不死川実弥の場合(前)
『この話いつ終わるのかな』と考えながらミズキは窓の外に視線を投げた。目の前のひとつ先輩だという男子生徒は切々と自分の恋情を訴えているのだけれど、残念ながら他に好きな人のいるミズキには砂の一粒ほども響いていない。
窓の外から、あるいは廊下の向こうから、『実弥の声が聞こえてきたらいいのに』とミズキは溜息をついた。一応、目の前の相手には気付かれないように配慮をして。

ミズキが初めて「大人になったら実弥のお嫁さんになる」と言ったのは3歳のときだったらしいというのは、周囲の大人が笑い話として彼女に教えたことだった。それに彼女は別段驚くこともなく、「その頃からかぁ」と笑っただけだった。
生まれた時から隣に住んで、一人っ子のミズキは兄弟の多い不死川家に交じって育ち、周囲の証言によると3歳から実弥に恋をして、今は実弥が教師として勤める高校に通っている。

先輩の話がひと段落したのを見計らってミズキは「あの」と声を発した。
先輩の目が期待に輝くのを見て『逆にすごい』と謎の感動を覚えてしまう。今の態度のどこに期待の余地があったというのか。

「私好きな人がいますので失礼ですがお気持ちは嬉しくありません。もちろんお付き合いできません。以上です」

完膚なきまでに先輩の恋に終止符を打って、ミズキは小さく頭を下げてその教室を後にした。呆気にとられたという表情の先輩がひとり教室にぽつねんと立ち尽くしていて、少々気の毒とは思いつつさっさとその場を去った。

階段を下ると大好きな姿を見付けて、ミズキは目を輝かせて駆け寄った。「実弥」と呼びかけると視線で咎められて「…先生」と付け足した。彼は公私混同を許さない。ミズキが『これでいい?』という具合に首を傾げて見上げると実弥は息を抜いた。『まぁ良し』の仕草だ。

「まだ残ってんのか」
「あー…うん、ちょっと。もう帰るよ」
「…ちょっと待ってろ」

言うが早いか実弥は一度職員室に引っ込んで、すぐに戻ってきた。手にしたマフラーをミズキに巻いてやって「ったくテメェは何でいつも寒そうな格好してやがる」と小言を漏らしたけれど、ミズキがふくふくと嬉しそうにマフラーに頬を寄せるので尻すぼみに終わった。

「気ィ付けて帰れよォ」
「ん、ありがと。多分ねぇ、今日の夕飯当番は玄弥だから、カレーになるよ」
「またか」
「ヘルプに入るから生煮えは避けさせる」
「頼むわ」

揃ってくつくつと笑ってから、ミズキは手を振って去った。校舎を出て歩きながら、マフラーに口元を埋めてスンと鼻を鳴らした。「『寒そう』はどっちよ」とマフラーの中に呟いた。首元が詰まるのを嫌う実弥はネクタイをしないしワイシャツのボタンも留めない。もちろん真冬でもマフラーやネックウォーマーの類を使わない。そんな彼がいつもマフラーを持っていて、それが最終的にミズキの首に巻かれることになる習慣が、彼女には嬉しかった。だからミズキは自分のマフラーを巻かない。

ミズキが一度自宅に戻って着替え、隣の不死川家へ行くと、玄弥が台所に立って夕飯の支度を始めたところだった。そのまま作業に加わって(予想通りカレーだった)、せっかちな玄弥がさっさと加熱を終えようとするのを制したり、小さい子たちの分を取り分けて甘口のルーを溶かしたりと準備をしている内に母親の志津が末っ子の就也を連れて帰宅して賑やかに食卓を囲んだ。
ミズキの両親が仕事で毎日帰宅が遅いことと兄弟がないことを理由に、幼い頃からこれが習慣付いていた。

食事が終わるとすぐに志津が末の子ふたりを連れて風呂に入り、そうしていると実弥が帰宅して夕飯、食べ終わる頃に小さいふたりがお風呂から上がってきたのをバスタオルで受け止めてパジャマを着せ、髪を乾かしてきた志津に託して寝室へ遣る、これも習慣だった。

「じゃあ先生、今日もお願いしまーす」
「おー座れェ」

食器を下げた後の座卓にミズキが意気揚々ノートや教科書を出してくると、慌てて玄弥も倣った。ミズキは胡坐をかいた実弥の脚の中に、玄弥は左前に着いた。そしてその日学校で授業を受けた内容が再現されていく。
元々はあまりにも数学が苦手な玄弥にミズキがあれこれ教えてやっていたのを実弥が見かねて、その日の授業の復習をするようになったのが初めだった。
勿論膝に座る必要はないのだけれど、ミズキにとっては、背中のぬくもりや耳元の声、目の前でペンを握る手が堪らなく幸せな時間だった。
それを見ていた寿美が少し離れた位置で自分の宿題を広げながら「今更だけど距離感バグってるよねぇ」と笑った。

その日の授業の内容が終わるとそのまま宿題も済ませて、ミズキは机に伏せて背中や腕を伸ばした。

「そういえば今日ミズキちゃん告白されたんでしょ」

既に自分の宿題を終えてスマホを触っていた寿美が興味深々という顔で言った。ミズキは背後の反応が気になりつつ「あぁ…うん?」と曖昧な返事をした。
寿美の情報網の広さについては全員が承知しているところで、誰も何故彼女がそれを知っているのか疑問は抱いていなかった。

「ねぇねぇどんな人だったの、かっこいい?」
「うーん…覚えてない」
「ウケる、なんで?」
「だって私実弥が好きだもん」

ミズキが半分振り返って実弥の喉元に擦り寄ると、彼は「あーハイハイ」と頭を撫でてやった。

「おざなり!」
「いーからどけェ、足痺れてんだよ」
「えっ、どっちの足?」
「…オイ止めろバカ、ってぇ!テメ、」

目を輝かせたミズキの悪戯っぽい笑い方に実弥が後ずさりするも手遅れで、足の痺れが治まるまで無遠慮に足を揉まれて息も絶え絶えになった。終いにはまだ起きていた弘やことも加わって揉みくちゃにされた。
しかし、深く息をしながら実弥がゆらっと起き上がる頃には、危険を察した弟たちはさっと寝室に引き上げていった。

「テメェ…恩を仇で返すたァいい度胸だ…」
「あ、さすがにごめん、許して明日おはぎ買って来るから」

今度は実弥の大きな手がミズキをしっかり捕まえて床に倒し、自分がされたのと同じだけ彼女をくすぐり倒したのだった。
しばらく後になってようやく解放されグッタリと寝転がるミズキの元へ寿美が歩み寄って、スマホの画面を向けた。表示されていたのはつい今しがた撮ったばかりの写真で、事情を知らずに見れば実弥がミズキを押さえつけて良からぬことに及んでいるように見える。

「えっ寿美ちゃん天才なの?送って!」
「もう送った」
「ありがとう愛してる!」
「はいはい私も〜」
「実弥、私一生の思い出にするね」
「アホやってんな消せ!俺を失職させる気かァ!」
「何言ってんのさね兄、ヤることヤっといて」
「寿美言い方ァ!!」

けらけらと笑って今度は寿美が風呂へ逃げた。
ミズキは机のノートや教科書を片付けてスマホの画像を確認し、しっかり保護を掛けて幸せな気持ちに浸りつつ帰り支度をした。

帰りがけにミズキが下校時に借りたマフラーを実弥に差し出した。

「今日もありがと」
「もう持っとけよソレ」
「やだよ、実弥から借りるのが好きなんだもん」
「…へーへー」

「じゃあおやすみ」とミズキが笑って帰っていった後の玄関をしばらく眺めていると、背後から寿美がひょっこり顔を出した。

「…まだ風呂行ってなかったのか」
「良かったねぇ、さね兄」
「ハァ?」
「ミズキちゃん告白断ってくれて」
「…はよ風呂入れェ」
「さっきの写真さね兄にも送っといたから」
「ハァ!?」
「お風呂入ってこよ〜」

けらけらと笑って寿美は逃げていった。実弥は先ほどミズキがしたようにスマホの画面を確認して、ひとつ舌打ちをして、ポケットに戻した。


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