夢か現か幻か | ナノ
Cockroach Panic!
文字サイズ 特大 行間 極広
清々しい朝だった。ちょっと空気は濁っているが、過ごしやすい気温に、暖かな日差し。何処ぞの誰かよろしく、ふざけたアイマスクを下ろして縁側で昼寝するにはちょうどいい天気だった。

今日もいつも通りの日常になるはずだった。今日は討ち入りの予定はない。近藤がお妙にフルボッコにされ、沖田が土方に向けてバズーカをぶっ放し、山崎がミントンに勤しむ。そんな笑ってしまうくらいいつも通りの日が始まると、真選組の誰しもがそう思っていた。屯所の中で、若い女の悲鳴が響き渡るまでは。

悲鳴の主、桜ノ宮すみれは混乱していた。唇を真っ白にして震わせながら、心臓の位置で服を強く握りしめ、怯えた顔で仕事場から後ずさりする。服を握る手とは別の手には殺虫剤。

「どうしたんですかィ。らしくもねー悲鳴あげて」

真っ先にやって来たのは沖田だった。かったるい口調で話す彼の額には、例の赤地に目玉が書かれた人をなめてるとしか思えないアイマスクが乗っかっている。この時間帯ならば、彼女の仕事場の近くが日当たりがいい。おそらくは、そこでごろ寝していたのだろう。桜ノ宮はそんな彼に、自身の仕事場である医務室を指差した。

「ごっ……ゴキブリ」
「ぶっ……ゴキブリが怖いたァ、あんたも随分可愛らしいところがあるんだねィ。いいぜ。今日の昼飯で手打ちだァ」

確かに、電車に跳ね飛ばされて肉片になった人間だったものを見ても、腸が飛び出した死体を見ても、平然と食事をする人間が、ゴキブリごときに悲鳴を上げるのは少し面白いかもしれない。

沖田はおかしくてたまらないといった様子で彼女の手の中にある殺虫剤を奪い取り、医務室の引き戸を勢い良く開けて――

「俺も無理」

即座に閉めた。それまで面白がっている風であった彼の顔には、それまではなかった汗が浮かんでいた。顔色もさっきよりもはるかに悪い。桜ノ宮は彼に縋り付くようにして食い下がる。

「そんなこと言わないでくださいよう!あんなの、あたしの手に負えないですって!」
「安心しな。俺も無理」
「どこに安心できる要素があるんですか!今日だけじゃなくて、明日も昼ごはん奢りますから!」

桜ノ宮が泣き出す寸前の怒り顔で沖田の隊服のスカーフを掴み、沖田は冷や汗をだらだら流した顔で見下ろす、傍から見れば、カツアゲの加害者と被害者の図だ。もっとも、この場合、小柄な桜ノ宮が加害者側なのだが。仮にも警官が襲われているように見えるこの微妙な状態をぶち壊したのは、豪快な笑い声だった。その笑い声の主は、すでに引き戸に手をかけている。

「いやー、総悟もすみれ先生もゴキブリが怖いなんてまだまだ子供だな!どれ、俺が――」

退治してあげよう。そう続けられるはずであった言葉は途切れた。近藤は勢いよく引き戸を閉めて、扉に背中をくっつけ、ずるずると崩れ落ちた。彼の顔は青ざめ、引きつり、脂汗をにじませている。隊士達の前だというのに、一体どうしたのか。

「近藤さぁん!」

沖田と桜ノ宮の声が重なった。桜ノ宮は先ほど沖田にそうしたように、スカーフを引っつかんだ。彼女の恐怖のあまり血走った目が近藤を捉える。近藤は先程見たおぞましいもののせいでまともに言葉が出ないらしく、無言で首を小刻みに振り続けた。

「ったく、叫び声がするからすっ飛んできてみれば……揃いも揃って何やってんだ。たかがゴキブリ相手によ」

呆れ顔の土方が煙草をふかしている。今日は非番なのか、着流し姿だ。そんな土方に沖田が食いつく。

「あらァ俺たちの手にゃ負えやせん!ここは土方さんが逝ってくだせェ!」
「オイ、今、『行って』じゃなくて『逝って』に聞こえたのは俺の気のせいか?」
「土方さんは自意識過剰なんでさァ。そんなんだから土方さんは土方さんなんでィ」
「あ、そう。お前らだけでどうにかなるんだな。じゃあ、ちょっくらコンビニ行ってくるわー」
「待ってェェェェ!!」

青筋を立てた土方が煙草を人差し指と中指に挟んで背を向けた。その時桜ノ宮が逃がすまいと土方の腰にしがみつく。土方はびくりと奇妙な具合に震えて固まった。少し間を置いて、めんどくさそうに見下ろした土方に構うことなく、桜ノ宮は叫んだ。

「沖田さんもダメ、近藤さんもダメとなれば、もう土方さんしかいないんですよ!お願いです!なんでもやりますから!」
「じゃあ、3回ケツ振ってうさぎの鳴きマネでもしてみろよ」

土方の意地の悪い言葉に一瞬固まり、意味を理解してゆでダコのような顔になったものの、桜ノ宮はすぐさま行動した。頭の上に両手を立てて、3回腰を振り、「ぴょんぴょんぴょん!」と叫ぶ。果たして「ぴょん」がうさぎの鳴き声なのかは土方も知ったことではないが、その必死さを見て満足はしたらしい。携帯の画面に表示された一連の戦果もとい痴態を頷きながら見て、殺虫剤のバトンを受け取った。

「約束だからな。お前に免じてやってやるよ」
「ありがとうございます土方大明神様!!」
「そこまで?」
「トシぃ!お前ならきっといける!」
「土方ならいけるーやれー土方ァー」
「総悟、お前も一緒にあの部屋行くか」
「お断りでさァァ!!」
「そんなに力を込めていうことかァ?」

医務室に入ると言った時の沖田の尋常じゃない表情に引っかかりを覚えながらも、土方は医務室の戸を開いた。

「なんっっじゃこりゃあァァ!!」

土方が戸を開けた途端こんにちはした化け物に殺虫剤を吹き付けた。そして、その生き物が怯んだ隙に戸を閉める。桜ノ宮たちを振り返った彼の顔は完全に引きつっていた。

「なんっだありゃあ!!」
「分かりません!!あたしが開けたら居たんです!」
「お前、なんか薬品こぼしっぱなしにしたんじゃないのか!?」
「してませんよ!っていうか!あんな事までしたんだからちゃんと仕留めてくださいよ!!」

約束の不履行に憤った桜ノ宮は土方に掴みかかり、携帯を奪おうともみ合いになる。今の所、全く容赦がないという一点で桜ノ宮の圧倒的優勢だ。

「あんた達なにやってるんですか。隊士達の前ですよ」

生贄もとい山崎の声に一斉に振り向く近藤たち。彼らの目はギラついており、さながら獲物を見つけた肉食獣のよう。その視線にゾッとするものを感じた生贄山崎は半歩下がるも、血走った目の土方に肩をがしっと掴まれる。山崎が小さく悲鳴をあげるが、土方にそれに構う様子はない。

「ほい」
「え、これなんですか」
「殺虫剤だ」
「それはみりゃわかります。なんで俺が?」
「いろいろあったんだ」
「そんな理由で納得できるかぁぁ!」

しびれを切らした土方は「うるせえさっさといってこい!」と山崎を医務室へ蹴り込んだ。沖田は扉を閉めてつっかい棒をして、山崎が逃げられないようにしてしまった。日頃仲が悪い割に、見事な連携である。

山崎の哀れっぽい悲鳴が屯所を揺るがす。そして激しく床を蹴る音が連続する。戦っているのか、何かが壊れる音も。流石に胸の痛みを感じた桜ノ宮と近藤は互いに顔を見合わせた。

「近藤さん、流石に山崎さんがマズいんじゃ……」
「それに医務室には色々置いてなかったっけ……」
「や、ヤバいですよね」
「ほっとけ。山崎ならあのくらいやれるさ。多分な」
「大丈夫大丈夫。葬儀の手配ならもうしてますぜ」
「縁起でもない!」

戸惑いつつも巻き込まれまいと遠巻きに見つめる隊士達を他所に、四人はどうするかと言い争う。その内に、それまで続いていた山崎の悲鳴と物音が、ぴたりと止んだ。水を打ったように静まり返る医務室。日頃から山崎を手荒に扱いがちの土方も、流石の事態に顔を強張らせた。

「山崎さん!」
「あ、オイ!」

今まで自分では扉に手を触れもしなかったのに、開けたての悪さを意にも介さず、桜ノ宮は勢いよく扉を開ける。そこにいたのは、人の背丈ほどの体長を誇る巨大なゴキブリだけだった。山崎の姿はない。医務室を興味本位で覗き込んだ隊士の一人が悲鳴を上げてへたり込んだ。桜ノ宮とそれを追った近藤らと共に医務室に飛び込んだ土方は、アウトブレイクを防ぐためにすぐさま扉を閉めた。

「や、山崎さん!?」
「いねーな」
「ベッドの下にもいませんね」
「クローゼットの中もすみれ先生の服しかない」
「先生、聞きたいことがあるんですが」
「なんですか?」
「ゴキブリって人間食うんですか?」
「これ、どうみても宇宙産なので、地球のゴキブリと比較するのは難しいと思うのですが、ゴキブリって食欲旺盛で、なんでも食べるので……あのサイズなら、人間も食べちゃうかも」

不吉な分析に誰もが黙り込んだ。とくに山崎を蹴り込んだ土方は一定の責任を感じたらしい。彼は部屋の主のように堂々と居座っている闖入者をスリッパで叩いた。

「オイコラ山崎食ったんだろ!?出せコラァ!!」
「そうだー出せコノヤロー!」
「なんで俺を殴った!?」
「すみません土方さん、ゴキブリと間違えちまいました。似てたから」
「誰がゴキブリだ!」

沖田と土方はゴキブリを挟んで殴り合いをはじめた。ゴキブリの分際で意外と硬いのか、あの二人の蹴りにも関わらず中身をぶちまけずに頑張っている。だが、そのゴキブリもとうとう音を上げた。桜ノ宮のそれよりも更に高い悲鳴が上がる。おそらく屯所の外にも響いた事だろう。

「おいおい、悲鳴を上げた程度で拷問が終わると思ったら大間違いだぜ……?」
「こっからが本番だろ?」

殴り合いをしていたのも今は昔、土方と沖田は結託してゴキブリを吐かせようとしているようだ。とどめを刺そうとスリッパを振り上げた土方達は、思わぬ物音に手を止めた。

――すべてが終わってから桜ノ宮が述懐する。あれはゴキブリ帝国の進撃だったのだ、と。

隊士達の悲鳴があちこちから聞こえている。桜ノ宮と近藤がそれを不審に感じて振り返った時、あれだけ開けたての悪かった引き戸が内側に押し倒された。

引き戸の先にいたものを見て、桜ノ宮はへたり込んだ。その隣で、近藤は意識を手放した。

「なっ、仲間を呼んだのかコイツ!」
「土方さん、多勢に無勢ですぜこりゃあ」
「クソっ、逃げるぞ!近藤さん!?すみれ!近藤さんはどうした?!」
「ひ、土方さん。近藤さんは、気絶してます」
「仕方ねーな。俺が近藤さんを担ぐからお前は脱出口を」
「あたしダメです。腰が抜けて、立てない……!」

土方は桜ノ宮の手を引くが、彼女が言った通り、腰が抜けてしまったようだ。ぺたりと座り込んだまま動く気配がない。ゴキブリたちは狭い開口部に四苦八苦しているものの、確実にこの部屋になだれ込んでくるだろう。

「おいていってください」

土方は想像する。ゴキブリの海の中で成すすべもなく食い尽くされる桜ノ宮を。

「馬鹿言ってんじゃねーよ。おい総悟!お前は近藤さんを!」
「言われなくてももうやってますぜ」

桜ノ宮の体を横抱きにして、施錠されていなかった窓から飛び出し、ゴキブリが少ない場所を駆け抜ける。白目をむいて気絶している近藤を担いだ沖田も、土方の後に続いた。

*

走った末になんとか適当な部屋の押し入れの上段に逃げ込んだ土方達は、どうしたものかと頭を悩ませていた。

「あのゴキブリ共が、身の危険を感じると悲鳴を上げて仲間を呼び寄せるのは分かった」
「じゃあどうするんですかィ。殺せないんじゃ、そう遠くない未来に地球があれに埋め尽くされますぜ」
「こんなときのための衛生隊長はこの通りだしな」
「俺には女を侍らせてるようにしか見えませんが。死ね土方」
「コイツが離れねーんだよ」

その言葉の通り、押し入れの壁に背中をもたれさせた土方の胸板に、桜ノ宮が顔をうずめている。土方の股の間に細い体を置いているにも関わらず、色気が全く感じられないのは、桜ノ宮が唸りとも呻きともつかない声を細く上げているせいだろう。

「せんせーい、いい加減戻ってきてくだせェ」
「……駄目そうだな」

土方は手慰みに桜ノ宮の頭をなでてため息をついた。

それから数時間ほどして、山崎が殺虫剤を担いで現れ、駆除の甲斐あってか巨大ゴキブリは急激に数を減らし、江戸の街を騒然とさせた巨大ゴキブリの怪は終わりを迎えたのである。

大本たる小さなゴキブリを退治した英雄が万事屋の定春であることは、誰も知らない。
prev
126
next

Designed by Slooope.
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -