【全員悪人】


12



 飯島が賭場を訪れるのは凡そ十年ぶりだった。避けてきた場所に志願したのは理由がある。西野は隠してはいるが体調が悪く、時おり前屈みになっては臓腑を庇うようにしているからだ。

 布施から勧められた干し葡萄も食べられなかったとボヤいていた。若頭が歯医者に通う時間さえ取れないのは、舎弟である自分たちの怠慢である。早めに仕事を終わらせて、休暇を取ってもらうつもりだった。

「最近の客の上前をはねるんには手間かかりますで」案内の老人が云った。「戦後は幾らでも稼げたんですが」

 地下を一歩下った薄暗く長い廊下に、ライトがいくつもかけられている。半分は消えているも同然だった。蝿や蛾の音が煩い。

 飯島は推測で動くタイプの人間ではないが、西野の性格をよく知っていた。おそらく闇金の比率格差を拡げて、国内株を買い占める積もりなのだろう。外国為替に精通している石原に揺さぶりをかけるには、外堀から埋めていく必要があった。

 裏社会の金の出入りを知らぬ馬鹿は二言目にはすぐ外為である。飯島は下がり株状態の現在の花菱に不安はなかった。ただ時期を待って山王会が大きくなるのを静観してきたのだと熟知していたからだ。

「盆茣蓙出しとけ」
「今どき賭博師に来てもらっても出番など無いんでさ。丁か半かとやってた時代は終わりましたんでな」
「いいから通せ」

 外側からは想像できないような和室だった。表にはバーの看板がかけられている。座敷にずらりと並んだ男たちは、一斉に飯島を見た。細身で折れそうな肉体に、落ち窪んだ目蓋を垂れ下がらせた五十男である。大奥の御鈴廊下を颯爽と歩く殿様の如く、飯島は中心を行った。囁きが漏れる。

「芋引いてやがる」
「アイツ誰だ」
「なあ」

 無職渡世で名を連ねてきた者の中には飯島の顔を覚えている者もおり、根際で耳打ちをする声もあった。

 飯島は席についた。避けてきた視線のひとつに、ただならぬ空気を感じる。そちらを見て、目を見開いた。布施が安い麻の着物を着て座っている。懐に手を入れ、半開きになった襟繰りから刺青とサラシが覗いていた。古風な出で立ちの極道は、明らかに周囲から浮いていた。

「見かけねぇ顔だな。どこの組だ。あ?」

 布施の隣で胡座をかいた清水が云った。こちらはスーツである。見かけぬも何も、今朝は洗面所で互いの白髪を切り合ったばかりである。しかし飯島は知らぬふりで通した。

「回状が回っているはずだが、関東の火種が消えずに残っている。大火事になる前に炎の進路を探ってくれる方がいるなら、今日は少し趣向の違う遊びを私としていただきたい」

 場は一瞬騒然となったが、その後は誰も飯島の素性を探るような真似はしなかった。山王会潰しに花菱が動き出しているのは、全国の極道に知れ渡っていたからだ。

「一対一か。面白い」布施の声だった。清水がそれに被せて云った。

「小父貴。親分に怒られちまいます。遊びはほどほどになすって」
「テメェは黙ってろ。幾ら欲しいんだ。兄さんよ」

 布施と清水はあくまで他人のフリをするつもりのようだ。綺麗な標準語であった。飯島は顔色を変えずに云った。

「どのような手段を使っても構いません。証券取引所を停止させていただきたい」
「――二時間ってとこか?」
「半日ですね」

 あまりの無茶ぶりに悲鳴のような怒声が上がったが、男たちが掴みかかろうとするのを布施の一声が止めた。せぇい、に近い発声である。二十畳はある室内の隅々まで行き渡った。

「いいだろう。こっちが勝ったら何をくれるんだ」
「指でもタマでも」
「ふてぇ野郎だ。気に入った。で。何をするんだ」

 飯島が懐に手を入れると、四方八方から拳銃が向けられた。動かなかったのは布施だけだ。清水に至っては一番近くで飯島のことを見もせずに銃口を額に押しつけていた。飯島は眉ひとつ動かさずに二本の指で挟んだモノを取り出した。

 賽子ではなかった。安物の百円ライターである。西野の健康を相談した中田についていった時、手に入れたものだった。

「時間無制限で交互に十回。火が点かなかったほうが敗け」
「十回? 点くだろうよ。もし最後までいったらどうするんだ」
「その場合も私の敗けで構いません」

 かなりの好条件である。布施はつまらなそうに云った。「いいだろう。のった。そっちが敗けたら両指全部と交換だ」

 拳銃を仕舞う音を後ろに、飯島の手からライターを取り上げる。二、三回は空擦りするつもりだったそれを、布施は一発で点けた。

「次。ほれ」

 投げられたそれを、飯島も点けた。周りはおののいた。ライターというのはオイルが移動するだけで点火できなくなる。賭けを有利に進めたければ、傾けて点けるのが常識だ。しかし二人は小細工をせず交互に火を点けた。

 カチ、カチリ。
 カチリ。カチ。

 緊迫感を煽るような間はなかった。無くすかもしれぬ指のことなどそっちのけで、睨みを利かせることもなく作業は八回に及んだ。

「俺が先に点けちまったからな。次で実質最後になるが」
「どうぞ」

 布施はライターを掲げようとして、思い出したように手をついた。

「関東の火種っていやあ、山王会だな――下種の集まりだが、ぜぜこ集めに必死になるまで落ちぶれてんのか」

 その一言に場の数名が顔を蒼白にした。ぜぜの発音はじぇじぇというが、これは大阪で銭を表す単語である。その時まで布施は面をはっきりとあげなかった上に、博徒ごときでは実物と対面したことなどないため、正体不明の渡世人で通っていたのだが、察しのいい人間の運はそのとき尽きた。

 膝を崩して退散しようとする数名に、清水と飯島が発砲した。足をやられてのたうち回る人間の元から、拳銃を払う。理由もわからず飯島を撃とうとした一人の頭を、清水が撃ち殺した。跳ねた脳髄が顔にかかり、飯島は眉を寄せた。慇懃無礼を絵に描いたような飯島と、老齢の清水は背中を合わせた。

「お、お前ら。いったい!」

 花菱であることに気づいた親分連中が、反目しようとした舎弟を撃ち殺す。冷や汗で顔を強張らせ、その場の全員が事態を把握した頃には、賭場は死屍累々の有り様であった。

「半日停止。帰って上の者に伝えます」

 一人が生唾を呑み込んだ後に、代表して口を開いた。まだ馬鹿を言いそうな若い衆の口を、別の組の人間が始末した。

 飯島は西野になんと報告しようか悩んだ。布施がその場で立ち上がると、襟を清水が直した。布施は煙草を取り出したが、飯島の手が伸びるより先に自分でライターを点けた。

「飯島。お前の敗けやで」
「分割払いでお願いします。会長」

 布施はニヤリと笑った。「古女房に黙っててくれるんやったら、勘弁したるわ」



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