竈門炭治郎の場合
うちのパン屋から自転車で10分ぐらいの距離には一軒の喫茶店があって、サンドイッチ用の食パンやクロワッサンを注文してくれている。それを、大きいクーラーボックスに肩ひもを付けて背負えるようにして、俺が自転車で持っていく。
母さんは「もうずいぶん暑いし、業者さんに頼むからいいのよ」と言ってくれたけど、俺が押し切る形で配達を続けている。勿論送料の節約の意図はあるけど、それだけじゃない。

今日も日差しが強くて肌がひりつくし、少しの時間でも汗が溢れ出てTシャツがべたべたする。それでも、目指す喫茶店が見えてくると口元が緩むのを自覚した。店の脇に自転車を停めて挨拶しながらドアを開けると、からんからんとドアベルが鳴って、涼しい空気が頬を撫でた。

「炭治郎くん!いらっしゃい」

ミズキさん。
この喫茶店でアルバイトをしている、近所の大学生だ。とても優しくて裏表のない匂いがするひと。
この喫茶店に漂うのはコーヒーとパンの匂い、ベーコンや卵の焼ける匂い、あとはミズキさんの匂い。すべて合わせると、晴れた日曜の朝みたいな匂いがして、それだけで嬉しくなる。
ミズキさんは汗だくの俺を見るなり冷たいおしぼりを持って来てくれて、カウンターのいつもの席に案内してくれた。コースターの上には銅製のタンブラーがあって、氷の浮いたコーヒーがなみなみに入っていた。丁寧にストローまでさしてくれているけど、喉の渇きからストローは脇に避けて直接アイスコーヒーを流し込んだ。喉をひんやり通っていく感覚が気持ち良かった。
一息に半分ぐらいまで飲み干してしまった俺を見ながら、クーラーボックスの中身をお店の冷蔵庫に移していたミズキさんが「暑かったでしょ、おかわりあるからね」と笑ってくれた。

この人が好きだと思ってから、もう半年ほどになる。

「竈門くんありがとうね。これ受領書」

俺がぼうっとミズキさんを見ていると、初老の店主さんがカウンター越しにペラっと受領書を差し出して、「次は21日に頼むよ。じゃあ僕は奥で事務仕事してるから、ミズキちゃんに伝えておいて」と小声で残して奥に入っていった。店主さんにはいつの間にか俺の気持ちに気付いていて、毎回ミズキさんのシフトが入ってる日に納入を指定してくれる。

ミズキさんはパンを保管庫に仕舞い終えるとカウンターを挟んで俺の正面に座って、洗って伏せてあった銅のタンブラーを丁寧に拭き始めた。
ミズキさんの伏せた目の睫毛だとか、丁寧な指だとか、拭き終えたタンブラーのつるつるとした面を満足そうに見る表情が好きだ。それを見ながら飲むコーヒーも。
本当は、初めて会った時にはコーヒーはあまり得意じゃなかった。でも背伸びして飲んだというのもあるし、実際ミズキさんの淹れてくれるコーヒーは美味しかった。

「炭治郎くん、おかわりいる?」

あまりにまじまじ見つめすぎて、おかわりを督促したと思われてしまった。勿論そんなつもりはなかったのだけど、ミズキさんのコーヒーは好きだし、もう1杯分ここにいられると思えば遠慮する選択肢はすぐに萎んだ。
再びなみなみと注がれたアイスコーヒーを、今度はちゃんとストローで大切に飲んだ。

「…ミズキさん、そろそろ就活とか始まる時期ですか?」
「うん?そうだね、来月1週間職場体験にいくよ」
「…遠くですか?そこに就職するんですか?」
「電車で3駅だから通えるよ。うーん…採用してもらえたら、嬉しいな」

ひとまず遠い所に行ってしまうのではないらしいけど、就活が始まればミズキさんはアルバイトを辞めるかもしれない。その時辞めなくても時期が卒業にずれるだけだ。
いつまでも居心地のいいこの席でミズキさんを見ていることは出来ない。
今だってこの店の外にはミズキさんの大学生活があって、就職してしまえば会社での時間があって、そこには当然男がたくさんいる。今は何も着けていないミズキさんの薬指に指輪を贈る人が、俺の知らないところで現れるかもしれない。
俺はまだミズキさんの連絡先すら、聞けていない。
アイスコーヒーを飲んだばかりだというのに、喉が渇くような気分がした。

「ミズキさん」と俺が言いかけたところで、背後のドアベルが鳴った。

「ミズキちゃん、遊びに来たよ〜」

見ると、ミズキさんより少し年上かというぐらいの男が1人いた。嫌がってるにおいがしたのは、ミズキさんからか、俺からか。
ただひとつ確かなことは、この男からは下心のにおいがする。
ミズキさんが微妙な笑顔で「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」と言うと、男は俺の隣に座った。ミズキさんはその男とは反対の方向へ1歩ずれた。
男の注文を受けてコーヒーを淹れるミズキさんを見るのは、ひどく不快だった。

その男の前にアイスコーヒーが出されると、男は口を付けることなくあれこれとミズキさんに話し掛けた。

「ミズキちゃんエプロン可愛いね」
「…どうも」
「今日何時に上がるの?」
「飲まないんですか」
「飲むよぉ勿論」

男がコーヒーに口を付けている間にミズキさんは磨き終えたタンブラーを棚に仕舞うふりにかこつけて、男に背中を向けた。
間違いなくミズキさんからは『困った』『迷惑』のにおいがしたし、俺だってこんなことで、残り少ないミズキさんとの時間に割って入られたくはない。
男はミズキさんが構ってくれそうにないと悟ると、カウンターの上に出したままの受領書と俺を見比べて、一般の客でないと判断して話し掛けてきた。身を乗り出して来られると下心のにおいが強くなって、吐き気がしたのは単に悪いにおいのためか、俺の嫌悪感がそうさせるのか判断出来なかった。
最低限返事をしている内、男は声を落として俺に耳打ちした。

「お前もミズキちゃん狙いなんだろ?胸でかいし顔可愛いもんな」

瞬間、血が沸騰するような怒りに駆られて俺はそいつの胸倉を掴んで頭突きをお見舞いした。

「ミズキさんを汚い目で見るな!!」

骨の当たる鈍い音や男が後ろに倒れ込んだ音でミズキさんが振り向き、カウンターから身を乗り出した。男は床で悶絶している。

「たっ炭治郎くん!?」

ミズキさんがカウンターを回り込んできて、男に掴み掛かりそうな俺の腕を掴んだ。



「ミズキさんすみません…迷惑を掛けてしまった」

騒ぎを聞いた店主さんが出てきて、額を押さえて悶絶する男に丁重に謝罪をしてタクシーを呼んで帰らせた。救急車を呼ぼうかとの申し出に、男は気まずそうに首を振った。
俺はというと事務室に招き入れてもらって、ミズキさんが額に保冷剤を当ててくれている。

「炭治郎くん、ありがとね」
「…でも、あの男が何か言ってきたら」
「たぶん大丈夫だよ、教授にも告げ口しとくし」

あの男はミズキさんの大学で同じ研究室の院生なのだという。「前からしつこくて困ってたの」とミズキさんは言ってくれるけど、やっぱり一応我慢すべき場面だったんじゃないかという思いは消えない。でもやっぱりあの発言は許せない。『胸でかいし顔可愛い』なんて、ミズキさんを何だと思ってるんだ。実際のところ魅力的な胸と可愛らしい顔は事実だけれども。違う、何を考えてるんだ俺は、長男なのに。

「炭治郎くん、おでこ痛い?」
「いっいえっ!俺!石頭なんで!!」

ミズキさんは俺を見て「元気そうでよかったぁ」と笑って保冷剤を下げ、柔らかい指先で冷えた額を優しく確かめてくれた。冷えたぶんをすぐ取り戻してしまいそうなぐらいに心臓がバクバクとして、顔が熱くなった。

「ミズキさん」と俺は、あの男に遮られた言葉を、改めて口に出した。

「…ここのアルバイト、いずれは辞めてしまうんですよね」
「うん?そう、だね…就活が忙しくなってきたら、難しいかな」
「それでミズキさんに会えなくなるの、俺は嫌です」

ミズキさんの丸い目が俺を見ている。少し戸惑いのにおいがする。

「ミズキさんが好きです」

ミズキさんのにおいが変わった。心音は聞こえないけどドキドキしてくれてるのはにおいで分かる。においには『嬉しい』も混じっている。俺にとって何より嬉しい方向に見通しがついたけど、それでもやっぱり言葉で聞かせてほしい。

俺はミズキさんの唇が戸惑いながら動いて「わたしも」と言い終えてくれるのを、堪らない気持ちで見つめていた。


prev next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -