しい湿布を取り出し、フィルムを剥がし、杏寿郎の青痣をぴったりと覆った。

「煉獄くん、あのね、私的なことと公的なことは分けなくちゃだめ。私は貴方を他の生徒と同じに扱います」

杏寿郎はしばらく硝子玉のような大きな目で虚空を睨んだ後、弟の千寿郎のように眉を下げてにっこりと笑って見せた。

「申し訳なかった。ミズキ…先生が、毎日同じ校舎にいると思うと浮かれてしまっていた」

「手当をありがとう」と笑顔のまま言い残して杏寿郎は去っていった。そしてその翌日から彼が保健室を訪れることはなくなった。




「…ということがありまして」

杏寿郎の保健室訪問が途切れてから数日後、仲良く接してくれる先輩教員の女性と一緒にミズキは中庭ベンチで昼のサンドイッチを齧っていた。
ミズキがことの経緯を掻い摘んで説明すると、頼れるお姉さんという雰囲気の先輩は「あらあら」とだけ言って笑った。

「幼馴染が先生として同じ学校にいるのを喜んでくれたのに、ちょっと冷たすぎたでしょうか」
「うーん、そうねぇ」

ああも足繁く来ていたものがパッタリ来なくなってしまうと寂しい気分がしたし、教科担当の教員でないミズキは生徒から訪ねてくることがなければ接する機会もない。
『突き放したのは間違いだったのか…いやでも…』とミズキがウンウン唸っていると、急に先輩がミズキの前に掌をかざして「シッ」と声を遮った。
何事かと耳を澄ましていると、校舎の角の向こうから何やら声が聞こえてきた。
女子生徒の声が、どうやら恋を告白しているようだった。
邪魔をしないよう息を潜めていると、同じ校舎の角の向こうから、突然威勢の良い声が響いた。「うむ!ありがとう!」と。ミズキは危うく手元のサンドイッチを落とすところだった。

「しかし申し訳ないが俺には心に決めた人がいるから、君の気持ちに応えることは出来ない!」

女の子の声が何かを聞き返した。

「養護教諭のミズキ先生だ!彼女は俺の幼馴染でな、もう何年も惚れ抜いている!俺がここを卒業すればすぐにでも交際を申し込むつもりだ!」

ミズキはサンドイッチを落とし、先輩はミズキを眺めて生ぬるく笑った。
その後学生ふたりが去った気配があって、先輩がやおら「うん、それで、どうすんの?」と言った。

「…いや、…ちょっと、難問が過ぎませんか」
「可愛いじゃない、嫌い?」
「もちろん嫌いじゃないですけど、好きでどうにかしていいやつじゃないのでは…」
「あそこまで潔いと応援したくなっちゃう」
「他人なら私だってそうですよ」
「あらそう?幼馴染くんが卒業と同時に他の女に交際を申し込んだら応援できる?」
「…いや、いやいやいや、誘導尋問、ダメ」

先輩はミズキの肩をぽんぽんと叩いて、「煙草寄って戻るから」と去って行った。それすなわち『ひとりで落ち着いて考えてごらん』だ。
ミズキは先ほど落としてしまったサンドイッチを袋に拾った。
例え落としていなくても食べる気にはならなかっただろうことは自覚できた。何せ潮が引いたように食欲が失せてしまったのだ。
教員としてどうすべきかは比較的明確だけれど、淡々とその『べき』を執行すると幼馴染を傷付けることになる。咄嗟にそこまで考えて、ミズキは自分の心の中の逃げを自覚した。
結局心は定まらないまま、ミズキは保健室へ引き上げた。



杏寿郎の遠隔暴露事件から数日、ミズキはその悩みを抱えたまま新たな悩みを抱えることになった。
剣道部所属の2年生男子が足首を捻挫して保健室を訪れ、幸い軽傷だったのでミズキは患部を冷やしてテーピングを施し、不安なら病院を受診するように伝えて帰らせた。処置中生徒の腕が胸に触れたけれど、恐らく偶然か気のせいだろうと無理矢理納得した。
ところがその生徒は翌日も翌々日も足が痛むと訴えて保健室を訪れてミズキに患部を確認させ、どんどんあからさまに触るようになった。咎めれば気のせいだとしらばっくれられてしまい、終いにはミズキはその生徒に不快と恐怖を感じるようになった。

そんな折、ミズキは朝出勤してすぐに先輩の女性教員から呼び出しを受けた。以前に杏寿郎の遠隔暴露を一緒に聞いた彼女だ。ミズキの顔を見るなり先輩は優しく微笑んで「ついておいで」と言った。
理由も分からないまま彼女の先輩の背を追って歩いていると、先輩は淡々と事情を教えてくれた。

「ソウマ先生ね、最近生徒のセクハラに困ってたんでしょう」
「え、…あ、はい」
「そのエロガキがね、自慢げに吹聴してたらしいのよ。ゴリ押しで触れたとか、誤魔化せたとか」
「…」
「で、それを聞いたライオンくんが激高してね、『君は木刀を使うといい、俺は竹刀で充分、防具も要らん』って決闘を申し込んだと」
「ライオンくんって」
「正にでしょ?で、結果だけど、木刀の方が気絶しちゃって」
「気絶!?頭を打ちましたか!?」
「切り結ぶ前に気迫に圧されて泡噴いたらしいわ。頬をバシバシ叩いたらもう起きて平謝りしてるって」
「そう、ですか…」
「ソウマ先生のお仕事は、ライオンくんの心のケア」

具体的にはどうすればいいのだろうかと迷っている内に剣道場まで来てしまった。中を覗き込むと聞き及んでいた通り、憔悴したセクハラ加害者と無傷の杏寿郎が剣道着のまま正座し、その後ろで剣道部顧問が腕組みをして立っていた。
顧問に促されて少年が泣いて謝るのもそこそこに、ミズキは長く不通になっていた杏寿郎と久々に相対した。彼の真っ直ぐな視線に対してどのような表情で返せばいいのか分からず、手を見せるように言って肉刺だらけの硬い掌に視線を落とした。

「…少し、筋を痛めているかもしれません。保健室で処置します」

剣道部顧問が最後に少年の頭をぐっと強く押し下げて、ミズキは杏寿郎の手を取ってその場を後にした。

「…差し出がましい真似をした」

保健室に入るなり、杏寿郎はその派手な色をした頭を下げた。

「どうして謝るの?本当に怖くって困ってたの、ありがとう」
「…先生のためではなく、ただ腹が立ったが故の行動だった。つまり私怨だ」
「私は感謝してる。…座って、お茶くらい飲む時間はあるでしょう?」
「しかし」
「杏くん、少しお話したい」

突然親しい呼称を使ったミズキに杏寿郎は目を丸くして、ややあって大人しく椅子に掛けた。
ミズキは冷蔵庫からお茶を出して注ぎ、茶菓子と一緒に机に載せてから彼の斜め前の椅子に座った。

「この間、お昼休みにね、…えっと、言いにくいのだけど、」
「告白した」
「え」
「ミズキが聞いていると知っていた。俺のことを考えていてほしかったから、敢えて聞こえるように言った」

ミズキは目を丸くして、淀みなく喋る杏寿郎を見ていた。長い付き合いの幼馴染ながら初めて見る、静かで凛とした姿だった。
普段は容姿のことで父親の槇寿郎に似ているとばかり見られがちだけれど、芯の部分は母親譲りなのかもしれないと頭の隅でぼんやり考えた。

「今回のことも、彼が俺も触ったことのないミズキの身体に触れたと聞いて我慢ならなかっただけで、完全に私闘だ。ミズキが気に病む必要も感謝する必要もない」
「…私の返事は、気にならないの?」
「それは、…勿論聞きたいが、同時に聞くのが恐ろしいというか…」

途端に歯切れが悪くなって視線を泳がせた杏寿郎に、ミズキは少しホッとしてくすくすと笑った。

「先生っていう仕事だから、生徒と恋人にはなれません。…だけど卒業するまで好きでいてくれるのなら、私は誰にも触らせずに待ってる約束ができるよ」
「それは、」
「あと、遊びに来ちゃだめって言ったけど、取り消します。杏くんがいないと寂しいからね」

ミズキがにっこり笑いかけると、杏寿郎はその猛禽類のような強い目を彼女に注いだまま、机の上に出ていた華奢な手を握った。

「ミズキ、抱き締めたい」
「えっ、ここで?」
「今。…ダメだろうか」

普段威風堂々と胸を張っているというのにこんな時ふと子犬のように眉を下げて見せるのだから、彼は大人になったら結構な女たらしになるかもしれないと半ば感心しながら、ミズキは勿論断ることができずにふっと優しく笑った。
椅子から立ち上がると数歩の距離を杏寿郎に近寄って、座ったままの彼の頭を抱き締めて獅子のたてがみのような髪を撫でた。
杏寿郎は予想外の対応に緊張し、しばらく両手を彷徨わせた後でおずおずとミズキの腰を抱き締めた。

「よもやよもやだ…」
「うん?」
「触りたくなる彼の気持ちが分かってしまうとは」
「あはは、思春期だねぇ」
「笑いごとではない」
「やめる?」
「あと15分」
「結構粘るね…着替えて授業行かなきゃでしょ?」
「俺は着替えが速い」
「いつでもしていいから、今は我慢ね」
「いつでもか、それはいい。言質は取った」
「…うーん」
「取り消すのは無しだぞ」

ミズキがぽつりと「いいよ」と言うと、杏寿郎は抱き締める腕をぎゅうっと強くした後に満足気な笑顔で身体を離した。


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