不死川実弥の場合
ミズキは教壇に立って新任の挨拶をしながら冷や汗が止まらなかった。
ただ彼女の冷や汗は、新任教員としての緊張というよりは別の要因によるところが大きかった。整列した机ひとつにつき生徒ひとりずつが並んでいるその中に、ミズキの幼馴染の少年がいる。名前を不死川実弥という。
『赴任先の学校に幼馴染の子がいるの?ちょっと恥ずかしい感じもするけど心強いね』と大学の同期からは言われたし、少し前までミズキだってそう思っていた。
けれど、数日前にそれが一変してしまった。

「好きだ、ずっと前から」と実弥は言った。
幼い頃からずっと隣家で一緒くたに育ってきた間柄、いつも通り妹たちの保護者としてミズキの部屋へ遊びにきていた時に「寿美ィ、ちょっと貞子連れて先帰ってろ」とふたりを部屋から出して、『何か悩み相談かなぁ』と呑気に考えていたミズキに急に訪れた告白だった。
『ずっと前』というのがいつのことなのか知る由もないけれど、幼い頃から知る実弥が話を誇張したり嘘をついたりする性格でないことを考えれば、年単位で前ということになる。当然、ミズキは当惑した。
その告白を受けた時にはこの高校に就職内定をもらって他の内定に断りを入れた後だったし、就任前の手続きだとか提出するものを準備し終わって、これで数日後から晴れて『先生』としての第一歩という段階だった。
その時にミズキは思い出した。実弥は、話を誇張したり嘘をつくことはしないけれど、狡猾に計算はする。逃げられない状況になってからの告白だった。

『第一印象、笑顔!』と心の中で呪文のように唱えながらだったので正直かなり引き攣った笑顔だったろうとミズキは自覚していた。5×4に並んだ席の3番目の窓際を見ることができない。元より鋭い実弥の視線が刺さるほど注がれていて、頬がひりつくほどだった。
何とか無事に挨拶を終えて頭を下げると、生徒たちは概ね好意的な拍手で迎えてくれた。

「ソウマ先生にはこのクラスの副担任についてもらう。不慣れなことが多いだろうから、お前ら困らせるなよ」

え、うっそーと場違いに軽い感想しかもはや出てこないまま担任教員の横顔を見るも勿論覆らない。絶望的な気分を乾いた笑顔で隠している間に朝のホームルームは終わり、「じゃあソウマ先生、職員室に戻ってこれからの流れを話しますんで」と歩いていく担任教員の頼もしい笑顔を神の救いのごとく感じてミズキは教室から逃げた。


幸い、生徒たちの特に女の子とは歳が大きく離れていないこともあって早々に打ち解けることができたし、先輩教員たちも親切に色々と教えてくれた。けれど、あまりの気まずさに実弥の顔だけは見ることができないまま1カ月ほど飛ぶように過ぎていった。
女子生徒たちと食堂で何度か同席している内、年頃の女の子らしく好きな男の子だとか好みのタイプの話が持ち上がった。その時明らかになったことには、女子たちの実弥への支持が厚い、つまりモテるとのことだった。
確かに、初見では少しキツイ印象を受けるかもしれないけれど、実弥は美しい顔立ちをしているし上背もあって、大家族の長男らしくしっかり者で面倒見もいい。昨今のティーンエイジャーは中々お目が高いと考えた直後にオバサンの思考に陥りつつあるのに気付いてやめた。
「ミズキちゃん先生彼氏いないの?」と女子生徒のひとりが聞いた。

「いないよ」
「えー可愛いのに!なんでー?」
「何でって刺さるわぁ…いや、働き始めたばっかりだし、淫行教師になるわけには…」
「え、別に社会人なんだし彼氏ぐらい自由じゃない?うける、淫行教師て!」

そう言われてミズキはハッと気付いた。『彼氏』と言われて無意識に実弥を想定している。これはダメだそれこそ淫行教師だ、と彼女は心の中で何かに詫びつつ「じゃあ午後の準備あるから」と生徒たちに手を振って食堂を後にした。

人生には間が悪い日というのがあるもので、食堂を出て廊下の角を折れたところで、今し方話題に上った実弥と出合い頭に衝突した。最初ミズキにはネクタイがなくボタンも留まっていない襟元だけが見えて、男子生徒だということしか分からないまま「ごめんね大丈夫?」と途中まで言いかけ、実弥の顔を視認した瞬間に言葉を失ってしまった。実弥の方も同様で目を丸くしている。
告白を受けて以来ミズキが頑なに接触を避けてきたせいで、至近距離に寄るのは久しぶりだった。
瞬間、ミズキは火が出たと錯覚するほど顔が熱くなった。

「しっ不死川くんごめんね大丈夫かな!女の子たちがねさっき君のことをとっても褒めてたから!モテるんだねすごいねじゃあ私これで!」
「っおい待てテメェ!」

肺活量の限りに一息で言い切って、腕を捕まえようとする実弥の手も擦れ擦れで躱してミズキはその場から逃走した。
学生の頃体育の授業でして以来の全力疾走で職員室に戻ったミズキを迎えた先輩教員が「廊下は走らない」と優しく諭すのに、ミズキは「申し訳ありません間違いは起こしません!」と謎のハイテンションで頭を下げた。





「線路のトラブルですか」

「そうそう」と先輩教員が後ろ頭をばりばり掻いた。通学に使う生徒もいる電車の路線で少々大きいトラブルがあったらしく、本日中に復旧の見込みがないというのがニュースでも流れていた。『帰宅の足を直撃』というニュースの見出しが身近にも及んでいる。

「親御さんの迎えが都合ついた子らはいいんだが、やっぱり仕事の都合で難しい家もあってな」
「手分けして車ですね」
「そうそう、ソウマ先生の近所のがひとりいるから頼むよ。今日はそのまま上がっていいから」
「分かりました!」

先輩教員を追って、帰りの足がないという生徒たちの元へ向かっていた。冷静に考えてみれば分かりそうなものだけれど、靴を履き替えて下駄箱の外で待っている生徒たちの中に白い頭の後姿を見付けた時になって初めてミズキは『あ、そりゃそうだよねお隣だもん!』と久しぶりに冷や汗の噴き出るような気分がした。
振り向いた実弥と目が合うと、『ふっざけんなよ絶対ェ逃がさねェからな』と声が聞こえそうな視線が飛んできてミズキは神仏に祈った。
生徒宅の地区で班別けがされ、教員の車と結びつけられて(無情にもミズキの車には実弥ひとりだった)移動する運びになった。

「えっ…と、しなずがわくん、帰ろ、っか」
「…ッス」

他の教員や生徒たちの手前もあってか、実弥は大人しくミズキの後に従った。軽自動車の運転席と助手席に隣り合っても沈黙は続いた。
エンジンを掛けながらミズキは『もしかしてこれ部屋に入ってもらうより恥ずかしいかも』と気付いた。今までに実弥を乗せたことはないし普段他の人を乗せることもないので、不死川家の女の子たちを何度も招いている私室よりもプライベート感が強い。好みの音楽とカーフレグランスと読みかけの文庫本ぐらいしか特徴はないとしても、何だか気恥ずかしかった。
車に乗る前には射殺さんばかりの視線を投げてきた割に、意外にも実弥は車が動き出しても何も言わなかった。
ミズキは緊張で手に汗をかき『ハンドル滑りそうこわい』とひやひやしながらも、生徒を安全に送り届ける義務を思って己を鼓舞した。

実弥は結局、道中ずっと口を閉じていた。
ミズキは最初こそ緊張していたけれど、実弥が何も言い出しそうにないことが分かってくると徐々に運転に集中するようになった。

「…着い、」まで言って、ミズキは口を押さえた。車を不死川家の前に横付けして一時停車したところで助手席を見ると、実弥が眠っていたのだ。
数秒間目を覚さないかと見ていたものの実弥の目は閉じたままで、ミズキは少し迷った末にサイドブレーキを解除して、すぐ隣にある自宅まで車を動かしてエンジンを切った。
実弥はまだ目を開けない。
寒くはないだろうけれど念のため、と後部座席に手を伸ばしてブランケットを掴み、実弥の膝に広げた。そして広げ終えて引っ込めようとした手をしっかり掴まれてしまった。驚いて顔を見ると実弥の目は眠そうでもなくしっかり開いていた。

「…つ、着いた、よ?」
「そうだな」
「えっと、帰る?」
「…話してェ」

掴まれた手をきゅっと握り直されて、ミズキは身体を強張らせた。

「…迷惑掛けて悪かったと思うけどよ、無視は止めろ、結構堪える」

ミズキはハッとして実弥の横顔を見た。告白を受けて以来、頑なに彼を避け続けて目も合わせない日が続いていた。真剣に想いを告白してくれたのに、対応としてあまりにも酷ではなかったか。
「ごめんなさい」と呟いてミズキは弱く手を握り返した。

「逃げないから、手を放してくれる?」

実弥の指が緩んで、ミズキは座席の背凭れに戻ることができた。

「…ごめんね、びっくりしちゃって、逃げてばっかりで」
「ひと月お前と話さないことなんざ無かったからな、発狂手前だったぜェ」
「そ、そんなに?」
「真面目に」
「そ、っか…」
「とっ捕まえて教室でキスしてやろうかと」
「思いとどまってそれは!」
「しねェよまだ」
「『まだ』じゃなくてね!?」

ということはもうひと月なり逃げ続けていたらどこかの時点で実弥が『発狂』して『とっ捕まえて教室でキス』が実現していたのだろうか。それを想像してミズキは背筋の凍る思いがした。

「…車で送ってもらってんのも情けねェ」
「え?」
「俺がガキだって話」

実際のところ実弥はその歳の頃の自分よりも大人だとミズキは思うけれど、それを伝えたところで彼は喜ばないだろうと止めた。

「だから振るんなら『お前みたいなガキじゃ相手にならない』って、ちゃんと言えよ。でも振った後で無視は止めろ頼むから」

ミズキは実弥の横顔を見つめた。
何年越しの想いを告白して、自分の未熟を噛み締めて、失恋を覚悟して、それでも繋がりを保ちたいと請うなんて、自分にはとてもできないと思った。
勿論ミズキが実弥のことを嫌っているということは無い。男性・女性よりも近しい大切なカテゴリの中に捉えていただけだ。
何にしても彼の真摯な想いに真剣に答えなくてはいけないと思った。

「…実弥が子どもだから付き合えないっていうんじゃないよ。もちろん嫌いなのでもないし。ただその、性別より大事な家族の枠に入ってたっていうか…」
「どうしたら俺が男に見える?俺が他に女作ったらオメデトウしかねェかよ?」

実弥の隣に可愛らしい高校生の女の子をあてがって想像してみて、ミズキは僅かに胸が痛むような感覚に驚いた。それをすぐさま嫉妬と認めてしまえるほどミズキは仕事と恋愛に対して奔放ではなかったけれど。
難しい顔で黙り込んでしまったミズキの横顔を、今度は実弥が見つめた。

「…黙ってるってのは、期待してもいいのか?」

本当ならミズキにとっては『期待しちゃダメ』と突き放すべきところだった。待ってみてもそれがミズキから出なかったことに実弥は高揚した。
実弥はミズキの膝の上で彼女の手を握った。ミズキは驚いて身体を緊張させたけれど、振り解きはしなかった。
実弥は身を乗り出して、手を握るのと反対の手でミズキの顔を引き寄せた。彼女はそれも振り解かなかった。真ん丸なミズキの目が実弥を見て、実弥はずっと間近に見たいと思っていたそれを見逃したくない思いから、結局お互いに目を開けたまま唇が合わさった。

「…キスしちゃった」
「嫌悪感あるか?」

唇を合わせて離してから初めてミズキが目を逸らして、少し後ろめたそうに逡巡した後、小さく首を振った。

「罪悪感はあるけど、」

ミズキに最後まで言わせず実弥はまた唇を塞いで、今度はより深く押し付けて喰んだ。酔ったようにキスを続けてミズキから鼻に掛かった声が漏れたところでハッと気付いて身を引いた。間近に見た彼女の目がほんのり甘く潤みかけていて、それ以上見ると自分で止められなくなるのを感じて実弥は口元を手で覆った。

「…わり」
「…ん、」
「これからもキスしたい、俺は。いいか?」

ミズキが沈黙するのを実弥が見つめていると、彼女はまた小さく頷いた。





「先生質問いいスかァ」

実弥が教科書片手に準備室の戸口に立つと、中でパソコンに向かっていたミズキは肩を跳ねさせて振り返り、実弥に咎めるような目を向けた。

「…連日熱心すぎませんか、しなずがわくん」
「模範的な生徒だろォ」
「もぅ…入って、教科書見せて」

実弥は廊下に一瞬視線を巡らせてから部屋に立ち入り、後ろ手に鍵を掛けた。

「ちょっと、鍵は必要?」
「必要だろ、なァ、ミズキ」

椅子から立ち上がったミズキの両脇を手で掬い上げて机に座らせ、実弥は噛み付くようにキスをした。

「ん、んぅ…ンッ、さねっ、…め」
「ふは、誰だよ『サネメ』て」
「だめって言ってるの、分かってるくせに」

机に座ったミズキの足の間に実弥が立っているので、羞恥から彼女が足を閉じようとするも実弥の腰を捕まえて喜ばせるばかりだ。
ミズキは眉を下げて泣きそうな顔を実弥に向けた。

「…実弥お願い、早く卒業して。罪悪感で死んじゃう、私」
「だァから毎日勉強に来てんだろ」
「ベンキョウ」
「もっかいキスしたら勉強する」
「その『もっかい』が長いのいつも」
「ン年越しの片想いが実ってはしゃいでんだよ」

それを言われるとミズキは弱かった。彼女は実弥の両肩に腕を置いて引き寄せ、ちゅ、と可愛らしいキスをひとつ落とした。

「好きよ、実弥、早く迎えにきてね」

実弥が感情を堪えるように口元を震わせているとミズキはニッコリ明るい笑顔で「はいお終い勉強会しまーす」と机から降りてしまった。

「おまっ、ちょい待てンな軽いので済ませんな!」
「えー私の告白流されてる」
「…流してねェよ、待ってろすぐ行く」
「ありがと、はいお勉強!鍵開けてください不死川くん」
「…へーへー」


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