錆兎の場合
この数分というもの私はとても困っていた。目の前の男は私がぶつかったせいでスマホを落として液晶が割れたと捲し立てている。

川に両側から覆い被さるように桜が枝を伸ばしている名所は、最高の瞬間は逃したとはいえそれなりに多くの見物客が行き交っていた。私は友人と2人で『先週がベストだったねぇ』なんて話しながら人混みを泳いで、桜の写真を撮ってふと顔を上げたらすっかりはぐれてしまっていたのだ。
そんな中、この『液晶割れた』さんと肩が接触してしまった。正直、はっきり断言はできないにしても、立ち止まっていた私にぶつかってきたのは相手の方だ。
けれど相手の剣幕に萎縮してしまって、どうしても反論が出てこない。こわい。唾を散らすような剣幕のその男を見ていると、先日テレビで見かけたウツボのことが頭をよぎった。一種の現実逃避だろうか。
いよいよ過熱気味になってきた男の手が私の肩を掴もうと伸びてきたところで思わず身を竦ませると、突然真横からその男の頬にガツンと拳がめり込んだ。
男の身体が横っ飛びに飛んで鈍い音で欄干にぶち当たった。も、ものすごく痛そう…!いやそれよりも、と拳の出所を見ると、宍色の髪をした男前さんが私を見ていた。

「あんた大丈夫か?」
「は、はい…!」
「話をつけるから店に入ってろ」
「み、せ?」

ん、とその男前さんが指差す方を見れば、落ち着いた雰囲気のカフェがあった。そういえばその人は黒いギャルソンエプロンをしている。
「でも、」と私が言ったところで欄干に倒れ込んでいた男から呻き声が上がって、思わずまた肩が跳ねた。それを見た男前さんに「ほら」と促されてしまっては、大人しくお言葉に甘えるしかなかったのだ。

指示されたお店に入ると、ふんわりとコーヒーが香った。ランチタイムとカフェタイムの合間とあって客足は落ち着いていて、可愛らしい女の子の店員さんが「いらっしゃいませ」のあと席に案内しようとしてくれたので、慌てて店の外を指差した。

「あ、あのっ綺麗な髪のお兄さんが、助けてくれて…」
「あぁー、そっか、そうだね、すごくど真ん中だぁ」
「まんなか…?」

ふわふわした喋り方のその女の子は、ウンウンと納得した様子で頷いて見せて、「とにかく座って、何か飲む?」と自宅に友達を招いたみたいに勧めてくれた。私は1人掛けのソファに腰を下ろしてコーヒーをお願いした。
ぽつぽつと配置された観葉植物が適度に席同士を区切っている。アンティークな雰囲気の調度、天井から吊るされた電球には青いステンドグラスのシェードがかかっている。天井の隅にはモビールがあって、小さな紙の魚がちらちらと泳いでいる。暖かくて穏やかな海の、色とりどりの小さな魚が身を寄せる場所みたいなお店だ。

「あの宍色頭はね、錆兎っていうんだよ」
「さびとさん…」
「そう、いいやつだよ。私は真菰、あなたは?」
「ミズキ」
「素敵な名前」

真菰はふんわりと笑った。とそのときドアベルが鳴って、見ると錆兎さんが店に戻ってきたのだった。私が立ち上がろうとするのを彼が制した。

「怪我はないか?あんた、災難だったな」
「ありがとうございました、本当に…あの、相手は…?」
「逃げていった。元々液晶が割れてたのを難癖つけてたみたいだな」
「そっ、か…あの、本当にありがとう、怖かったから」
「あの様を見て助けに入らないのは男じゃない、気にするな。何か飲むか?」
「もう聞いたよ、コーヒーお待たせー」

ふわーっと笑う真菰が私の前にコーヒーを置いてくれた。コーヒーの香りを含んだ湯気に少し緊張が緩んだ。
「あ、そうそう」と真菰が嬉しそうに言った。

「錆兎、紹介するね。私の友達のミズキ、かわいいでしょ」
「…お前な、」

真菰、『かわいい』は強要するものじゃないよ…!とは言いたくても言い出せずにいたそのとき、鞄に放り込んだままだったスマホに着信があって、それで血の気が引いた。はぐれた友達のことをすっかり忘れていた!

2人に頭を下げてからスマホ片手に店を出て、謝り倒した後に事情を話しカフェの店名を伝えてから通話を終えて店に戻った。戻ると錆兎さんが気遣わしそうに「…大丈夫か?連れがいたのか」と声を掛けてくれた。

「写真に夢中ではぐれちゃって…ごめんなさい、ここに呼んじゃったから待たせてください」
「あ、あぁ…構わない」

曖昧で微妙な笑い方をした錆兎さんを不思議に思って見ていると、「ゆっくりしていくといい」と言い残して彼は厨房に引き上げていった。

一度置いたけれどまだ温かいコーヒーにありがたく口を付けていると(すごく美味しい!)ドアベルが鳴って、見るとはぐれた友達が急いで来てくれたのだった。立ち上がって迎えると友達は私の頭や肩や腕をぺたぺたと怪我が無いか見るように触った。

「ミズキちょっと大丈夫なの!?怪我とかしてない!?」
「ごめんねぇ…!大丈夫だよ、錆兎さんが助けてくれて…」

ほらあの店員さん、と私が錆兎さんの方を向くと、彼はしゃがみ込んで顔を伏せていた。体調でも悪い?と駆け寄って私もしゃがむと、彼が顔を上げて私を見、友達を見、「…連れか?」と。私が頷くとまたハァァァァー…と深く息を吐いて、「女だったのか…」と小さな小さな声で呟いた。え、まさか今まで私のこと男性だと思ってたんですか?そこそこぱっと見で女物と分かる服を着てますよ?
真菰が錆兎さんの後ろで笑いを堪えている。私の友達は何やら色んなことを察した顔で「あー、何となく…」と言った。

そこから友達も一緒に席に着いてコーヒーを飲んだ。友達のぶんのコーヒーを持ってきてくれた錆兎さんの「お待たせしました」の、様になることといったら。

友達は真菰と偶然同じ目的地に向かっているみたいにサクッと打ち解けて連絡先を交換して、あれよあれよという間に次の週末私と錆兎さんも含めた4人で出掛けることになっていた。
隣の県の水族館に行くのだ。カフェの天井に波のような陰影を投げる青いランプシェードやモビールの小さな魚たちを眺めながら、水族館は真菰と錆兎さんにとても似合うだろうなぁと思った。

私は友達から「助けてもらったならお礼しなきゃでしょ?」と言われて、ごもっとも!その場で錆兎さんに何をご馳走しようか聞こうとしたのだけれど、彼は口元を手で覆って目を逸らし、厨房に引っ込んでそれきり戻ってこなかった。

さて4人で出掛ける当日、友達と真菰から相次いでドタキャンの連絡があり、既に待ち合わせ場所にいた私と錆兎さんは顔を見合わせた。
「なんだかデートみたいになっちゃいましたねぇ」と照れ隠しをした私に、「…『みたい』じゃなくデートしてくれないか」と言って真剣な目をした錆兎さんが私の指先をそっと握った。
どうしようもなく顔が熱くなって何を言ったらいいか分からなくなってしまった私に、「一目惚れだったんだ」と彼はあの日の種明かしをしてくれたのだった。

以来、錆兎はあの日私を助けてくれたその手で、心の底から優しく私に触れてくれる。
迷子の熱帯魚を掬い上げるみたいに、優しく。


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