わたしの初めての錬成はマグカップだった。作業場に転がっていたスチールで遊び半分で錬成したそれを見て、師匠はわたしを本格的に錬金術の弟子に取ることをきめたそうだ。11歳のときだった。
母に、錬金術も学ぶことになった、と手紙に書いて送ったら大層驚いた様子が返信の手紙から伝わってきた。『あなたはお勉強ができたけど、まさか本当にその才があるなんて思っていなかった。わたしみたいなおバカさんが、あなたの才能をつぶさなくてよかった』――母が、わたしを手元に置かなかったことを良いことのように語るのが、わたしは少し切ない。
母は、決して娘を錬金術師にしたかったわけではないと思う。
弟子入りまでの流れは酷くあっさりしたものだった。もうすぐ10歳というときに突然、「機械いじりに興味ある?」と聞かれて、2つ返事で「ある」と答えてから二週間後には出立の日取りや小学校の転入手続きが決まった。捨てられた、とは思わなかった。わたしはずっと、母の力になって家計を助けることができない自分を不甲斐なく思っていたから「立派な整備士になってお母さんたちを食べさせてあげるね」と言って母を抱きしめ家を出た。師匠の元に向かう鉄道の中で少し泣いた。
母は師匠が元国家錬金術師であることを知っていた。ただ、炭鉱夫と飲食店勤務の夫婦からうまれた娘が、(国家資格を取るかどうかにかかわらず)超難関と噂の錬金術をマスターするなどとは想像しなかったのだろう。しかし子どもは好奇心の強い生き物である。わたしが、当面教わることになった自動車整備の仕事より、師匠が秘密の工房にこもって夜な夜な怪しげに光らせる錬金術に俄然興味を惹かれるようになるのに時間はかからなかった。
母の慧眼を喜ばないといけない。
強い郷愁、苦味を帯びた――渋いレーズンのような、軋むホイールのような、耳障りな風が心をふきすさぶ。
母のもとにいたらきっと今頃働きに出て、身体を売って生活していただろう。今の母がそうであるように。『あなたの才能をつぶさなくてよかった』……切ないのは、母がそう思っているのと同じくらいわたしもそう思っているからだ。師匠のもとに来れてよかった。あのちっぽけな街に骨をうずめることにならなくて、本当によかった。そう、わたしは母の慧眼に感謝しなければならない。貧困層に生まれた人が高度な教育に触れるためにはまずあの世界から抜け出さなければならないが、それに気づいたときにはもう殆どのそういう人たちはどうしようもなく大人になってしまっている。
裕福な家に生まれた師匠はよくこういう。「学問は、老若男女全ての人に平等に開かれている」――でも15のわたしは、その教えに懐疑的だった。借金や、病気や、足の悪い祖母や小さな子どもがいてなお学問を修めるには並大抵でない強い意志が必要だ。平等に開かれた学問に手を伸ばすまでに、殆どの人々は力尽きるに違いない。
椅子にもたれる母の背中を思い出す。一杯のコーヒーを片手にページをめくる、パラリ、パラリという渇いた紙の音を。
わたしは、つまり喜ぶべきことだと、僥倖だったと気づいたときにどうしてだろう、手紙に涙が滲むのをそのままに、かなしくてかなしくて涙が止まらなかった。母の元を離れるのが寂しくて鉄道に揺られて泣いたあの日と、全くおなじ切ない気持ちで胸がいっぱいだった。
どんな人間も、みんな昔はかわいい子どもだ。
師匠が友人と飲みに出かけた夜。少し涼しい夏の夜に、わたしとゾルフは二人でキッチンにいた。いつかの食事中につくられた小さな花瓶よりも一回り大きい普通の花瓶に山茶花が揺れている。
ユレー・レイリー15歳(女)、ゾルフ・キンブリー14歳(男)。「ないと思うが――アー、お前ら、変なことすんなよ」と珍しく言葉を詰まらせて要領の悪い物言いをして家を出た師匠の、いわんとしてることを察することができるくらいの子どもにはなっていた。わたしとゾルフはお互い、サッ、と眼を合わせ、すぐに逸らした。わたしは、「師匠も冗談言うんですね」と笑って茶化して、”古い友人との飲み会”とやらに送り出した。
鈴虫の音が聞こえる。
夏の夜風は涼しくて、窓をふたつ大きく開け放すと丁度いい塩梅だ。わたしとゾルフは、いつものダイニングテーブルに師匠から山ほどだされた課題を広げて一心不乱にそれをこなしていた。
「2番の問題できた?」
「まだ。ていうかそこで止まってる」
「わたし、分子の数が1+2=2になるわ」
「1の質量からは1の質量しか生まれないんだからそれじゃおかしいだろ」
「だから聞いたのよ」
師匠は錬金術の修行を三段階にわけて教えている。つまり理解、分解、再構築だ。
一か月の砂漠放置授業が終えたゾルフは、今やっと理解の段階を習っているが、わたしはゾルフより2年早く錬金術を学んでいたので既に分解の授業まで進んでいた。そして復習と称してゾルフの課題も一緒に出されたので、わたしの課題はゾルフの二倍あった。つまりゾルフに教えろってことだ。
「先に習ってる癖に」
「今だけちょっと忘れたの」
「頼りにならない姉弟子だな」
ゾルフは鉛筆をぷらぷら動かして椅子にふんぞり返り、「絶対オレのようが優秀だって、師匠は思ってる」と言った。切れ長の瞳が人を小ばかにするように笑っている。ゾルフはいっつもこんな顔ばっかりしてる。
ゾルフ・キンブリーという少年は、14歳にして表裏の激しい子だった。師匠のおつかいでネジやロープや食材を買い出しに行くとき、街で合う大人には人好きのする社交辞令を並べるのが大得意なのに、陰で物凄い悪口を平気で言う。礼儀正しい素振りもちゃんとできるのに、わたしと喋るときばっかり言葉の節々に見下すような何かがにじみ出る。
「わかった、これただの算数なんだよ!最小公倍数に合わせるの。教えたげる」
二年前の授業の内容を思い出して身を乗り出すと、ゾルフはむ、っとした顔で椅子を倒して同じように身を乗り出した。ふたりで顔を突き合わせてゾルフに説明し、互いに「なるほど」とか「あー」とか言いながらその問題は解けた。
「はあ、ほんとにこんなの役に立つのかよ」――ゾルフのわざとらしい下町口調を聞きながらわたしはふと気になった。
「そういえばゾルフって親、死んでるんだよね」
椅子をかっくんかっくんさせていた音がやんで、ゾルフはわたしを見た。
「そうだけど?」
「わたしのお父さんも」
「何が言いたいんだ」
フン、と笑ってゾルフはペンを投げ出し、腕組みした。
わたしは前々から気になっていたことを口に出した。
「寂しくなったことない?お父さんもお母さんもいなくて……わたしにはお母さんがいるけど今は会えないし、やっぱり寂しい」
「もう慣れたよ」
ゾルフはさっきと変わらぬ顔、少しこちらを小ばかにしたような、お利口そうなすまし顔のまま妙に社交辞令っぽく答えた。
「でも、ゾルフには……」わたしは目線を右下に逸らした。少し迷ったが、もう出会ってから三年にもなるんだから――ええい、今更本心隠したりせず言ってしまえ。「ゾルフには帰る場所とか……お母さんみたいに抱きしめてくれる人がいないじゃない?」
「いるの?」
ゾルフがお世話になったという孤児院の先生や教会の神父さんや……誰かいるのだろうか。わたしはこのとき師匠のことも思い出したが、彼がゾルフを抱きしめたところを見たことはなかったし、わたしの見えないところでも親のように接しているとは思えなかったので数に入れなかった。ストークス師匠はわたしたちにそういうことをせず、あくまで師匠と弟子という距離感を保っていた。
「別に……いないけど、大丈夫だよ。俺の両親は優しかったから」
「そう……」
「ユレーは寂しくてしょうがないってわけね」
「わたしだって大丈夫だよ!……でもたまに寂しくなる」
「どんなとき?」
「どんな?そうね……夜かな。夜、ひとりでベッドに横になってると、じわじわ寂しさに包まれるの。この世界でひとりぼっちになったわたしが、夜の暗い湖の中に沈んでいくような、心細い気持ちになる」
わたしはちょっと恥ずかしくなって鉛筆でノートの隅っこにいたずら書きしながら喋った。
「えっとだから、わたしが聞きたかったのはゾルフは何故錬金術を学ぶの?ってこと」
「話が繋がってないけど……つまりユレーは、愛する母親の為ってこと?」
「うん。わたしのお母さん……身体を売って暮らしてて。意味わかる?」
「娼婦だろ」
ゾルフはなんてことなさそうに言った。あまりに簡単に言うので、女にとってそんな簡単なものじゃないんだからね、という気持ちでムッとなったが「まあね」と言うに留めた。ゾルフにはもうお母さんがいないのだ。なんだか格好つけているようだが、きっと女で年上のわたしに見せないだけで本当は寂しいに違いない。
「ここにわたしをやったのは、母さん1人じゃ3人を食べさせられないからなのと、わたしが一人でも稼げるようになって欲しいからだと思う。勿論今のわたしだって身体を売ればそれなりには稼げるわ。でも……」
少し躊躇って唇を舐める。ゾルフは僅かに目を伏せて、右下のほうを見ている。
「お金と技術のない生活はもう嫌なの。きっと惨めだし、特に母さんみたいな仕事は病気になりやすいし……わたしの想像よりずっと辛いと思う。現に夜の仕事をする人の平均寿命は他の職業と比べても短いし、最期は悲惨なものが多いって本で読んだ。つまり……わたしはそんな風に生きたくない。だから将来錬金術師になって――整備士でもいいけど――お母さんを楽させてあげたいと思ってる」
ゾルフは無言で、二、三回頷いた。
「それに……今すぐ自分の身体を使って即金を用意することはできてもそんな刹那的な経済設計じゃ長続きしないし、なによりわたしが嫌なの。わたし、お母さんのためって言いながら本当は自分の為にも錬金術を学びたいの」
「恥じてるの?」
「別にそんなこと言ってない」
「恥じることはないと思うけど?誰だって常に己の為に生きてる」
相変わらず年下の癖にむかつく言い方をするやつだけど、わたしは同意の意味で頷いた。
「堅実で現実的な判断だと思うよ。それより……ユレーが母親のために生きすぎなんじゃないかって俺は思うけどね」
ゾルフが、わたしの望む言葉を敢えて言ってくれたのか本当にそう思っていたのかは定かではない。ただ誰かに、べつに冷酷なんかじゃないよ、むしろそれが正しい考え方だよと言ってもらいたい。わたしは母を見捨てたりなんてしてないし、母に捨てられてもいない。わたしたち親子はお互いを大切に思い合っていて、今の状況が最適なのだと、誰かに安心させてほしかった。
ゾルフに取り留めなく思いのたけを吐露しながら、己がただ”肯定”を求めていたのだということにそこで初めて気がづいた。わたしはゆらゆらと不規則に揺れる山茶花を見つめて口を開き、「……」閉じて、また開いた。
「ありがと」
「……皮肉に気づかない奴っているよな」
「ありがとうって言ってんだから素直に受け取りなよ」
「どういたしまして」
ゾルフと目が合う――彼は嘲笑しなかった。ただ、泰然自若な雲の流れを追っているような淡々とした目でわたしを見ている。寝食を共にして既に一年が経つのに、彼の感情の動きは未だよくわからない。
「あなたはなんで錬金術師を志したの?」
ゾルフの黒い瞳がちらり、と光った。
――金や社会的地位のため、安定のため。以前のわたしはうっすらそんな予想をたてていた。でも、この頃になって、はて本当にゾルフはそのために士官学校に入りたいのだろうかと首を傾げるようになっていた。
彼は今まで見たことのないような顔をして口の端を釣り上げた。
「軍人になったときに保障されるものがあるからさ」
笑っている。ランプの炎が揺らめいて、ゾルフの白い顔をテラテラと舐めている。
「保障される物?給料のこと?」
「まあそれもある。けど一番じゃない」
「……己が命を犠牲にしてでも国に尽くし、弱きを助け――」
「僕がそんな御大層な人間に見えるのかよ」
「見えないよねぇ」
ゾルフは鼻で笑う。そして両手の五指をつけて前のめりになり、掌の間になにかが見えているのかと思うような面持ちでじっとテーブルの上を見つめた。
「……西のクルタ国境戦を知ってる?」
「本で読んだし師匠にも聞いたよ。8年前に起きた紛争ね」
ゾルフは目を閉じて朗々と語りだした。目を閉じた顔は薄気味悪いほど安らかで、いつもと同じく白かった。
「俺の両親は地雷に吹っ飛ばされて死んだんだ。親に手を引かれて農園を走っている途中で、いきなり地面ごと吹き飛んだ。母は直撃、父は下半身を吹き飛ばされて即死したけど、父に抱えられていた俺は運よく助かった」
わたしは眉を寄せてじっと黙り、彼の次の言葉を待った。
この子がこんな風に身の上話をしてくれることはめったにない。どんなに生意気に見えても彼がまだ14の少年だということを想うと、恥も外聞も脱ぎ捨てて彼の身体をぎゅうっと抱きしめたくなった。でも、ゾルフは絶対にそれを望んでいない……。
この頃のわたしはまだ人に嫌われる勇気をもって自分の要求を通すことができなかったので、ただじっと彼の言葉に耳を傾けることだけをした。
「ユレーは……人が吹き飛ぶところを見たことがある?」
「ない。父さんは炭鉱の爆発で死んだけど殆ど覚えていないし……」
「へぇ」
変なところで強めに反応されたが彼はつづけた。
「俺はね……地雷原を走りながら知ったんだ、真理ってやつを。命に意味なんてない。俺がここにいるのはただ運が良かっただけで、死んだやつが死ぬのもただ運のおもむくままだ。錬金術と同じだよ」
「……この世界は一つの大きな流れの中にある?」
「そうだ。俺も君も、君の父親も俺の両親も」
「そうかもね」
彼のいうことは少しわかる。でも、それで片づけるのはすこし味気ないとも思った。わたしが母を想い、母がわたしを想う気持ちが大きな流れのなかの些末な抵抗だったとしても、それに意味がないと断じてしまうのはかなり癪だ。
「ユレーはこう思わないか?人の命を奪うという行為は、その大きな流れの際たるものだ。生と死、陰と陽、男と女――正負の流れを司る象徴的な行為だと」
「言いたいことはわかるけど……まるで殺人が良いものみたいに聞こえる。人を殺すことを正当化するような……わたしは、それは違うと思う」
「たしかに今の言い方は語弊を招くな」
語弊を招く、と言ってはいるがいつもと比べてだいぶ流暢だ。
「……もしかして、軍に入って保障されることって」
「さっきのは本気に取らないでくれ」
ゾルフは薄っすらと笑みを浮かべて肩をすくめた。
軍に入って保障されること――戦争。政府が担保する、誰にもとがめられない殺人行為。まさかゾルフが求めているものが金でも名誉でもなく最も単純で罪深いそれであるという可能性に、わたしはようやく思い至った。
そんなものの為に軍に入り、あまつさえ国家錬金術師の資格も取ろうなんて考えているという事実はとても信じられない。彼の主張――殺し、殺される流れが錬金術の教えに含まれる概念であるということ――は一見それらしく聞こえるが、実際は言葉を巧みに操って殺人を肯定しているだけだしそのような不道徳は師匠の教えに反するものだ。
「忘れられないんだ」
黙りこくったわたしをどう思ったのか、ゾルフは呟いた。
「あの光景が。今も眼を瞑ると思い出すよ――あの美しい地響きを」
オイルランプの炎が、伏せた瞼をゆらゆら照らしている。わたしはゾルフの手を両手で包んだ。彼が怪訝な顔で、俄かに目を見開いてわたしを見たが、どんな言葉をかけることもできなかった。
ああ、この子は今も戦場にいるのかもしれない。いつ吹き飛ぶかわからない刹那の世界にゾルフはずっと生きている。彼の命は大きな流れの中にいて、錬金術はかれの命のかたちに似ている。
夏の夜の告白