煉獄杏寿郎の場合(後)
杏寿郎は日課にしている朝のランニングから帰って玄関に入る前に、隣家の窓を見上げた。ミズキの部屋だ。
毎日欠かさず窓から顔を出して挨拶してくれていたミズキが、準備室で父親と電話をした翌日から、顔を出さなくなった。
思い出したようにミズキが顔を出さないだろうかと杏寿郎はしばらく彼女の窓を見ていたけれど、やがて諦めて家に入った。

玄関の音が落ち着いたのを見計らって、ミズキはカーテンの隙間からそっと覗き、杏寿郎の姿がないのを確認してからカーテンを開けた。

今日はお見合いをするらしい。『らしい』という通り、ミズキは全く実感を持てないでいた。
「知人にお前の写真を見せたらとても気に入って、是非息子の嫁にと言ってくれてな。なに、まさか17で結婚しろなどとは言わんよ。会うだけ会って断るのは自由だが、会いもしないというと申し訳が立たんだろう。あまり構えず贅沢な昼を食べられると思えばいいさ」
少なくともミズキには正気とは思えなかった。
親の顔を立てるために自分は見も知らぬ男性と贅沢なランチを食べるのだ。勿論嫌だった。
「あまり構えず」と言う割に電話の最後には「相手に失礼のないように」と釘を刺す始末だ。
2人いる兄に相談しようかと悩んでやめた。父と揉めることになれば迷惑を掛ける。
母は父に逆らえない、というよりも、聞く耳を持つ父ではない。
ミズキに出来ることといえば、見合いの席で無表情を貫いて相手から『愛想がない』と断ってくれるように仕向けることだけだった。

「杏兄」とミズキはベッドに寝転んで呟いた。
見合いが破談になったところで叶う恋ではないと分かっている。自分は子供なのだ。
後1年と少しすれば自分は卒業して、毎日会うことも出来なくなる。幼馴染というだけでいつまでも甘えてばかりもいられない。
「抱っこ」とせがんで抱き上げてもらえる年齢でもなければ、女性として抱き締めてもらえる年齢でもない。


ミズキはぼんやりしている間に料亭に連行され、小綺麗なワンピースを当てがわれ、化粧を施され、髪を撫で付けられ、綺麗綺麗と煽てられて支度の部屋から出された。
約束の時間までまだ間があるから庭を見てくると言い訳して、ミズキはひとりでふわふわ歩いた。
着せられたのは防寒にはまるで寄与しない薄手のワンピースで、外廊下に出ると鳥肌が立つほど寒かった。
ミズキは廊下のふちに座って足を垂らし、池の鯉を眺めた。そのまま長い時間鯉の泳ぐのを眺めていた。
『可哀想に』とミズキは思った。見目良く品種改良されて、小さな池に飼われて。

「どこにもいけないのね」
「そんなことはないぞ」

独り言のつもりが思いがけず返事があり、肩に体温の残る上着が掛けられた。
ミズキが驚いて振り向くと、背後に杏寿郎が膝をついていた。

「可哀想に、すっかり冷えてしまっている。部屋に戻ろう」
「杏兄、どうしているの」
「食事に来た」
「…お父さんから私が逃げないように言われてきたの?」

ミズキは池の鯉に視線を戻した。わざわざ網を持ち出さなくても、大人しくまな板に乗るつもりだったのに。
杏寿郎は小さく丸まったミズキの背中を上着の上から抱き寄せた。頬に触れた彼女の髪が氷のように冷たくて、頼りない二の腕を温めようと撫で擦った。
「いや、むしろ逆だな」と彼は言った。

「君のご両親に許可をもらったり相手方に事情を説明して話を無かったことにしてもらったり、色々時間が掛かってしまってな。ぎりぎりになってすまない」
「…どういうこと?」
「説明よりも、君を暖かい部屋に移すのが先だ!」

言うが早いか杏寿郎はミズキを横抱きにして廊下を歩き始めた。人一人を抱えているとは思われないほど淀みのない足取りで行き着いた先は、これからミズキが見合いをするはずの離れの個室だった。暖房の効いた空気がむわりと頬を撫でた。相手方はまだ来ていないようだったけれどミズキは顔を強張らせて、杏寿郎が膝をついて彼女を下ろそうとしても首に抱き着いて離れようとしなかった。
杏寿郎はミズキを抱いたまま腰を下ろして、髪を撫でてやった。

「杏兄、この部屋はいや。知らない人がくるの」
「来ないよ」
「お父さんが許すはずない」
「大丈夫だ、許可はいただいた」
「さっきから何の話をしてるの」
「俺が君の恋人になりたいという話だ」

ミズキは大きな目を真ん丸に見開いて杏寿郎の顔を見た。何の冗談だろうと思ったけれど、彼が嘘も冗談も言わない性分であることはよく知っていた。
一方で杏寿郎は腕の中のミズキをうっとりと眺めていた。
幼い頃から何度も抱き上げたり頭を撫でたりを無邪気に続けてきた間柄でも、ミズキが自分の勤め先の生徒になった時点からは触れることも早々許されなくなってしまった。この美しい少女と同じ立場にいられる学生たちを羨みもしたし、妬みもした。
千寿郎からミズキが見合いをするらしいと聞いた時には腸が煮えるような思いをした。同時にあの日、ミズキが自分の目の前で父と電話をした後で、珍しく「抱っこ」と甘えてきたのを突き放したことを悔いた。教師としては正答だったとしても、彼女に恋をする男なら抱き締めて事情を聞いてやるべきだったのだと。

ミズキは上手く事態が飲み込めないようで、小さく首を傾げて瞬きを繰り返している。

「幻滅するかもしれないが、俺は幼い頃から君が好きだ。だから見合いなどさせたくないし、綺麗に着飾った君を他の男に見せるのも嫌だ。ご両親に交際の許可はいただいたよ、…その、勿論君が頷いてくれればということになるが」
「…私、知らない男の人に会わなくってもいいの?」
「会わせない。先方はミズキに会いたかったようで中々譲ってくれなくてな、それで今日までかかってしまった」
「杏兄を好きでいてもいいの?」
「勿論、是非そうしてくれ!」

杏寿郎が快活に笑うとミズキの目にみるみる涙が溜まり、瞬きでぽろぽろと零れていった。ミズキはもう一度杏寿郎の首に抱き着いてしくしくと泣いた。

「私、杏兄がすき」
「うん、俺も好きだ」
「恋人になってくれるの」
「ずっとなりたかった」
「おでこやほっぺにじゃなくキスしてくれる?」
「今までは額や頬で何とか我慢していたということだ」

ミズキが杏寿郎の首から離れると、彼は一度涙に濡れた目元に唇を寄せてから、ゆっくりと柔らかな唇にキスをした。
しばらくお互い酔ったように唇を啄みあっていると襖の外から声が掛かり、慌てて距離を取ったところで料理が運ばれてきた。杏寿郎の顔を見た給仕の女性が意味ありげに頷いて彼におしぼりを渡し、ミズキは頬を赤くして給仕の女性が去った後で「杏兄、口を拭いて」と手で顔を覆った。

「そういえばお父さんはどうしてるの?」

手の込んだ見た目にも美しい料理を口に運びつつ、ミズキはふと問うてみた。杏寿郎は一度箸を置いて腕で時間を確認し、「まだ続いているかもしれんな」と言って傍らの御櫃から何度目か分からない白飯を茶碗によそった。3度目におかわりを頼んだ際に給仕の女性が御櫃と杓文字を置いて行ったのだった。

「今回の父君の振る舞いについては反省していただきたく、繰り返さないようにお兄さん方のお力も借りたのだ」
「お兄ちゃんたち?」
「分かりやすく言うとだな、お兄さんに電話を掛けて経緯を説明して、スピーカーモードにして父君のところへ置いてきた。母君の電話から2番目のお兄さんにも掛けて、同じように」
「それがいつのこと?」
「1時間ほどになる」
「…そんな剣幕だったの?」
「そんな剣幕だった。あれは痛快だったとも!」

はっはっは!と杏寿郎は大笑した。
聞けば、2人の兄たちは激怒して「あんたが娘自慢なんかするからミズキに面倒を掛けることになる」だとか「あんな可愛い娘の写真を見せればどうなるか想像できなかったのか頭が間抜けなのか」と大層な罵りようだったそうだ。
高級料亭でスマホ2台から怒涛のお叱りを受けている父を想像して、ミズキは少し同情した。


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