あれは14の夏だった。
 初夏の陽射しが日に日に眩しくなってきた朝、一階の洗面所でゾルフが鏡に向かっていた。ゾルフは歯磨きをしていたわけでも、顔を洗っていたわけでもなく、ただ鏡を見つめて髪の毛を弄っていた。わたしは「おはよお」と言って無言でその場をどくように顎をしゃくり、ゾルフはどいた。
 わたしたちは朝の日課として、朝ごはんの準備と洗濯物を干すという仕事がある。ストークス師匠は、それらを7時までに終わらせなさいと言ったが、師匠が7時まで寝ているかというとそうではなく、むしろわたしが一階に降りてくると既に珈琲の香りが充満していて、彼は椅子に座って新聞を読んでいた。わたしたちが急いで朝の日課に取り掛かっている間に、彼は珈琲を飲み終え新聞を畳み、車庫の一画で世話していた植木から花を採り花瓶に生けると、7時まで間工房に籠った。

「なにしてるの」
「髪が伸びたから結ってる」

 切ればいいのに、と言ったがゾルフは面倒くさいと一蹴した。ゾルフは同い年の男の子と比べても、服の擦り切れや汚れを気にするようなところがあったので意外に思った。わたしは顔を洗って歯を磨きながらゾルフに鏡の前を明け渡して、彼が回収できない後れ毛をバサバサさせるのを眺めていた。

「やってあげるよ」
「…………」

 嫌がるかと思われたが、ゾルフは鏡越しにわたしを見ると後頭部で必死で掴んでいた髪の束を解きヘアゴムを差し出した。わたしはゴムと櫛を手にとって、まず毛先からゾルフの髪を梳き、頭の上半分の髪を後頭部にかき集めた。ゾルフの黒い毛は直毛で、細くはなかったが柔らかく扱いやすい。「この長さじゃ全部は結えないよ」と言うと、「まあそうだよな」とゾルフも言った。鏡を見ながら、ちょっと顔の脇に後れ毛がある方がいいのかな〜と微調整しながらゴムで結った。

「この毛邪魔じゃないか?」
「輪郭に毛を残した方が小顔に見えるの。雑誌に載ってた」
「小顔に見えなくていいんだけど」

 肩に手を置いて鏡を見る。わたしは前髪があるからおそろいではないけど、まあおそろいな髪型だ。会ったばかりの頃はわたしの方が背が高かったのに、今はゾルフに追い越されそう。ゾルフは微妙に眉を顰めて何か言いたそうにしている。
 にぃ、と笑って彼の肩をぽんぽんと叩く。

「ふふん、かわいくできた」

 ついでになんとなく、彼のおでこにキスをした。



 ここ半年でここまで憂鬱な時間は初めてだ。わたしは特別面会室で椅子に座りながらぼんやりと壁を見ていた。
 刑務所に入り罪を償いながら生き生きと毎日を過ごしている人間がどれほどいるものか分からないが、少なくとも今、憂鬱なのはこの環境のせいではない。嗚呼確かに、五人を殺害した罪を、よりによって弟弟子に着せられたことの哀しみと動揺は凄まじく、入所一ヵ月ほど魂が抜けたような心地だった。しかしおかしなことに”それ”は徐々に収まり、今までと同じか、もしくは今まで以上に安定した精神状態に落ち着いていった。勿論以前のように楽しい気持ちになれることはなかったけれど、刑務所の中にいるわたしを憂鬱にせしめていたのはひとえに母とストークス師匠に心労をかけたという一点にある。わたしは安堵していた。そのことに気づいたのは三か月ほど前で、”己が刑務所に入ったことで安堵している”という事実に少なからず驚くことになった。
 この安堵――まるで、自分は今居るべき場所に居るのだという安堵。例え誰も見ている人がいなくても、あの日埋めた死体のことをこの世の誰かが覚えていてこうして罰を与える……きっとそれは人が神と呼ぶ誰かだ。そう、神はわたしを罰することをお忘れではなかった。わたしは冤罪だったけど、己を清廉潔白だと主張することはどうにも厚かましく思えて、だからこそ事情聴取で無罪を主張することを途中で諦めたのかもしれない。
 セントラル中央刑務所は、犯罪者の中でも特に殺人を含む凶悪犯罪や再犯者が投獄されており入所した後も態度の改善が見られない連中もいた。わたしは特に常時手枷の装着が義務付けられていたので最初こそ他の受刑者に目を付けられたが、多少の虐めも作業しにくい労働時間も全てを淡々とこなしていき、次第に穏やかに生活できるようになった。つまり”普通に”日課をこなしていたら、特に真面目にやろうと思っていなくとも入所半年で模範囚になっていた。
 模範囚には様々な特権がつく。入所半年なのでまだ少ないが、そのうち自由時間の増加や居室のアップグレード(プライベートのない鉄格子部屋から個室へ)、部屋の中に持ち込めるものの緩和などがある。そのうちの一つに、特別面会室の使用許可があった。
 本来、面会者と会うことができるのは、壁と小さなガラス窓で区切られた部屋の中だけで、受刑者は面会者と手を握ることもできない。しかし特別面会室はテーブルとイスがある普通の個室なので、不幸にも離ればなれになってしまった夫婦が抱き合うこともできたし、街中のカフェで談笑していた友だち同士がまたそのようにテーブルに座って話すこともできた。

「どうぞこちらへ」
「すみません、融通して頂き感謝しますよ」

 わたしは見慣れた青い軍服の男が部屋のドアから姿を現すのを見て、また壁に視線を戻した。
――もう一つ、”忘れられがちだが”、受刑者には面会を拒否する権利もある。わたしは「キンブリー少佐から面会の申し入れがあった」という話を聞いたとき、「お断りします」と確かに言った。勿論特別面会室の使用も望んでいない。だがどういう手違いか面会はセッティングされ、こうして吐しゃ物に顔を埋める居心地のまま灰色の壁を睨み続ける結果となったわけだ。

「では、外でお待ちしています」

 看守が出ていき、部屋は静かになった。ゾルフは軍靴を響かせながらテーブルまで近づき、しばらく無言でわたしを見た。
 胃の中がむかむかするような嫌悪感が立ち昇る。この事件が起こるまで、なんだかんだゾルフのことを心配していたし大事に思っていたつもりだがもうそんなフワフワした親愛の情は掻き消えていた。むしろ親しくしていた思い出がある分、失望や悲しみ、憎しみ、怒りがグルグルと混ざり合って生理的嫌悪感として表層に出ていた。
 肌がピリピリする。

「勿体ない。切ってしまったんですね」

 入所してすぐにわたしは髪を刈り上げた。特に意味はないが、シャワーにあまり時間をかけられないし愛用していたシャンプーやリンスを使えない今、短い方が楽だ。
 依然、ぼうっと壁を見続けた。ゾルフはため息をつき、テーブルの向かい側の椅子を引きずってわたしに対して直角の位置に置き座った。そこに座るな、近い。壁越しで十分だよあんたと話すのなんて。

「まあ怒るのも無理はない。怒っていいですよ」
「怒っていいですよ?」

 強制的に面会が決まったとき、こうなったら徹底的に無視してやろうと思ったのだが……やはり怒りを抑えられない。ゾルフの方を睨みつけた。彼は唇にニヒルな笑みを浮かべている。

「わたしに今錬金術が使えたらあんたをぶっ殺すのに」

 ゾルフはハハハハ、と笑って「それは楽しみですね」と言った。

「だいたい、今更どの面下げて面会なんて来れるわけ?神経図太いってレベルじゃないんだけど」
「優しさですよ。あなたの弟弟子として、不憫な姉弟子を見舞ってあげようという優しい気遣いです」
「わたしを不憫にした人に言われてもね」
「それに、ストークス師匠にも頼まれましてね」

 突沸する濃硫酸のように熱が脳に集まり、唇が震えた。

――入所して一か月が経った頃、ストークス師匠から手紙が来た。師匠の知人が、セントラル新聞にわたしの事件が載っていたのを見て師匠に教えてくれたのだそうだ。手紙の内容は、イシュヴァール殲滅戦参加への労いと、判決がどうであろうとわたしの無実を信じているということ、母親に聞かせたくないニュースではあろうが、いずれ耳に入ることだろうし師匠から連絡を送っておくということ、そしてキンブリー君によろしくとあった。師匠は、わたしの罪を冤罪だと思っているようだったがゾルフのこともまたこの事件に関与しているとは微塵も思っていないらしかった。新聞には、唯一生き残った軍人がゾルフであると書かれていなかったのだ。
 わたしは師匠に要らぬ気遣いをさせ母に心労をかけることが居た堪れず、でも師匠になんとか頼みますという旨を綴って返信した。刑務所の独房で過ごす夜は長くて寒く、わたしのせいで再婚相手と不仲になってしまったらどうしよう、母は泣いていないだろうかとときおり不安でたまらなくなった。そういうときは決まって、冷たい布団で背中を丸めながら、師匠や母に対する申し訳ない気持ち、不甲斐ない気持ちに蝕まれて静かに涙を流した。
――ああ!今にもあの地面を掘り起こして己の本当の罪を告白しなければならない。だが仮にそうしたとしても、今の罪よりは軽いことがわかってもらえるだろう。わたしは殺していない。わたしは今まで、己の自分勝手な都合では誰の命もこの手で殺めたことはない。
 喉奥で黒々とした淡が絡みついているようだ。わたしの慟哭を、苦しみを全て知っているかのように彼は含み笑いした。

「師匠は”あなたに会いに行ってやれ”と。驚きましたよ、あの不愛想な男も弟子が捕まったとなればこんな気遣いを起こすのですね」
「なんて書いてあったの?」
「ありきたりなことですよ。”わたしが行くと逆に辛い思いをするかもしれないから、もし支障がなければ君が顔を出してやってくれ”というような」
「……。なんて返したの」
「できる限り気を回す、と」

 なんてことだ。師匠は、わたしが、師匠に面会に来られると辛い思いをするんじゃないかと思っている……。親元を離れた寂しい子ども二人、一度も抱きしめたことのない不愛想な男はその実わたしの感情の機微をわかっていたのか。あの背中とコーヒーのかぐわしい部屋に父親と母親を重ねていたことも、師匠の想いを勝手に汲んだことも、全部。

「さて……ユレー」

 ゾルフは一度、気配を伺うように扉の方を見た。この部屋に入れる囚人は模範囚だけなので、部屋の中の会話は聴かれていないし見張られることもない。
 ただ、密室で犯罪者と面会人が二人きりという状態はまれに”両者に”危険が及ぶ可能性があるため、扉にのぞき窓が作られ中を確認できるようになっていた。特にわたしは両掌に錬成陣を刻んだ錬金術師なので、二十四時間どんな時でも手錠が外されることはなく今も丸腰だ。

「このまま、無実の罪で一生を終える気ですか?」
「お陰様で」

 ゾルフはべろ、と舌を出して赤い石取り出した。彼があの事件を起こした理由の一つとして、あの石を所持し続けたいという動機があるのは確からしいので、今も彼が持っているだろうことは推測の内だった。

「そんなもの興味ない。前回も言ったでしょう」
「これは本物の賢者の石だ。これがあればあなたの錬金術であっても脱獄が可能です」
「ふざけないで!!」

 思わず声を荒らげた。

「なんでわたしが脱獄なんかしなきゃいけないの?!捕まってもいない……捕まったけど、あの五人を殺してもいないのに!!無実なのに捕まって、その上脱獄しなきゃいけないなんておかしい!こんな、こんなんで指名手配犯になるのはクソだ!」

涙がこぼれそうになって口をつぐむ。ゆっくり息を吐いて心臓を宥める。
 罪の意識があることは否定しないが、今回の事件においては間違いなく被害者だ。わたしは母と師匠に不本意な心労をかけてしまったことの、誰にも向けられない理不尽な衝動を突然思い出したかのように吐き出した。

「帰って」

 声がかすれた。テーブルの上に投げ出した手を、手錠の中でぎゅっと握った。
 突然彼は立ち上がり、わたしの頬から首の後ろにかけてを掌で掴むようにして固定して、もう片方の手で手錠のかかった両手を押えつけた。腕を持ち上げ抵抗しようとしたが、首を固定する力も、テーブルに押し付ける力も強くてんで叶わない。
 噛みつくように唇が奪われた。ぬるりとした舌が唇の隙間から侵入して、何か硬いものが唇に触れる。逃げようと腰を上げたが、首を絞めるように背後から腕を回して肩を抑えられ、ガタンと椅子が動いただけだ。口を閉じようとすると顎を親指で押さえつけられ、小さくて硬いもの、きっとあの賢者の石が舌で喉の奥まで押し込められた。
 まずい、このままじゃ飲み込んでしまう。手錠された両手で彼の胸板を押し戻し、顎を抑えている手をなんとか振りほどき、喉がまっすぐになるように上を向かされている体勢を折り曲げせき込んだ。

「やめて」

 石が気管を逆流して口の中に出る。含み笑いのこもったため息が聞こえる。彼はわたしの首根っこをがっしり掴んでそのまま顔をテーブルに押し付けた。たった一本の腕で抑えられているだけなのに上半身を起こせないし、勢いをつけて叩きつけられた額と鼻が鐘を鳴らしたように痛い。ゾルフは首を掴んでいる腕に体重を乗せ、その間に空いた片方の手で器用に水筒の蓋をあけ水を口に含んだ。そして勢いよく首を引っ張り上げると今度は鼻をつまみ、もう一度唇を合わせた。つい反射的に「いやだ」と口を開けてしまい、わたしは流れ込んできた水で賢者の石を飲み込んだ。
 彼は上半身を固定する力を弱めると、今度はいきなり胸倉を掴んでわたしを椅子から立たせ、もう一度唇を合わせた。何度も、唇を合わせ、舐めて、わたしの唇を啄む。さっきとは全く違う、ゆっくりと味わうような感触――意図を理解して一瞬で鳥肌が立った。焦って彼を引きはがそうともがいている間にも、肩から肩甲骨へ、背中へ、形を確かめるように掌が動いて身体を抱きしめる。唇から耳へ、喉へ、唇が降りてくる。

「う、え、ゾルフ」
「ユレー」

 耳元で彼が囁いた。ふたりぶんの熱い吐息を感じる。一手遅れて羞恥に襲われる。やめて。そんなふうに、そんなふうにわたしの名前を呼ばないで。
 色々な衝撃と混乱でわけがわからない。だが、もう彼のことは随分前からわからないままなのだ、と気づいたとき虚しさが胸を吹き抜けた。なんとか「やめて」と囁くと彼の手が止まり、しばらく彼の軍服の合わせを眺め続けることになった。

「まったく…………こんなに切らなくてもよかった」

 まるで頭蓋骨を撫でられるように、短く刈り上げられた髪を指が這う。

「ゾルフ……いきなり、何なの?」
「子どもみたいなことを言わないでください」

 流れ星が落ちるくらいの時間、お互いの瞳が合った。
 そのとき唐突に、彼はわたしを愛しているのではないか、という推論がストンと胸に落っこちてきた。まさに、この星を通り過ぎる流星群の中から、一個だけ重力に魅かれて落ちてそのまま燃え尽きてしまった星のように哀れで孤独な星だ。或いはあまりに辿り着くまで時間がかかりすぎた流れ星だが、今までの所業の数々を鑑みれば致し方ない。
 ゾルフは腕をほどいて椅子に座りなおした。首筋が少し痛む。

「石を飲ませたって脱獄はしないよ」
「なぜ?母親に殺人犯だと思われるのは歯がゆいのでは?」

 彼は静かに聞いた。

「ここにいると、少し安心するの。間違ってることはわかってるけど、あの時の罪を償う機会を得られたような気がして」
「馬鹿馬鹿しい」

 彼は吐き捨てるように言った。穏やかだった目元に深い怒りのようなものが刻まれている。

「あなたは本当にわたしを苛立たせる才能があるようですね」
「どうにもそうみたいね」
「こんな仕打ちを受けながら妙に落ち着いている、と思えばそういうことですか……いつから論理的思考ができなくなったんです?この判決に10年前のことは含まれていない」
「そんなことはわかってるよ。この贖罪がアレを埋め合わせはしないことくらい……だから間違ってるけどって言ったじゃない」

 今までその片鱗すら見せなかった涙が、ぐっとこみあげてきて目頭があつくなる。ならば何故、罪を告白しないのか?彼の酷薄な瞳が訴えてくる。
 そうだ、わたしは何故、今になってもなお罪を告白しないのか。

「わかってるよ……わたしが間違えてた。あのとき師匠に、報告するべきだった」

 涙が目尻に盛り上がり頬を伝った。こんなことで泣くなんて、それもゾルフの前で泣くなんて恥ずかしく、情けなくて余計に嗚咽が止まらない。

「わたしは己の人生において自分の選択を後悔したことがない。ただ、仮に一つあるとすれば、あなただ」

 低い声で吐き捨てて、ゾルフは席を立った。扉の向こうで人の気配がする。いくら少佐権限でとりつけた特別面会室とはいえ、面会時間にも上限がある。
 彼は扉の前で一度振り向き、奇妙なことにすこし寂しげな表情を浮かべて(見間違いかもしれない)、「また来ます」と言い帰った。

告解日和

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