遥は兄の肩の上から母の顔を見た。久しぶりに見る顔だった。驚きに強張らせた顔は、たぶん自分とよく似ているだろう。

「頼みたいことって何?」

母の顔を見ていることができず兄の胸に顔を伏せていると、まるで俊也は何事もなかったように冷静な声で母に問いかけていた。

母も信じられない顔で息子二人を見ているのが分かった。当たり前だろう、自分の息子二人が裸でベッドにいて、平然としている方がおかしい。


「遥、服を着ろ」

震えている遥に安心するようにと笑いながら、兄がベッドの下から服を渡してきた。

「……俊也っ! 遥! いったい何をしていたの!? 答えなさい」

母のヒステリックな声が耳に痛かった。

「服を着る時間くらい待ってくれないのか? それとも息子の裸にでも興味があるとか?」

「俊也!」

「服を着て行くから、下で待っていてくれ。遥と二人で行くから」

母の甲高い声にうんざりでもしているのか、それだけ言って母を無理矢理部屋から追い出した。


「……お母さんに知られたよ」

どうするのか、とまでは言わなかった。言わなくても遥が何を言いたいかは兄なら分かるだろう。

「お父さんにも、潤ちゃんにも……ばれちゃうよ…」

兄に渡された服を着ようとするが、ボタンがなかなかとめられない。

「皆に、知られちゃう……」

「別にばれたって何だ?」

俊也が遥の手に取り、代わりにボタンを留めていく。

「何だって!……知られたくないよ! こんなことっ!」

「分かっている。お前が知られたくないことぐらいは。まあ、ばれたら面倒なことになることは確かだから、母さんのことは俺に任せておけ」

「俊ちゃん…」

自分が何もできないことは誰よりも自分が一番よく分かっていた。誰にもこのことを知られたくない以上、兄に全部任せておくしかないのも、よく分かっている。

「大丈夫だ」


下に降りていくと、母が青ざめた顔でイライラと歩き回りながら待っていた。

「全く……何時もほとんど家にいないくせに、何で今日に限ってこんなに早く帰ってくるんだ」

「貴方達! 一体何時からあんなことをっ!」

「何時からだって構わないだろう? 母さんに一体何の関係がある?」

「関係ですって?! 私は貴方達の母親なのよ? 関係ないわけないでしょう! 貴方達は兄弟なのよ! 汚らわしい! 兄弟であんなことっ!」

母が発狂でもしたかのように、遥と俊也を責め立ててきた。そんなことは遥だって言われなくなって身にしみて感じていた。兄と抱き合う行為は汚れきっていると。自分でもずっとそう思っていたのに、母に面と向かって言われると、思っていた以上に心が荒んでいくのが分かった。母の怒り狂った顔は自分たち二人とやはり似ていて、この母が兄と遥を兄弟だと示している証拠だった。

「母親だって? 笑わせるな! 今まで母親らしいことの一つでもしてきたか? 世間一般の母親らしく、毎日ご飯を作って洗濯をして子どもの送り迎え、そんなこと一つでもしたか?」

「そ、そんなことっ」

母親らしいことをしていない自覚くらいはあったのだろう。さすがに言葉に詰まらせて顔をそむけた。

母は遥に関心はなかった。兄二人には非常に期待をしていたが、だからと言って自分の時間を犠牲にして何かをしてきたわけでもない。

お金はたくさん使っただろう。二人が子どものころから家庭教師をつけて、英語やフランス語、ピアノやバイオリンも習わせていた。
三人が大きくなった今でこそ通いのお手伝いだけだが、昔は泊まり込みの家政婦もいた。だから衣食住に困ることはなかった。母は金だけは盛大に使い、あとは自分のためだけに時間を使っていた。子どもを抱きあげたこともなければ、食事も作ったこともない。

それどころか、ほとんど家にも戻ってこなかった。それは父親にも同じことがいえた。お互い好き勝手なことをやっていて家庭のことは顧みない夫婦だ。

だからほぼ三兄弟だけの生活といっても過言はないだろう。


「家にほとんど戻っても来ない女が、『母親』だなんて偉そうなことを言う資格でもあると思うのか? 本当に母親だって言うのなら、子どものことをちゃんと見ていれば、俺たちが何をしていたかぐらい気がつくはずだ」

怒りに紅潮した母の顔が、青ざめていった。俊也は今まで親に反抗らしい反抗をしたことはなかった。言われたことを期待以上にこなしてきた実績がある。

だが、ただ従順だったわけではない。それなりに親の言うことを聞いていれば、自由でいられたからだ。過剰に干渉されることを避けるためだけだった。

「遥! 貴方なんでしょう! 俊也を誘惑したのは! そんな男か女か分からない気持ちの悪い身体で俊也を惑わしたのは!……そんな身体じゃあ、誰とも結婚どころか、恋愛もできやしないから! だから、兄を誘惑したのね!」

「お母さん……」

なんとなく分かっていた。もし親にばれたら、俊也ではなく、できそこないの自分を両親は糾弾するだろうと。いらない子だった自分よりも、優秀な後継者候補の兄を守ろうとするのは当然だろう。

「兄と寝るなんて気持ちが悪い!…お前みたいな子産むんじゃなかったわ! お前みたいな子を産んだせいで、私は皆から責められたのよ! それでもこれまで育ててきたのに、大事な俊也とこんなことをっ!」

想像した通りで、母に酷いこと言われているはずなのに、ショックも感じなかった。


「遥を責めるな、俺が無理強いしたんだ……遥は悪くない」

俊也は自分の背に遥を隠して、母から見えないようにしてくれた。遥にとって母の冷たい視線は慣れているとはいえ、見ていたいものではなかった。

でもこんなふうに母に糾弾されるのは、兄のせいであり、遥は母の言うように何度も兄との関係を断とうとしたのに、それを許さなかったのは俊也だ。だから兄が矢面に立たされるのは当然であり、遥をかばうのは当たり前のことだ。感謝なんかしなかった。


「そう……遥は悪くないのね」

「ああ」

「なら、俊也も分かっているんでしょう? いけないことだって。遥が嫌がることを、もうしないわよね」

「俺が悪いのは分かっているよ、母さん……遥も可哀そうだ。それも分かっている」

「なら」

「でも、止めない」

「いい加減にして! お母さんは頭がおかしくなりそうよ! 今まで俊也はお母さんを困らせたことなんかなかったでしょ!? 貴方は頭もよくて、自慢の子だったのに! どうして遥なんかと!……貴方なら、いくらでも可愛い女の子がいるわよ! なのにどうしてっ、弟なのよ!」

遥だって兄の気持ちを理解できないのに、母が俊也の言葉に納得できるはずもないだろう。
どうして、俊也は自分なんかに執着するのだろうか。

「俺だってこれでも結構悩んだんだ……別に弟だから、世間が許さないから、とか、そんなことはどうでも良かった……ただ俺のこんな欲望に付き合わされる遥が、可哀そうだったからだ。だが、今さら遥の気持なんかどうだって良い。俺は弟しか愛せない異常者だ、何と言われようともこの関係をやめるつもりはない」

「何てことをっ……今なら、誰にも内緒にしておいてあげるから、昔の俊也に戻って!」

「嫌だね」

「なら……お父さんにも、おじい様にも話すわよ!いいの?貴方はおじい様から後継ぎにと期待されているのに、こんなことばばれたらどうなると思っているの?!」

遥は兄の服をギュッとつかんだ。2人に知られたらこの母が浴びせる罵声や嫌悪の視線以上のものだろう。
兄はそれほど期待されていた。すでにこの母にばれたことで遥の疲労感はピークに達していた。この上父や祖父に知られたらと思うと、どんな罵詈雑言が自分に降ってくるか想像もしたくなかった。

「ばらしたいなら、好きにすればいいだろう。困るのは母さんだ」

「え?」

一瞬困惑をしたのは母も自分も同様だった。




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