【事件簿】


032)その先に有るもの



 次兄から当面の学費と生活費を受け取り、弟は言葉を選んだ。マイクロフトの下宿は小綺麗だった。職場とクラブの往復で、ろくに家に帰っていない証拠だ。

 家主も経営している料理店のほうが忙しいらしく、兄弟は久しぶりに二人きりで静かに向き合った。

「家には帰りましたか」

「どこのだ?」マイクロフトは薄く笑った。「おまえよりはマシだよ、シャーロック。母上の葬式には出たのだから」

「――外せない用事があったのです」

 マイクロフトは静かにうなずいた。それが嘘であることはお互いに承知の上だからだ。

「行かなくて正解だった。例の男が墓場に顔を出したのだ。私も父上もつかみかかる気力もなかったが、兄上は違った。指を折るほどの力でヤツを殴った。シェリンフォードのその後は聞いているな? あれからまだ土地を誰が護るかという点で揉めている。おまえも知ってのとおり、兄上の性質では跡継ぎに最適とはいえない。信頼のおける親戚に任せる話も出ているが、父上としては――」

 二人の叔母がいる、と弟は思ったが胸にしまった。一方は父の兄嫁である。素朴で地味な、英国淑女を絵に描いたような女性だが、血の繋がりはない。息子が一人いるが任せられない理由があった。

 ホームズ兄弟の祖母は有名画家の妹であった。その娘も同じく画家だが、フランスを永住の地として骨を埋める気のようだ。母の姉にあたるが、そのような理由と持病の神経性により、葬式に来たのは二人の息子だけだった。

 感じやすい資質は母方譲りで間違いない。マイクロフトは成人後は自分の特徴を把握して、環境変化の少ない職場を選ぶことで、外部からの刺激を抑えた。その反動の運動不足が兄を確実に肥満へと導いても、甘受せざるを得ないのだ。

「――ということだが。シャーロック?」

 弟は話の間も思索に耽っていた。

「聞いていませんでした。もう一度」

「従兄弟のジョージとは話もできず追っ払われたから、土地をどうするか、今後はおまえか私で決めろという話だ」

「ジョージ。教授の」弟はため息を吐いた。「分解機がどうとか遠隔操作がどうとかいう手紙で揉めて以来、音沙汰がありませんが」

「やはりおまえの仕業か。父上は彼にご執心だが、私も関わりを持つのに及び腰なのは同感だ。悪い男ではないが、気性が荒いので扱いは慎重にせねばならん」

 もういっそ、その従兄弟に財産ごと託すのも手だとシャーロックは思った。奇妙な実験も珍妙な研究も、田舎暮らしでやれることではないか。

 長男が引き継いでくれることは、今の段階では考えづらかった。ある事情から暴力沙汰を起こしたため、故郷に居づらくなってしまったのだ。

 殴った相手というのが、権力はないが上っ面だけが独り歩きしているような男だったために、両者は共倒れとはいかず、シェリンフォードだけが責任を取らされるような形で騒ぎは終着をむかえた。

「なんの後悔もない」シャーロックを下宿先に招き寄せたとき、本人はいたってけろりとしていた。「向こうにとっちゃ天罰とはいえ、手を下したのは人間だからな。指の関節二本や三本で済むならくれてやるさ。耳を取られるのはたまらんが」

 哀れな長男は指の後遺症とありもしない風評により、かつては神童とまで呼ばれた音楽の才能を絶たれていた。大学卒業後はヴァイオリン一つで、二流楽団とはいえコンサートマスターを任されるほどの腕前となっていたのにだ。

 男のほうがうわてで、殴られることを想定して頬に石を詰めていたからだ。

 男は折れた歯で顔の半分を血まみれにしながら、それでも痛みを堪えて笑ったという。奴ならやりかねない。激情にかられて我を忘れるのが、マイクロフトではなくシェリンフォードだということも見抜いていたのだ。

 今のシャーロックには兄の気持ちがよく理解できた。自分の指がどうにかなって、ヴァイオリンが思い通りに弾けなくなるのは仕方がない。しかし兄の演奏が聴けなくなるのは困る。たとえそれが前ほど豊かな表現ではなくなろうと、奏でる音の響きと抑揚は、その人以外には出せないからだ。

 シェリンフォードはホームズ家独特のやり方で唇を持ち上げて笑った。これでこの話は終わりだ、ジェームズ・モリアーティには二度と関わるなと――。

「シャーロック」

 再三の呼びかけに顔を上げた。マイクロフトはおちくぼんだ瞼で弟を見ていた。上の兄弟は見た目こそ共通点がなかったが、自分を見る目は同じだった。

「問題がすべて片づいてから動こうとしても遅すぎる。おまえは自分の道を見つけたようだから、父上を取り巻く他のことは、私と兄上に任せて、一刻も早く大学を卒業することだ。わかったな」

「残念ながらそれは無理です」

 弟は肩をすくめた。言い出しづらいが気持ちは固まっていた。

「今学期が済んだらシェリンフォードのいた楽団と同じ主催者のいる演劇の舞台で、裏方として使ってもらう予定です。学校の授業は僕が活かそうとしている能力の知識まで包括してはくれない。女学生から得た化粧品の情報をもとに自室で鏡に向かっていたら、下宿先の主人にもう少しで警察を呼ばれるところでした」

 マイクロフトは片眉を上げた。「……そう言い出すことはわかっていたから、父上の言葉をなぞっただけだ。兄上も勘づいて楽団と話をつけている。しかし、それでは肝心の父上が納得しないだろうということになった。そこで提案なのだが」

 マイクロフトは耳を寄せろと指で合図した。弟は従った。

「セント・バーソロミューの研究所」シャーロックは唸った。「僕の経歴と成績での受け入れは――いくら兄さんでも、それはさすがに――」

「権力も使いようだよ。私が生涯持てる唯一の資産は家族だけだ。立ってくれ、さあ」

 言われた通りにしたのは、さらっと放たれた一言の重みを感じたからだ。兄は子供を成せる体ではなかった。病弱だったのは自分だけではないのだ。

「どんな奉仕をしたら……厚意に応えられるだろうか」

 弟は冷静さを装っていった。兄は視線を逸らし、自らも立ち上がった。重くなってきた体を揺らし、扉に近寄る。

「今後もその気持ちを忘れないことだ。人は変わる。悲しいことに、悪く変わってしまうほうが圧倒的に多いのだ。もう行ってくれ。来週また話そう。今度は――できれば私と、私の同胞がつくったディオゲネスというクラブの別室で――」

 シャーロックはおとなしく扉の前に立った。兄を抱きしめると、すぐに脇に吊るした帽子や杖を取る。

 マイクロフトは弟の手から帽子を素早く奪った。いけないよ、という非難の目をくれてシャーロックを見つめる。

「僕が兄さんにどういう気持ちを持っていたか、知っているでしょう」

 弟は落ちついていた。兄は悲しげにいった。

「幼いうちはな。触れあっている時間が一番長い相手を、理想だと勘違いするものだ。正しいとは言えないかもしれないが、その後は適切なほうに腕を預けただろう。私ではおまえを満足させてやれない――どんな意味でも」

「公の職について、僕よりずっと隠すのに苦労している」

 マイクロフトは首を振った。「私に必要なのは知性のほうの相手だ」

 弟は兄が持っている帽子の中から、鍵を出した。内と外両方に鍵をかけ、向き直る。鍵は元の位置に戻した。マイクロフトのポケットの中に。

「両方あれば文句はないはずだ」

 カーテンで締め切った薄暗い寝室まで引きずるように連れていく。襟足に指をかけ名前を囁くと相手も根負けした。

「――気づいているだろうが、向かいが職場だ。仕事を置いてきている」

「すぐに済みます。本当にすぐ」手早く上着を脱いだ。

「挿れては、やれん。最後までは……」

 掬い上げるような口づけが、互いの脳を駆け回るすべての情報を遮った。それは兄弟のどちらも予測していないことだった。

 特別なキスではない。少し触れ合った程度でそれはやめた。戯れでは済まない。

 粘り強く愛撫するに任せて刺激された。時間をかけても、中には指一本入れない。帰りの道中を思ってのことだった。しかし弟は悩ましく額の汗を擦りつけた。激しさもなく、繋がりは浅かった。精の交換もなければ、はがゆくもどかしい熱が逃げる場所もなかった。

 驚くほどの優しさで体をなぞる唇に、どこで償えばいいのだろう、とシャーロックは考えた。

「シャーロック。やはりよそう。戯れるには時間が足りない。挑むには情熱が足りない」

「――本気になるには言葉が足りない」

 兄弟は薄暗闇で再度折り重なり、立場を逆にして熱がおさまるまではやり遂げた。それ以上はなかった。

 息が逃げる場所を探して、弟は脇で肘をついた。

 衝動的に誘った愚かな真似を詫びる隙も与えず、マイクロフトは胸と肩を抱いて白い肌を撫で続けた。


End.




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