10

誕生日会は大いに成功した。ミズキはチビ達が拙い飾り付けをしたケーキだとか、壁に貼り付けられた折り紙の飾り、お袋が好物を聞いて作った料理を特に喜んだ。
ミズキはチビたちを順番にひとりずつ抱き締めて頬擦りして礼を言って、ただ玄弥は真っ赤になって固辞した。
一度トイレに立ったミズキの戻りが遅くて廊下に出てみると泣いていて、俺はその柔らかい髪を掻き混ぜて「良かったなァ、おめでとさん」と言った。

俺にとって幸運だったのは、ミズキの呼び方がようやく『不死川くん』から『実弥くん』に変わったことだった。家族の揃った中で苗字呼びは紛らわしいからと名前で呼んでいたのを、マンションまでの帰り道2人になった途端苗字に戻ったもんで、「そのよそよそしい呼び方、今更だろォ」と文句を垂れた。ミズキは笑って「今日はありがと、実弥くん」と言った。
余程抱き締めてキスしてやろうかと葛藤したが、堪えた。

それから極めて平穏で幸せな数週間が過ぎた。

ある休みの日に自宅で夕飯の後テレビのニュースを見てると、著名な画家の訃報が流れてきた。急病で、自宅で倒れてから数日のことだったそうだ。お袋がずっと大事に飾っている画集の画家だから、美術に疎い俺でも名前は知っていた。
亡くなる前から予定されてた個展は急遽回顧展に名が変わり、予定通り行われるということだった。
お袋を呼んでニュースの画面を指すと、お袋はしばらく画面に見入った後、いきなり「あぁ!」と悲鳴を上げた。
チビ達の玩具が散らばる床を横切ってお袋は画集を引っ掴んだ。

「実弥、来てちょうだい」

ただならぬ剣幕のお袋に付いて階段を上がった。先を行くお袋は「なんてこと」とか「どうして、もっと早く」と漏らしていた。
2階の部屋で向き合って座ると、お袋は画集を開いて目当ての頁に見入った。

「母さん、ミズキちゃんに前にどこかで会ったことがないかって言ってたでしょう」
「あァ」
「これだった」

お袋が差し出した頁は『教え子の像』と題された、10代後半の少女の肖像画だった。それは間違いなくミズキだった。
俺の頭には『うん、実父よりお父さん』と微笑むミズキが過っていた。
「その絵が発表されたときにね」とお袋が言った。

「絵の女の子がとても綺麗だったから、普段美術鑑賞しない人たちの間でも話題になったの。だけどその中で、心ないゴシップ記事が出回って」
「どんな」
「画家とモデルの女の子が不倫関係だって」
「…ン、なわけねェだろうが!!」
「勿論よ。だけどゴシップってそういうものなの」

怒りで目の前が赤く染まったような気がした。
手が震えて吐き気がした。

「実弥あなた、ミズキちゃんに電話してちょうだい。こんなときにひとりで泣かせてはダメよ」
「当然だ、行く」

立ち上がると階段を駆け降りてスマホひとつ引っ掴んで家を飛び出した。走りながらミズキに電話を掛けると長い呼び出し音の後に繋がった。
走る足を早歩きに落として息をついた。

「もしもし実弥くん?外にいるの?」

ミズキは至って普段通りの声だった。まだニュースを見てない可能性もあるか、と考えた。

「…あァ、ちょっと今からそっち行っていいかい」
「え、あー…ごめんね、今ちょっと、だめで」

可能性を否定、声が一瞬震えた。第一『行っていいか』を断られたことなんて今までない。
マンションのエントランスに着いて、部屋番号を押した。場違いに呑気なチャイムが電話口から遅れて聞こえた。

「…開けろよ」
「…実弥くん、」
「頼む、ひとりで泣くな」

ややあって解錠の音がした。
電話を繋げて無言のままミズキの部屋の前まで来て、ドアノブに手を掛けると抵抗なく開いた。ドアの中にはスマホを耳に当てたミズキが立っていて、俺を見た瞬間に涙をこぼした。
玄関に踏み入って抱き締めると、ミズキは堰を切ったように泣き出した。時折「先生」「ごめんなさい」と言いながら。

靴を履いたままミズキの髪や背中を撫でてしばらく抱き締めていた。
嗚咽が治まってきたのを見計らってミズキを室内に促して、ポケットに適当に突っ込んでいたスマホを見ると通話が繋がったままで、結構な時間になっていた。
茫然自失のミズキをソファに座らせて、冷蔵庫からお茶を出して保冷剤を布に包んで戻り、「飲んで、目ェ冷やせ」とコップを持たせた。コップを落としそうだったので手を添えて多少無理矢理に飲ませて、細く巻いた保冷剤を目元に当てた。

「辛ェよな、…ありきたりな言い方しか出てこねェけど」

ミズキは項垂れて両手で保冷剤を目に押し当てていた。

「回顧展あんだろ?行こうぜ、…その、クソみてェなゴシップのことで人目が気になんなら、お袋と寿美とか連れて家族連れって感じで、」
「いけないの」

珍しく、というより初めて、ミズキが俺の言葉をぴしゃんと遮った。
俯いたままミズキは黙っていて、しばらく後にとつとつと話し始めた。

留学に向けて卒業の準備が整った頃、長らく別居していた父親がミズキとお袋さんの住んでいた借家に無断で侵入した。ミズキの絵の中から金になりそうなものを物色しているところへ母子2人が帰宅して遭遇し、警察沙汰になった。怖くなってその借家を引き払い、番号を知られている携帯も解約して新しくした。
慌ただしい出来事や手続きが続く中でお袋さんひとり残して留学するのを躊躇していたミズキが、ある時お袋さんの受け答えに違和感を感じて一緒に受診、病名が明らかになった。周囲の勧めと、当時まだ判断力の残っていたお袋さん本人の希望で施設へ入所が決まって、ミズキは急にひとりになった。
そんな折、ミズキはくだんのゴシップの存在を知るが、出回ってから既に随分時間が経っていた。先生に迷惑を掛けた、急に留学をキャンセルして先生の顔に泥を塗った、この数ヶ月を側から見れば行方をくらませたと思われても仕方がない、先生の奥様に後ろ暗いから逃げたと誤解されていたらーーー

「…ってことで大体合ってるかァ?」

感情が荒れてるせいで時系列が入り乱れて、主語や目的語が抜けたり曖昧なミズキの話を、俺は時間を掛けて拾い集めた。ミズキは頷いた。
ミズキはこの細っこい身体で、どれだけの痛みや理不尽に耐えてきたんだろうか。

「よく耐えてきたなァ、世の中間違ってる、辛ェよな」

隣から肩を抱くとミズキは保冷剤を目から離した。目は痛々しく赤くなっていたが、涙は止まっていた。出る水分がもうないってことだろう。

「…なァ、やっぱり回顧展行こうぜ。その先生の奥さんっての、世話んなったんだろ?会えるかも知れねェぞ」
「…行けないよ」
「行きてェんだろ」
「行けないったら!」
「逃げんな!」
「私なら実弥くんと噂になった子なんて見たくない!」

…ハァ?と一瞬呆けた。自分が何言ってるか分かってないやつだこれは。喜んでる場合じゃねェ、雑念を消せ、消せ。
案の定ミズキは自分が何を吐露したのか気付かず、手負いの猫みたいにフーフー怒っている。俺は緩まないように顔を引き締めて優しい声を心掛けた。

「色々ありすぎたもんなァ、信じらんねェのも、罵られたらって怖くなんのも、分かるよ」
「…」
「前、俺に『傷は本人のせいじゃない』って言ってくれたろ。見えない傷もそうだ、ミズキのせいじゃねェ。これでミズキを責める奴がいりゃァ俺がブン殴ってやるよォ」
「…」
「だから行こうぜ…なァ」

ミズキはしばらく沈黙した後で「…殴っちゃだめ」と言って少し笑った。

「しかし、記者の類がいたらウゼェな。俺も手と足が出るのが抑えらんねェし」
「うん…」
「っし、どーにかする。とにかく、今日はもう風呂入って寝ろ。水分摂って目ェ冷やせ」
「…ん」
「明日。10時に迎えに来るから」

ソファから立ち上がって、俺を見上げるミズキの頭に手を置いた。「イイコで寝て待ってろよォ」と俺が笑うと、ミズキもまた少し笑って「うん」と言った。


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