煉獄杏寿郎の場合(前)
夜も明けきらない暗い朝に、ミズキは時計のアラームもなく目を開ける。窓の外で隣家の玄関がそっと開閉するのを聞いているのだ。
まだ多くの人は眠っている時間だから、迷惑を考慮してその音は小さく小さく落ちるのだけれど、聞き逃したくないミズキは必ず目を開けた。
幼馴染の煉獄杏寿郎が早朝のランニングに出て行く音である。

玄関の音を聞き届けるとミズキはベッドを出て、家族を起こさないよう音を抑えながら階下の洗面所へ向かい身支度をする。髪を梳かし、おかしいところはないか鏡を確認して2階の自室へ戻り、着替えを済ませる。
そうしている内に空が白み、多くの人が活動を始める時間に差し掛かって、杏寿郎がランニングから帰ってくる。その足音を耳が拾うと、ミズキはカーテンを開けて寒い朝でも窓を開けて身を乗り出し、手を振って、いつもの挨拶をする。「杏兄、おはよう」と。杏寿郎も手を挙げて応える。「あぁ、おはよう!」、この頃には近隣も皆起き出しているので、声量にも遠慮がない。

記憶を辿ることもできないほど前からミズキは杏寿郎に恋をしていた。
生まれた時からずっと隣家に住んで兄妹同然に育ち、今は杏寿郎が教師をしている高校の2年生だ。


歴史の授業がミズキは好きだった。正確には、歴史の授業をする杏寿郎を見るのが。
快活な笑顔で臨場感たっぷりに歴史を紹介していく様は見ていて気持ちがよかったし、ワイシャツの袖を捲った逞しい腕や間近に響く声がミズキは好きだった。
授業中に時折うっとりとミズキが杏寿郎に見惚れていると、彼は必ず気付いて通り掛けに机の端をトンと指で打って「集中!」と律した。それも好きだった。

昼休みに入ってすぐ、ミズキは職員室へ行った。他の教員に挨拶しながら職員室を進んでいるとふと顔を上げた杏寿郎と目が合い、彼女は目を輝かせて駆け寄った。

「杏兄、」
「学校では先生だ」
「…先生。これ、何でしょう?」

ミズキが手荷物を杏寿郎の眼前にぶら下げると、彼は一拍黙ってから「よもや!」と声を上げた。眼前で揺れるのは彼の弁当だった。

「瑠火さんから預かりました」
「また忘れてしまったか!不甲斐なし!」

ははは!と高らかに笑う様は反省しているのか怪しい。それでもミズキは嬉しそうに目を細めた。
ミズキは表情の動きが大きくなく、同級生からは表情が乏しいと言われることがままあるけれど、付き合いの長い杏寿郎は彼女の僅かな目元の動きや視線の流れ、口元から喜怒哀楽をはっきり読み取ることができた。
「折角だ、一緒に食べるか!」と杏寿郎が声を掛けるとミズキは目を細めて僅かに頬を紅潮させた。喜びの表情だ。

その時ミズキの上着のポケットから着信音が鳴り始め、ミズキは口を引き結んでポケットを押さえた。スマホの所持自体は禁止されていないものの、職員室で着信音を響かせるのはさすがに看過されない。

「すまない、俺に着信だな!出よう!」

杏寿郎はぐいぐいとミズキの背中を押して職員室を出、そのまま廊下を足早に進んだ。社会科準備室の前まで来るとポケットの鍵で解錠し、ミズキを押し込んで自らも身体を部屋に滑り込ませてぴしゃりと戸を閉めた。
着信音は既に鳴り止んでいた。

「あ、ありがとう、ごめんなさい、きょ、先生」
「構わん!折り返した方がいい相手か?」

「あ、そうだ…」とミズキは端末の画面を確認して僅かに眉を寄せた。怪訝の表情。ミズキが画面を睨んで迷っている様子なので誰からか聞いてみれば、父親だという。

「こういうときのお父さんは嬉しいことを持ってこない」
「しかし、わざわざ電話をしてくるほどだ。折り返した方がいいだろう」

ミズキは4秒ほどじぃっと画面を睨んでから、渋々という表情で父親に電話を掛けた。
杏寿郎は彼女を廊下から死角になる位置に誘導した。

「…ミズキです。さっきはごめんなさい。…はい。…、はぁ、…え、えぇ?嘘、冗談でしょ?…でも、」

話が進むにつれにわかにミズキの声が焦りを帯びてきて、何の話だろうかと杏寿郎は彼女の表情から読み取ろうと試みた。しかし、感情を読み取ることはできても会話の内容まで察することはできるはずもなかった。
結局ミズキは(杏寿郎から見れば)苦々しい表情で父親に返事をしながら電話を終えた。
ミズキの父親とは杏寿郎も旧知の仲だった。煉獄家が代々武術の家ならミズキの家は代々医者の家で、彼女の兄2人も医学部へ進んでいるはずだ。父親は少々強権的なところがある。

「どうした」と問えばミズキは、少し眠たそうにも見えるほどゆっくり瞬きをしながら口角を僅かに持ち上げた。これは呆れと諦め。

「気乗りのしない『おつかい』をしなくちゃいけないの」

『気乗りのしない』と淡い表現に落としているけれど、ミズキが表情を変えるほどだから『とても嫌』と受け取って間違いないのだろう。それでも諦めて受け入れようと大人の対応をするミズキのことが、杏寿郎は昔から心配だった。
ミズキは鞄から自分の弁当を出して椅子に腰を下ろし、淡々と口に運び始めた。

ミズキにとって杏寿郎とふたりで弁当を囲むのはこの上なく嬉しい出来事になるはずだったのだけれど、心から楽しむことができないまま食べ終えることになってしまった。
弁当箱をしまい終えるとふたり揃って立ち上がって、ミズキは杏寿郎の脇腹辺りでワイシャツを小さく握った。

「杏兄、抱っこ」

杏寿郎は元々ハッキリした目元をさらに丸く見開いて、咄嗟に戸の覗き窓から廊下に視線を遣った。見える範囲に誰もいないけれど、そういう問題ではなかった。
杏寿郎はミズキの肩に手を置いた。

「学校では先生、だ。過度に触れることも出来ん」

優しく諭す杏寿郎の顔をしばらくじぃっと見つめた後、ミズキはゆったりと微笑んで、肩に置かれた彼の手に触れた。

「…ごめんなさい、困らせました」

杏寿郎の手を肩からそっと下ろして、ミズキは準備室を出て行った。



「あ、ミズキさんこんばんは!」

夕方になって、庭を掃き清めていた千寿郎が隣家に帰宅してきたミズキに駆け寄った。

「千寿郎くん、こんばんは」
「寒いですね。あ、次の土曜日うちにいらっしゃいませんか?母上がミズキさんとドラマを観たいと言っていて」
「うぅん、ごめんね。土曜日はお見合いなんだって、私」
「そうですか、残念…、て、え?」

千寿郎が聞き直す間もなく、ミズキは小さく手を振って「じゃあまたね」と玄関へ入っていった。



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