人を殺すときの高揚感は射精に似ている。

「錬金術師にとって己の錬成陣は唯一無二の研究結果。門外不出の企業秘密だ。だから実は、この段階<再構築>まで来たらわたしが君たちに教えられることは少ない。大切なのは円の流れであることは今まで教えた通り、君たちはちゃんとそれを学んでいるはずだ。男と女、太陽と月、右と左、上と下、収束と発散、正電荷と負電荷――そこに己が組み込みたい錬成反応を司る構築式を編み込んでいく。もう何べんも話したことだがより洗練された構築式が洗練した錬成反応を発動する。三角形は杯を表し、子宮、つまり女性を表しやすい模式図だ。五芒星は一辺と対角線の比が黄金比と等しく、黄金の図形とされどんな錬成陣とも相性がいい。そこから派生して、星は宇宙を示し非常に強力な象徴だがそれゆえに扱いづらいことも有名だね。大事なのは象徴学と数学だ。物理は数学であり、数学は哲学である。自然界のすべてを数学で表すことができるが、まだ明らかでない数学があるように今の錬金術ですべてを司るような完璧な錬成は行えない。もしも完璧な錬金術が存在するなら、それの錬成陣はおそらくシンプルな円だろう」

 両の掌を見る――美しい。両掌に刻まれた入れ墨は、円環を司る要素を三つ含んでいる。【左右】の【円】に【太陽と月】まだ改良の余地があるとはいえ洗練された美しいデザインだ。

「キンブリー、君は高分子の燃焼にかかる速度を上げようとしているようだね。すると……遠巻きに眺めただけの印象としては、君は素早く爆弾を作りたいようだ――いや、何も。君が士官学校に入ろうとしていることは知っている、君の錬金術はさぞ軍で有用になるだろう……なに?――ああ、そうだね。彼女はわたしの希望をよく理解してくれている。だが君までそれを継承する必要はないよ、ただ真に正しい錬金術を覚えてくれればそれでいい。国家錬金術師を目指すのも、やめるのも、君たちの自由だ。それで――ふむ、少し目線を変えてみよう。わたしの教えを思い出してみなさい……例えばエンタルピーではなくエントロピーに目を向けるのはどうかな」

 幾つかの物理量のうち、どれに重きを置くかで事象の見方はかわってくる。今まで有機化学的観点から燃焼について考えていたゾルフは、そこで粒子の量と並びかた、つまり乱雑さについて考え始めた。そこから今の錬成陣に辿り着くのは早かった。
 掌の皮膚は身体のなかでも最も敏感で繊細だ。入れ墨の激痛は耐え難いものだったが、これを手に入れるためならば。

「わたしは錬金術が好きだよ。自らの研究も楽しかったし、人々の益になるものだと今でも思っている。ただ……あるとき気づいたのだ、この国の錬金術はなにかがおかしいと。ああ、君たちはまだわからないだろうし、一生わからなくてもいい。ただ、国家の犬として働くうちに多くの錬金術師が心や身体を病み、資格を返上するか消えていくのは……――まあ、それもある。わたしも二つの戦場を経験した。だが…………、………。レイリー、キンブリー。君たちには正しい錬金術を教えたつもりだ。だからここからはわたし個人の願いであって、無視してもいい。己の力をどんなふうに使おうとそれはその人間の勝手だ、勿論。大義も夢も結構だ。しかし……わたしたち人間がこの世界のちっぽけな”一”に過ぎなかったとしても、大きな流れに捉われすぎてはいけない。常に謙虚に、思いやりを忘れず、愛情深い人間になりなさい」



 アイゼン・ストークスという男が、国家錬金術師という職業になんらかの失望を抱きあの銀時計を返上したことは想像できる。感情が見えないユーモアのないあの男の、たまに見せる情け深い一面をこそユレーが愛しているということも、ストークス師匠が毎日欠かさず用意する花瓶の花が、彼の失った妻へこ花向けであることも、ゾルフは理解している。
 ゾルフは目の前の知らない男の腹に両手を押し当て、足で蹴り飛ばした。師匠に言われたとおり見方を変えて練り直した錬成陣が光り、男の内臓脂肪や筋肉を構成する高分子を組み替え、揮発性有機液体に変わり、急激な体積膨張と同時に火花が散る――服の中で肉が何倍も膨れ上がり次の瞬間「ピ、ぐ!」という変な声を上げて男の上半身が吹き飛んだ。
 バン!と、車に人が弾かれたような音で、肉片が飛び散ったこと以外は振動も匂いも望んだ爆発とは大分違う。だが三年目にしてこれは上々。ゾルフは顔についた血をぬぐった。

「ゾルフ………なにして…」

 弾けるように顔をあげた。暗闇の中、細い路地裏のむこうに白い顔が此方を見ている。
 大通りの街頭が細長い帯のような明るい影を落として、目を見開き茫然としたユレーの顔を照らしていた。

 まさか。なんでここにこいつが?
 今は家にいると思っていた。17歳になったゾルフはもう外出先をいちいち報告しなくても気に留められないので、二人とも適当に街を出歩いているものと思ったはずだ。特に最近はあからさまに朝帰りが増えていた。
 錬成陣が出来上がって初めてのヒト相手の錬成実験、さすがに興奮していたのか。面倒なことになった。ユレーの錬金術は”人体再生”――人の消滅した細胞を、それに似た物質で補い傷口を塞ぐというアメストリスには珍しい医療面の挑戦的萌芽研究だ。母親からの手紙を読んでこっそり泣く女。人を踏みつけながら生きることに罪悪感を抱く女。そんな女が次にどういう行動に出るか考えなくてもわかる。逮捕されるのもまた一興、だが戦場が遠のくのは避けたい……逃げるか、それともコレを殺すか。

 ”ユレーを殺す。”

 子の選択肢が頭に浮かんだ瞬間、胃の下のほうから焼けつくような震えが喉めがけて湧き上がった。

「埋める」
「は?」

 何かおぼえのある感覚が喉のあたりにせり上がり、唾をのんだところで我に返った。ユレーは青白い顔に冷や汗をかきながら駆け寄って、地面にチョークで錬成陣をかき始める。
 このとき、ユレーが師匠に報告したり、警官や軍人に殺人を告白していればなにか変わったかというとそうでもない。だが確実にこのとき、自分の心臓が軋みをあげるのがわかった。今まで、それなりにわかりやすいヤツだと思っていた人間が突然わからなくなった。

「なにしてる」
「わからない?埋めてる!」

 声が震えている。震える手で錬成陣をかく女の隣にしゃがんで、横顔を見た。
 暗闇の中、彼女の深緑色の瞳は黒く揺れる。「見てないで、」声がかすれている。「あんたも手伝って。人が来る前に」
 どういうことなんだ。まさかこいつ……殺人を隠蔽するつもりか?
 ゾルフは驚きのあまり、ユレーが錬金術で地面を抉り、そこに血まみれの肉片をかき集めるのをただ見ていた。ユレーは、己のしている行為に怯えてはいるが迷いのない手つきだ。間違いなくこの殺人をなかったことにしようとしている。最初から見ていたはずなのに……俺が人を爆発させるところから見ていたはずなのに、弟弟子の罪を勝手に消そうとしている!
 またあの感覚がする。不快感。強い、強い憎しみにも似たなにかが胃の中でとぐろを巻いている。

「………」

 ゾルフは何か言おうとしたが、落ち着きつつある理性がとりあえずこの場を片付けろと主張してきたので、一緒に肉片を集めて錬成効果範囲内に入れ、ついでに自分の服もそこに投げ入れた。
 ユレーの手は血と肉で汚れていた。決して清廉潔白と言いたいわけじゃないが、でもユレーは正しく生きることを標榜している人間だった。弟弟子だからといって殺人を看過するような人ではないと三年付き合ったゾルフは知っている。知っているはずだった。彼女は己の手を見てはっと顔を強張らせ、すぐに表情を抑えて手を握りしめ作業を再開する。不気味なほどまっすぐ垂れた眉も、無感情な瞳も、その奥で激しい葛藤があることが見て取れる。葛藤するくらいならこんなことやめればいい。なぜだ?なぜ?なぜ?

「どいて……埋めるから」

 彼女はなにかに怯えるように後ろを振り向き、首を挙動不審にきょろきょろ回して――恐らく周囲に目撃者がいないか確認してから地面に手をついた。青白い錬成反応が輝き、白いユレーの顔もふたりの罪もそのすみずみまでを明るく照らした。土はたいらにならされて、血痕は掻き消えた。
 細い路地裏に夜の帳が戻る。二人とも黙ってそこに立ち尽くしていたが、ユレーは焦点の合わない目で地面を、ゾルフは目を細めてユレーをねめつけていた。しばらく互いの工房に籠ってまともに顔を見ていなかったが、こいつ髪が伸びたな。奇妙な気分だ。なんとも形容しがたいゾクゾクした感覚が背骨をじわじわ浸食してくる。これは――ああ―――

「水路の方から帰ろう」

 ユレーの手首を掴み歩き出すと、彼女はハッと顔を上げて「離して」と言った。構わず引っ張った。
 水路はナイトマーケットから工場の裏を通って修理工場まで続いている。人気のない河原にのぼり家に向かいながら、「意外だな」と口に出した。ユレーの足が止まった。

「共犯の道を選ぶなんて」

 想像より冷え冷えとした声が響く。「離せっていってるでしょ」と、掴んでいる手首が引っ張られたが力づくで握りしめる。

「………あんたが、あの人に敢えて絡まれに行って路地裏に連れ込むのを見た。わざとでしょう?なんで……あんなこと!あんな、むごい……あの人になにかされたの?」
「何も」
「じゃあなんでなの?!」

 手首をこちらに引き寄せ顔を近づける。あの静かな湖面のような苔色の瞳がひりつくような緊張感をたたえている。ユレーの表情は憔悴していたがその瞳は強い芯を持っていて、彼女もまたゾルフと同じように(意味は全く違うが)怒りや衝撃、哀しみ、後悔の感情で満ちているのがわかった。
 彼女の顔が自分の下にある。後頭部で結った髪が風で舞い上がっている。いつのまにか二人とも背と髪が伸びていた。

「なぜ隠した。あなたがやるべきことはあれじゃなかったはずだ」
「よくわかったじゃないその通りよ。”あなたが”やるべきこともあれじゃなかった!わかってる?人を殺したの!」
「”己の力をどう使おうと己次第”、君の敬愛する先生の言葉じゃないか」
「黙れ、クソ野郎。錬金術はあんなふうに、人の命を弄ぶためのものじゃない!」
「正直そんなのはどうでもいいんだよ、ユレー。さっきの質問に答えろ」
 
 想像以上に低い、つめたい声が喉から出た。ゾルフは今まで誰かを意識的に脅したり、大声をたてたり恐怖を煽ったことはない。今、無意識にすごんでいたらしいことで自分が本気になるとどういう風になるかはじめて理解した。そしてそれが一般的に他人を恐怖させるものであるということも――彼女の静かな湖面にさざなみが立ち、瞳の奥に怯えが見える。あのユレーが自分を恐れている。
 フー、と静かに息を吐いてゾルフは手首を離した。興奮することはままあれど、こんな風に我を忘れて詰め寄るのはよくない。なんとなく美しくないし、己の中に不穏を感じる。

「……だって、大事な弟分だもん」

 ユレーは顔を背け、泣きそうな声であきらめるように言った。

「わたしたち、兄弟弟子じゃん」

 弟分。弟弟子だから?それだけの理由……。弟弟子だからなんだ、捕まってほしくなかった?師匠に迷惑かけたくないとかか?それだけの理由で、己の信条を曲げるものなのか。人の命を弄ぶものじゃないと宣い、錬金術で医療を試みる人間が言うに事を欠いてそれか。人のことを言えた身じゃぁないが、身勝手にもほどがある。
 落胆、失望、そして疑心と恨み。純粋な生と死のやりとりに水を差された、不純物が混じった気分だ。ひくり、と下瞼が痙攣して腹立たしく息をついたがユレーはそんなゾルフの胸中をしってか知らずか静かに一歩距離を詰めた。
 やわらかい。温かい。――抱きしめられている。
 彼女は腕を広げて性急にゾルフの身体を抱き寄せ、肩に顔をおしつけてぎゅっと身体を抱きしめた。思わずぎょっとして身体をひいたが、ユレーはゾルフの顔の横に頬をつけ、腕でぐっと背中を抱き寄せて離さない。

「なん、」
「うまくいえないけど……、あんたのこと、大事な弟弟子だと思ってる。本当はいい子なんだって思ってるよ」

 耳元で、かすれた、ちいさい鼻声が聞こえる。

「それなのに…ゾルフ、どうして」
「もうしないで」
「あんなこと、もうしちゃだめだよ」

 人は余りに腹立たしいと、なにも言えずなにもできなくなるらしい。
 先程とは一味違う苛立ちが、震え上がりながら胃の中から立ち上った。このクソみたいな偽善者が、僕のことを哀れみながら抱きしめている、という事実が耐えられない。だがすぐに僕は”彼女もまた同じくらい怒りに震えている”ということに気づいた。
 どうしてか彼女を引きはがせななかった。自分の身体を抱く細い腕を……ああそうだ、この腕は男の腕じゃない。筋肉だけを包んだ厚い皮膚とは違う、ふっくらと僅かに丸みを帯びた、やわらかい腕……それを掴めない。

「離れろ」
「いやだ」

 口に出したら嘘のように身体が動き、ユレーがしがみつくように挟み込んでいる腕を無理矢理広げた。ユレーは「ふざけるな」とか「なんで」とか興奮して怒鳴り散らしている。
 こいつに合わせてムキになるな。ムキになるな。だが理性の言葉は本能によって押し流され、ゾルフはユレーの腕を掴みねじりあげ、渾身の力でしがみついてくる身体をどうにか引き剥がした。俺が本気になればユレーを引きはがすなんて簡単なことだ。だから――いや――ムキになってもしょうがない。
 嗚咽する声が響いた。ユレーのヤツ、たぶん泣いている。

「同じ先生のもとで3年過ごしたのに、なんで、あんなこと………どうして、こんなに……”違う”なんて」

 水路と道路の温度差で発生した気流の流れがわずかな風になって彼女の黒髪を横に流している。今度こそはっきりと、彼女の大きな瞳から涙が伝ってテラテラと光っているのが見えた。
 この女はなにを当たり前なことを言ってるんだ。また俄かに胃のあたりが煮えくり返った。この――無駄のかたまりを、取るに足らない鬱陶しい生物をいますぐめちゃくちゃにしてやりたい。だがそれは一瞬の雷みたいなもので、すぐに消え去り身体に静寂が訪れた。苛々する。俺から罪を奪おうとしたこの思い上がった根性が、たまらなく憎い。

「罪を告白しないと決めた時点でおまえも俺も同じ場所に立ったじゃないか。おめでとうユレー……おまえみたいな人間が一番腹立たしいよ」



 その話はそこで終わった。二人とも、家に帰った後もそのときの話を蒸し返しはしなかった。

 錬金術の修行は既に最終段階まで進んでおり、しばらくして二人は晴れて卒業を言い渡された。ゾルフ・キンブリーは国家錬金術師の資格をとるために、そして士官学校に入るためにセントラルにむけて旅立ち、またユレー・レイリーも母を支える為に故郷へ戻った。
 ユレーが国家錬金術師の試験を受けなかったのは、理由の一つにゾルフもそれを受けるから、というものがあっただろうが、主なそれは師匠があの銀時計に苦い顔をしたからだろう。ストークス師匠はなるべく偏向的でない教え方を意識していたようだったが、彼が国家権力に好意的でないことは弟子の二人には十分すぎるほど伝わった。
 あとになって調べたところ、あの男は昔結婚しており、短い間に寄り添っていた妻との間に子どもがいたそうだ。しかし子どもは成人して間もなく軍の仕事で死んだ。妻は心労がたたり床に臥せり、そのまま死んだらしい。何があったのか詳しいことはわからない。酒に酔い珍しく口が軽い夜、「政府のために戦争するだけなら何も錬金術など必要ない、銃を撃ち、戦車に乗ればいい」と皮肉っぽく呟いていたのを聞いたくらいだ。
 だがユレーにとってはそれで十分だったらしい。
 彼女はストークス師匠になついていた。師匠が朝早くに飲むコーヒーの香りを、実に幸せそうな顔で嗅いで、ふふ、とぎこちなく笑っていたのを覚えている。「母親のために金が必要なんじゃなかったのか」と嫌味を言ったとき「国家資格がなくたって今の技術があれば稼げるから」と目を反らして突っぱねた態度を思い出せば、あれに強がりが含まれているのは明白だ。
 国家資格を取れば資金繰りは確実に保証されるというのに、世話になった師匠のちょっとした想いも拾い上げようとして、結局苦しむことになる。せっかく――せっかく、あのように素晴らしい錬金術の才があるというのに。

 結局あの女は、鉱石のように無骨で、ときおり深い湖の底のように美しく、憎たらしいほど中途半端で愚かだった。

解夏のはじまり

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