【事件簿】


『ホームズと探偵都市19』




 翌朝、鐘の音と共に目覚めると、シャーロックはいなかった。自室に戻ったのかと見てみるが、そちらにもいない。

 嘘つきめ――まあ寝てしまった私もいけなかったのだが。

 また一週間だ。私は鐘にも教会にもSP社にも怒っていたが、今朝は妙に晴れやかな気分だった。いい夢を見た。

 私は赤ん坊を胸に抱いていて、その目は素晴らしい色だった。私のほうでなく空中を見て、小さな手を太陽へ伸ばし、嬉しそうに笑ったのだ。

 私は子供をつくらなかった。長い人生の中で伴侶がいたこともあったが、そのどちらも一世紀以内に逝ってしまった。そろそろこの世を去りたいと思っても無理はない。自分のことだけ考えられるように、探偵の他にはろくに友人も持たなかった。


 人生なんてどれも惨めで――無力なものだと。

 誰がいったのだったか――。


 朝の支度を始めたころに、ミセス=ハードソンがきた。身長は私の半分しかない。紅茶と軽食と電報を置いていく。カフスを留める私の足に、ワットソンがじゃれついた。

「昨夜はどこにいた」

 途端につーんとそっぽを向いた。まさかシャーロックに追い出されたのじゃないだろうな、と思ったが、口にはしなかった。充分あり得るからだ。

 近頃ワットソンは私の寝室か居間の食卓の下辺りで寝るのだが、一緒に帰ってからは彼を見かけることはなかった。旧式の扉以外は足元のセンサーで開くため、ワットソンの体でも自由に出入りできる。そのために脚が悪いことに気づかなかったのだ。

 私は服の着替えを終え、犬と食事をとった。ワットソンの肉体ももちろん鋼鉄だが、ポロネーズ探偵と違って一般的な排泄機能を携えている。ミセス=ハードソンは食事そのものの消化機能が最初からない。

 食後は保険調査員に再度連絡した。事務員によればまた留守だった。

 教会に来ていたのか捜すべきだった。もっともたとえあの中に居たとしても、知り合いを見つけるのは容易ではない。ポロネーズ探偵の探索機能なら目当ての男の隣に席を陣取るのも可能なのだろうが。

 そこまで考え、私はアマゾンの存在を思い出した。彼に聞けばわかるだろう。しかし今日は調子がいい。馬鹿丁寧な彼の口調に付き合うのはごめんだ。

 昨日のように散歩をしようかとワットソンに声をかけたが、彼は知らん顔で室内から出ていった。私は重い腰を上げる決意を打ち砕かれしょげた。

 それほど頻繁ではないが、ワットソンは221階にやってきてから、この階の住人すべてに歓迎を受けた。昨夜の隊長との会話の中で、私はワットソン犬を防衛隊に返す気をすっかり無くしてしまいそうだといった。



「番犬は他にもいます。どうぞ手元で可愛がってください」

「簡単に言うが、いいのかね?」

 隊長は愉快そうに髭を揺らした。彼は見ていると非常によく笑う。私も本来そういう性質だった。陰鬱なポロネーズ探偵に付き合ううちに、明るい面はなりをひそめ、私自身の影の部分を浮き彫りにしていったのだ。

「彼の幸せを考えてのことです。もちろんいいですとも」

 隊長とはナポリタンを別にしても、いい友人になれそうだった。博士は情緒が不安定で気分にムラがあり、私以上に人を寄せつけないため付き合いが難しい。隊長にはどっしり構える余裕があった。

 私は同じく口髭を撫でた。しぐさが似てくるとそれだけで嬉しいものだ。私は立ち上がった。

「ナポリタンの手紙に返事を書くよ」

 隊長は眉を潜めた。「いえ――あれはポロネーズ探偵に読ませてください。検閲に引っかかるのであのような書き方しかできませんでしたが、暗号文になっていますので解読が必要です」

「それは気づかなかった。すまない、すぐ帰って……」

「いつでもいいのです。お願いします」隊長は階上の部下を呼ぶため呼び鈴を手に取った。彼もまた時代のハイテクさに逆らっている一人らしい。

 私は彼を制して自分から扉に向かいかけ、ふと振り返った。

「ポロネーズ=アマゾンを知っているか」

  私に見せていた資料を片づけながら、隊長は応えた。「彼は探偵の中でも有名人ですから。ええ知っていますよ」

「軍人だったのなら、アマゾンが言っていたナポリタンに詳しい人物とは君かね。准将」

 彼の手がぴたりと止まった。後ろ姿しか見えない。時を止めたかのように部屋の空気が縮んだ。心配になって彼の背中に手を置こうとすると、彼はスンと鼻を鳴らして振り向いた。

「かつてはそう呼ばれていたこともあります。CD、ひとつだけ知っていてほしいことがあるのですが」

 貴方にお会いできて本当に光栄です――と彼は言った。






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