ゾルフ・J・キンブリーの故郷は、クレタ国境付近アメストリス西部の町にある。
 当時アメストリスはドラクマとの関係が緊迫しており、クレタとの国境警備は手薄になっていたらしい。そもそもアメストリス西部は荒涼な山岳地帯が広がっていて、クレタが攻め入るには川沿いを進むか狭い山道を通るしかない。そのため、警備は要所要所に重点的に敷かれているだけで事足りたし、実際の国境線は有刺鉄線すら設置されていなかった。
 彼の生まれた町は、クレタからアメストリス西部に流れる川の両岸を丸く囲む形で、第八国境警備隊詰所の下町として栄えていた。町の主な生産物は、山の丘陵を使った綿産業と軍事工場で、軍人たちが使う飯屋や宿屋が多く在る。彼の生家は河より南側にあって、河の北側、つまり向かい岸には綿の農園がなだらかに広がっていた。河は浅かったが流れが速く、紅く錆びた鉄の橋がかかっていた。
 両親は、ちょっとした地主だった。母方の祖父が広い土地を持っていたので、綿を育ててそれなりの財を成したそうだ。祖父が死んでからは母がその農園を継いだため、毎日、その鉄の橋を渡って綿農園の管理に向かった。長い黒髪が美しい、テキパキと仕事をこなす快活な女性だった。
 父は教師だった。河の南側は軍事工場が立ち並んでおり、新兵の訓練学校もあり、軍人が家庭をもちその子どもを育てるのに不足ないくらいの公共設備が整っていた。町には初等学校、中等学校のほかに専門学校や大学もあり、小さいながら研究所もあった。父は中等学校の数学教師で、彼もよく数学を教わった。物腰柔らかで礼儀を重んじる人間で、ゾルフにもしばしば”礼節は人をつくる”と言って聞かせた。
 両親共に、優しくて聡明だった。

 クレタに攻め入られたのは夜だった。敵襲の警笛で飛び起きて、河の南側からクレタの兵士がやってくるという噂がどこからともなく聞こえた。父に手をひかれて、母と一緒に家を出た。既に川上の工場から煙が上がっているのが見えた。

「農園の向こうには詰所があるわ。そこまで走りましょう」

 母のいうとおり、赤い鉄の橋は河を渡って北側に逃げようとする人で溢れていた。キンブリー一家もそれに続いた。途中までは父に抱えられて逃げたが、橋の混雑で荷物を持っていられなくなったので、キンブリーは自分から「おりる」と言って走った。
 母の、緊張で冷えた手を握って橋を抜け、そして見知った綿畑に出た。
 北側では既に砲撃音やパララララ、という銃声が聞こえている。農園のフェンスは誰かにあけられて、既に大勢に踏み散らかされていたが両親は気にしなかった。等間隔に植えられた綿の脇をすり抜け、収穫期の綿が服につくのもお構いなしに皆一心不乱に町の向こうを目指して走った。
 ゾルフの記憶は、このあたりで少し曖昧になる。
 母が、「土が掘り返されている」と言った。走りながら父が首をまわし、辺りを見て「足跡で汚れたんじゃないか」と返す。あたりは人々の喧騒、叫び声、迫撃砲の轟音で慌ただしく、生まれて初めて味わう非常事態でゾルフも緊張していたので本当にこんな会話があったのかさえ定かではない。
 母の手を握った。母が、冷えた手でぎゅっとゾルフの手を握り返した。

「急ぎましょう、きっと詰所の裏側の門が開いてるはずよ」

 また、どこかで轟音がする。地響きが、ゾルフの足元にも響いてきている。

「攻撃されてる!」

 誰かの声が聞こえた。父と母、そして5歳の自分の背丈には少し大きい綿の木に隠れて、なにかが舞い上がるのが見える。
 粉塵が身体を吹き付ける。眼が痛くなって、「目が痛い」といってしゃがんだ。
 父と母が何か叫んでいる。一度母の脚が止まり、両親の足の間から農園の全貌が見えた。
 人が宙を舞っていた。ぽぉん、と何かが舞い上がり、まるで噴水のように土煙が立ちのぼっている。

「ゾルフ、よくきいて頂戴……走りにくいから、あなたの荷物を全部降ろすわね。お父さんが運んでくれるから、リュックを下ろして」

 ゾルフと目線を合わせてしゃがんだ母が、妙な笑顔でそう言い聞かせる。ゾルフは言うとおりにした。そして父がもう一度ゾルフを抱えて走り出した。
 轟音、土煙、爆発。バラバラになった肉片、血しぶきがはりついた赤黒い綿の木。泣き叫ぶ人、立ちすくむ人、四方八方で阿鼻叫喚の地獄絵図。
 農園の奥に向かえば向かうほど、あちこちで土が爆発して人間がバラバラに吹き飛ぶのが見えた。何故、どうして?どこから攻撃が来ているんだろう――そして、いきなりぽぉん、と宙に投げ飛ばされた。
 父に抱えられたまま地面に落ちた。父は下半身を地雷で吹き飛ばされ、上半身だけになってゾルフを抱えてこと切れていた。焦って、爆発で吹き飛んだところを振り向いたが、母のすがたはみえなかった。さっきまで走っていた場所は抉れて、赤黒い湿った肉片がバラバラになって落ちている。

 そして――ゾルフは言われた通り、何も持たずに走り出した。
 左で、右で、人が吹き飛ぶ粉塵の中をただ走り続けた。地鳴り、地響き――血しぶき。狂ったように息切れしながら犬が駆けていく。
 ゾルフは地雷というものを知らなかったが、聡明な両親に育てられただけあってすぐにこの状況を理解した。重さに反応するような爆弾が地面に埋められている。母さんが荷物を全部捨てるよういったのも、犬が走っているのもそのせいだ。じゃあ5歳の僕の体重に、爆弾は反応するか否か?
 駆ける。
 駆ける。
 一歩踏みしめるごとに全身が総毛だつ。足の裏から頭のてっぺんに、震えるような恐怖が突き抜ける。
 いつ自分が爆弾を踏みつけるか、いつあんな風に肉片になって宙に吹き飛ぶかという賭け。生死を問う賭けを何十回、何百回と繰り返しながら、ゾルフはその地雷原を駆け抜けた。

 軍の機密情報にアクセスできる権限を持ったときに、ゾルフ・キンブリーはかつての故郷を襲った悲劇・クレタ国境戦の全貌を知った。だが、そんなに偉くならなくても、15歳にもなった頃にはあれの顛末を理解していた。
 あの町の人間は嵌められた。軍の餌にされたのだ。
 クレタ国境付近を敢えて手薄にして攻撃を誘い、侵入してきたクレタ兵を町民もろともあの農園一帯までおびき寄せて一網打尽にする。勿論その流血事件も、来たる日に備えた”血の紋”の一つであることはもう誰に確認するまでもなかった。
 一体いつから地雷の準備をしていたのかわからないが、錬金術があれば爆発するタイミングを操作することなど容易いだろう。あの町そのものがクレタ兵をおびきよせるための地雷で、母も父もわたしも、あそこではただの駒にすぎなかった。



 ゾルフ・キンブリーの人生に”誤算”という概念はない。
 彼には、己の信念を全うした挙句どんな結果が待ち受けていようと、そのすべてをこの無情で美しい世界のことわりとして受け入れようという覚悟があった。
 人類、皆平等に路傍の石だ。塵があつまって星ができるように、無意味な石ころがあつまって世界をつくっている……一は全、全は一。ゾルフは誰に教わるでもなくその大いなる流れの輪郭を無意識に掴み始めていた。そういった意味ではたしかに錬金術に愛され、錬金術を愛した男と言えた。
 さて、ここに6歳の少年がいる。
 退屈で煩わしい子どもらに囲まれて、空っぽの偶像に祈りを捧げるばかばかしい毎日を過ごしながらゾルフはいかに人生を愉快に過ごすべきか考えた。考える時間はゆうにあった。幸い教会には様々な方面で造詣の深い書物がたくさん寄付されていたので、ゾルフはそれをだらだらと読みながらいつしか錬金術師という人間に興味を持ち始めた。だが、またあれを味わうにはどうしたらいいのだろう?軍人になるのが正解だろうか。ああ、またあの場所に立ちたい。生暖かい血潮、鼓動に似た地鳴りは己の命と踏みしめる大地が同じであることを思い出させてくれる――ああ、なんと恋しい生のいななきだろう!

 その後、牧師のツテで元国家錬金術師だという男に弟子入りすると、そこには既に先客がいた。
 笑わない黒髪の少女、ユレー・レイリー。ゾルフより一つ年上で、2年早くアイゼン・ストークスに弟子入りしてた彼女は、所謂ゾルフの姉弟子であった。
 初めて彼女と会ったとき、ゾルフは昔父と一緒に図鑑で見た鉱石を思い出した。たしか……名前は忘れたが、黒曜石じゃなくて……斜方輝石の種類の何かだ。彼女の深い湖のようなみどりいろの瞳と、太陽の角度で色がかわってみえるブラックトパーズのような黒髪は、煤けたトタン屋根から差し込む光に照らされて宝石のように見えた。
 ユレーは大人ぶって精一杯背伸びしていたがその内実不機嫌や面倒くささをすぐ顔に出す、ふつうの子どもだった。師匠の手前、仕方なくゾルフに姉弟子としての振る舞いを見せているだけで本当は自分のことを良く思っていないということは、特に大人の機微に鋭いゾルフにはすぐにわかった。
 ユレーは師匠が大好きで、いきなり現れた弟弟子を邪魔に思っているのだ、とゾルフは考えた。これはかなりラッキーな事態だ。なにせゾルフは、孤児院でさんざん仲良くしたくもない子どもらと一緒に歌を歌い、踊りを踊って木を植えなければならず、もうあんな面倒は心底うんざりしていたのだ。
 邪魔なら邪魔でかまわない、俺もおまえと仲良くしたいなんて思っていないからな。
 ゾルフは短い時間で培った社交辞令を駆使して姉弟子とのコミュニケーションを最小限にとどめようと努力した。しかし彼女の方はそれを許さなかった。



「おまえ……なにしてるの?」

 夕暮れの水路沿い、舗装された河原の隅っこに姉弟子の姿を見つけてゾルフは思わず声をかけた。ユレーのことは好きでも嫌いでもなく、必要以上に仲良くしたいとは思っていなかったが、どうしても声をかけずにはいられなかった。
 師匠に「買い出しに行ったユレーを迎えにいってこい」と言われてしぶしぶ堤防を市場まで逆走した途中だったので、最初は堤防の上から声をかけてユレーを振り向かせようと思った。だが、地面を小さく覆うようにかざした両手の間から僅かに青白い錬成反応が見えた。
 ユレーはゾルフより1年早く錬金術の修行を始めている。彼女は師匠の教えを真面目に受け入れ毎日懸命に勉強していて、実際筋もいいように見受けられる……きっと僕より先に国家錬金術師になるだろう。もしかしたらもう、自分の研究を始めているかもしれない。
 錬金術師は研究が本分だ。錬金術の基礎を学んだら皆独自により専門的な錬金術を編み出し、それを研究することを生業とする。国家資格を取らない場合は錬金術をまるで便利な道具のように使って商売を成す人もいるらしいが、それは本来の生き方ではない、とストークス師匠は言った。
 そこで、ふと好奇心が首をもたげた。
 ユレーは、どんな錬金術を使うことになるんだろう?
 ゾルフは、自分が形にしたい錬金術のイメージを最初から持っていた。その基礎を学ぶ以前から、心の中に強烈に染みついた印象は炎のように燃え盛っていた。ユレーはどうなんだ?

「それってユレーの錬金術?」

 後ろから声をかけると彼女はバッと振り返って、「あ、ゾルフ!師匠もう呼んでる?」と溌剌と聞き返した。

「いや、別に」

 適当に答えながら彼女の掌の下を見る。鼠が一匹と、鳥が一羽。

「見て、この鼠死んじゃったの」
「ふーん」
「傷口を塞いだんだけど……病気だったのかな」

 よく見ると鼠の腹のあたりが黒く湿っている。錬金術で傷も治せるのか……と思いながら、ゾルフはユレーの隣にしゃがんだ。傷を治すという錬金術がどれほどメジャーなものなのか分からないので彼女の技術を一概には測りかねるが、14歳のやったことと考えると十分すぎるほど上等な気がした。

「鳥の方は生きてない?」
「そう!それで、この鼠を助けられなかったのは等価交換が足りてなかったのかもしれないと思って今、この鳥を見つけてきてね」

 ユレーは、木彫り人形のようにコトリと横たわる鳥をそっと包みあげ、「ここを怪我してて」と、顔をゾルフの方に見せた。

「ほら、目から嘴にかけて抉れてる。膿もわいてて傷口も汚いけど、さっきの鼠を使えばこの子を治せると思うの」
「なるほど」
「アルコールも肉も鼠から作れるでしょ、きっとさっき失敗したのは鼠の持つ体力からでは修復不可能なくらい損傷していたからだと思うんだよね。で、今錬成陣を考えてるってわけよ」

 ユレーは己の考えた錬成陣の組成を熱弁した。彼女曰く、鼠を分解して作ったアルコールで傷口を消毒し、足りない肉を鼠で補えば鳥は元気になるという。地面には既に何度も試行錯誤を繰り返したと思われる錬成陣が白いチョークで描かれていて、彼女の指先は石灰で真っ白だった。

「でも死体を使って生きてる鳥を治すってアリなのか?」
「アリってなに?等価交換だよ」
「そうだけど……そうか」
「そうだよ。別に、鼠の命を使って鳥を治そうってんじゃないんだら。もう鼠は死んでるの、つまり自然の一部で、わたしたちが普段行ってる錬金術となんにも変わらないんだよ」

 ゾルフは「それ人間でもやれるのかな」と言おうとして口を閉じた。死体を使って生きてる命を修復する……すぐに戦場を思い描いた。宙を舞う肉片、血しぶき、片足を失い泣き叫ぶ人。
――死体を使って、生きている兵士を治す?それって戦場でとても……かなり最強じゃないか?

「鼠と鳥の血って同じなの?」
「うーん違うと思う。でも鳥の血の成分とか、全然分からないからそっちは作るのやめる……応急措置だけしたらおうちに持って帰ってご飯あげるんだ」

 ユレーは意気揚々と円の中に鼠の死体と鳥を入れ、両手を合わせた。
 青白い光が迸り――ゾルフはそこで、鳥と鼠のキメラができることを少し期待した――おおむね錬成は成功してユレーは大層喜んだ。ユレーも当然知っているはずだが、生物同士の錬成は人体錬成にもつながる禁足事項を含むため、倫理規定に抵触する。ただこの場合片方は死体だからそれに当てはまるわけじゃない。

「よかったあ!」
「……凄いね」
「この錬成陣、ちょっと頑張って考えたんだよね。多分結構難しい奴だと思う」

 顔から嘴にかけて丸みを取り戻した鳥が、にこにこ笑うユレーの手の中で羽根をぱたぱた羽ばたかせた。さあ帰ってこの子に餌をあげよう、と腰を上げようとして、”残った方”の死体に目を落としユレーは眉をひそめた。

「こっちの子は……」

 きょろきょろ周囲をみて「埋めてあげよう」とさみしげにつぶやき、「ゾルフ、この鳥持っててくれる?」と鳥を預けた。ユレーは河原の隅の白い花が咲いている場所を土で作ったスコップで掘り、そこに腹の抉れた鼠を入れて埋めた。

 買い物袋と鳥を伴い帰宅したユレーは、鳥を治したことを自慢げに師匠に語った。この日の夕食は野菜のシチューとパンで、三人で囲むテーブルの上にはいつもの花瓶があり、白い花が揺れていた。師匠は毎日花瓶に新しい花を用意し、枯れると押し花にするという乙女チックな趣味がある。
 あの錬金術が「結構難しい奴」であるのは間違いないようだが、ストークス師匠は彼女の錬金術をもろ手を挙げて褒めはしなかった。想像していたような”褒め”がこなかったことでユレーの喜びが少し下火になったのを見計らい、師匠は話し始めた。

「お前は錬金術の中でも、再生医療に長けているのかもしれないな」

 なんとも言えない声色だ。再生医療に長けた錬金術なんて、喜ばれさえすれど悪いものであるはずがないのに、師匠の瞳は神妙な緊張感を湛えていてユレーはとうとう眉をしょんぼり下げてしまった。

「わたしの錬金術……なにかがダメでしたか?」
「まさか。このまま磨けば、いずれ色々な場所で多くの命を救える素晴らしいものになる。お前は錬金術の才能がある」
「………」

 じゃあなんでそんな顔するの?とユレーの目は語っている。
 面白い。こいつは師匠のことが好きなんだ……だから錬金術も一生懸命頑張ってる。でも頑張りの結果が想像以上に喜ばれないとなったら、こいつはどうするだろう。
 師匠はなにか言いたげだったが、首を振って「ペットにするならちゃんと世話しなさい」といってこの話はここでおしまいになった。ユレーはわからないといった顔で師匠を見、ゾルフを見た。彼女の手の中で鳥が鳴いた。

 鳥は、2、3日は元気だったが何故か傷口が壊死し始め、その後動物病院に連れて行っても治ることなく死んでしまった。鼠から移植した肉の中に何か病原菌が入っていたのかも、と彼女は言った。師匠は「わたしは医者ではないから、そういったことには詳しくない」と言って、どうにも教えることに消極的な雰囲気だった。
 しばらくして、以前鳥を見せた動物病院の院長が師匠の知人だったとかで、ユレーは定期的に病院に研修に行くようになった。それ以来彼女は師匠の前でその錬金術を使わなくなったが、時折ゾルフはあの河原に行った。そうすると、白い花の咲くあたりに盛り上がった小さな土が増えているのだった。

禁じられた遊び

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