act.2


(…この子供が船長か?)
ラムダの声に心の中で頷いて返す。呆れたようなラムダの声が聞こえた気がした。実際はアスベルも似たようなことを思ったのだが、怒られそうなので言わなかったのだ。アスベルの目の前にいるのは少年のように見える少女。先程、チャットと呼ばれていた子だ。聞いたところ、そのチャットがこのバンエルティア号と呼ばれる船の船長だと言う。

「ところでアスベルさんの国は何処なんですか?よければお送りしますが」


空から降ってきたのは、海上で竜巻に遭ったと思われているらしい。自分でも理由が分からないためにアスベルは黙っていたのだが。広いホールにあるソファに各々が座りながら、話をしていた。

そのホールの片隅に張られている世界地図に、軽い眩暈を覚えたことはラムダしか知らない。目端に映った世界地図は、アスベルの知らないものだった。その世界の名前を、グラニデという。街に送るとは言ってくれたものの、地図を少し見た限り自分の知っている街は存在しないような気がした。しかし、それを言うわけにいかず、曖昧に笑うだけになってしまった。


「…えーっと…それがよく分からないんだ」

困ったように頭をかけば、チャットの横に立っているカノンノが驚いたように口元に手を当てた。マズイ、と思った時には既に遅く、カノンノは驚いたような声を上げてアスベルを見た。ひょっとして、何か盛大な勘違いをしているのではないか、と。アスベルの心配はまさに的中していたのだが。

「まさか記憶喪失とか!?」

あぁ、やっぱり。そう思ったはものの、他にいい思いつきもなく曖昧に笑うだけの結果が、彼らがそれを信じる理由にもなってしまった。いいんじゃないか、とラムダに言われるものの良心というものがズキズキと痛む。
しかし、仮定に過ぎないが此処が別の世界だとしたらそんなことを口走れば、精神異常者に見られるだろう。アスベルはフォドラという別世界があることを知っていた。だからこそ、素直にそうなのかもしれないと思ってはいた。どうやって来たのかは別にして。


「けど、自分の名前は分かるんだろ?それって記憶喪失なのか?」

リッドの考えも最もだな、と一人で静かにため息を零した。その答えを持っている者は此処にはいない。一瞬静かになったホールの中に、不意に機械音が聞こえてアスベルは顔を上げた。


この船にいた別の二人が、事態に気付いたのかホールまで足を運んだらしい。大剣を背負った少年と、腰に銃を下げている少女の二人。それに気付いたのはアスベルだけみたいだったが。その二人のうちの、男の子が声を上げる。

「記憶喪失にも色々あるんだよ」

声が聞こえたところで、三人ともが振り返る。こちらに近付いてきている二人の名前を小さく呟いていた。少年はルカ、少女はイリアという名前らしい。事態がドンドンと深刻な方向へ向いていることに気付いて、アスベルは内心焦っていた。この状況は非常にまずい。アスベルは記憶喪失なわけではない。物は言い様というところだろうが。

「自分のことは覚えていても、それ以外のことは忘れてたりすることもあるし。日常的なことを覚えているだけで他のことを忘れてしまっている場合もあったりで、色々なんだ」
「へー、さすがルカちゃま。お医者さんになるお勉強をしているだけありますねぇ」
「ちょっちょっと!やめてよイリア!」

ぐしゃぐちゃとルカの髪をかき回すイリアに、慣れた光景なんだなとふと思った。でこぼこコンビにも見えるが、と聞こえたラムダの声に同意も否定もしなかった。


アスベルも同じことを思ったからだ。その様子に呆気にとられていると思ったのだろう。リッドがルカとイリアから視線を外して、アスベルの方を見た。

「んで、これからどうすんだ?」
「どうする、か…。行く当てもないんだよなぁ」

完全に八方ふさがりだ。この世界に関して何も知識がないまま街に出たとしても困るだろう。視線を泳がせたアスベルを見て、何かを思い付いたように手を叩いたのはカノンノだった。その瞳がもの凄く嬉しそうに輝いているのに気付いたリッドは、引きつった顔を浮かべて少し後ずさった。この船では女性陣の意見が最優先らしい。何処の世界でも女の子の方が強いんだよなぁ…と一人愚痴たアスベルの声は、ルカとイリアの騒がしい声に掻き消されたが。

「なら、此処にいればいいじゃない!この船、ギルドをやっているの。一緒に仕事するうちに何か思い出すかもしれないし」
「…ギルド?」
「人から依頼を請け負って、それを達成するための団体…ってところだ」

リッドの説明に、あぁと納得した。今までしてきた宿屋の依頼と同じことだろう。カノンノの輝いた目に、船長の意見は仰がなくていいのか、とふと思ったりしたが。船に乗っていることから、此処が本拠地なのだろう。船上ギルドだとしたら、恐らく世界も廻るだろう。彼らが記憶喪失だと思っているのなら、この世界についても何か聞けるかもしれない。それを思えば、この申し出を断る理由はアスベルにはなかった。彼らが勘違いしていることに、少しばかり申し訳なく思っているが。


「…じゃあ、お世話になろうかな」
「ちょっと!船長である僕を無視しないで下さい!」

バンと机を叩いて立ち上がったチャットに、アスベルは笑った。自分抜きで話を進められたことが不満だったのだろう。それに気付いているのはアスベルだけで、カノンノは哀しそうな顔をして少しばかり俯いていた。駄目だと言っているわけではなかったのだが、そう言われていると取ったのだろう。

「ちょっと!なにカノンノを泣かせてるわけ!?」
「な、泣かせてません!あぁもう!分かりました、許可します!その代わりきっちり働いて貰いますよ!働かざる者食うべからずです!」
「ありがとう、チャット!」

イリアに詰め寄られたせいか、慌てたように早口でまくし立てたチャット。それを聞いたカノンノは嬉しそうにバッと立ち上がって、お礼を言いながらチャットの手をきつく握りしめていた。その様子を見ながら、いつの間にかアスベルの横に立っていたルカとリッドの方に顔を向けたアスベルは、何か言い足そうな表情で。それに気付いたルカが申し訳なさそうに視線を外し、リッドはため息を付いていた。

「ご、ごめんなさい…。いつもこの調子なんだ」
「いや、構わないけど…。なぁ、今、チャットから海賊って聞こえたんだが、ギルドなんだよな?此処…」
「それは気にしないでくれ」

気にしないで、とは言われても。海賊とギルドはかけ離れている気がする。しかし、それを言うには二人の表情が落ち込みすぎてて、何となく言い出せない雰囲気だった。そのため、三人で同時に小さなため息を吐き出すだけになってしまった。


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