”貧すれば鈍する”に対義語はあるのだろうか。
 もう愛情を担保に自分の人生を決めるのはやめよう、と思ったから、国家錬金術師の資格を取れというゾルフの誘いに乗った。そして晴れて国家錬金術師になり、貧困生活に別れを告げてイシュヴァール殲滅戦徴用までの一ヵ月をそこそこ楽しく過ごした。
 銀時計の力は素晴らしく、すぐさま口座に振り込まれた一年分の研究費と生活補助金は目を見張る金額で、さまざまな研究計画が頭の中に浮かんでは消えた。わたしは久しぶりに金回りの心配や親の心配をすることなく、これからどんな方向で研究を進めていこうか考え、実践し、純粋なアカデミックの楽しさにのめり込んだ。ついでに擦り切れていた服も買えたし、欲しかったワンポットの赤い鍋も、最近流行りのアイシャドウも買った。化粧品を買い替えたのは何年かぶりのことで嬉しかった。友だちの誘いにもお金を気にすることなく応えることができて、「今度はわたしが誘うね」と笑って言えた。
 陰鬱に先のことを考えることはなくなり、今この瞬間を全力で楽しむという幸せ。先立つものは金だとわかっていたけれど、安心と充実を感じた。

 だが、イシュヴァール殲滅戦を終えて、わたしが再びその生活に戻ることはなかった。



――イシュヴァール殲滅戦・終戦宣言直後。

 イシュヴァール自治区全域を制圧したアメストリス軍は、主な戦闘を終えて順次帰還の段取りがすすめられ、キンブリー隊も東部奥地を出て国軍拠点のキャンプに戻っていた。キャンプは小さな村くらいの敷地で、軍用車両の駐車場や炊き出しゾーン、簡易病院、作戦参謀本部などがぎゅっと集まっていて人でごった返しており、一隊につき一つ就寝用テントが割り当てられていた。大体、一連隊ごとに最寄りの駅まで帰還の車両を出しており、一連隊帰るごとに前線から一連隊戻ってくるというような具合だった。
 わたしは未だ運ばれてくる負傷兵たちを治しながら、あのときのやり取りを思い出していた。賢者の石と、その裏にあると思われる(すくなくともゾルフはあると思っている)この国の全貌を知る存在。あのときわたしは何に誘われたのだろう?
 それに、最後の額のキスも実にゾルフらしくない。あの子は子どもの頃だって、一度としてわたしに親愛のキスを送ってくれたことはないのだ。わたしの方もあまり積極的にそういう風にしたことはなかったし――ああそういえば、ゾルフの髪が伸びてきた頃に一度髪を結ってやったことがあって、その時最後に「えいっ」といたずら交じりにおでこにしたことがあったかも。でもそれも、13とか14のことだ。

「レイリー補佐官!キンブリー少佐がお探しです」
「ジョシュア少尉……わかりました。少佐はどちらに?」
「情報統括本部第二棟、ですとか。すみません、自分も場所まではわからず」

 病室に人は足りていたし、もうここまで運ばれてきた兵士に一二を争うような重症患者はいない。
 わたしは国軍病院を出て情報統括本部とやらを訪ねた。人づてにその場所を聞くと、他の司令部と同様にイシュヴァールの民家を借用した石造りの三階建てで、国軍キャンプ南部の作戦司令群の一画だった。

――あのときの答えが間違えていたとは思わない。
 わたしは賢者に石には興味がないといった。それは嘘じゃなかった。わたしが気になっているのは、国家錬金術師が巻き込まれている大きな流れの方にあり、それを知ることができるなら或いは……とも思った。しかし、仮にその流れを操る側に行けたとしても、わたしに課せられる仕事があのパチモン疑惑の強い赤い石を使った虐殺なら関わりたくなどない。
 ゾルフはその意図を理解っていたのだろうか?

「ときにキンブリー少佐、レイリー補佐官は君の姉弟子だそうだね」

 キンブリーに呼ばれてきた、という旨を一階にいた警備の兵士に伝えたところ、二階に繋がる階段でふと声が聞こえた。

「彼女にも声をかけたらどうかね?なかなか面白い錬金術を使うと、大総統も仰っていたぞ」

 大総統が?
 俄かに心が浮足立った。わたしの研究が……わたしの錬金術が、よりによって国のトップの目に留まるなんて。わたしにとって最早錬金術とは人生の相棒のような存在で、自分の研究を認められたことは自分をも認められたことと同義だった。しかし、軍事国家アメストリスにおいての大総統。この国の全貌、そして賢者の石。
 階段の途中で足を止めたまま、このまま部屋に入るか迷った。キンブリーが何の話をしていたのか気になる。大体情報部でもないのに情報統括本部に何の用だろう……。

「失礼します」

 逡巡ののち部屋の前に立った。扉はなく、土壁に入り口をくりぬいてあるようなつくりだったので一応壁をノックした。
 テーブルを囲んで何人かの青い軍服をきた軍人がいた。ゾルフはそこに列席し、掲げた指で赤い石をつまんでいる。

「おや、丁度いいところにきた」
「ああ丁度いい。今、君の話を――」
「ユレー、あのときと同じだ」

 ゾルフは髭面の男の言葉を遮り、椅子から立ち上がって鷹揚に手を広げた。
 わたしは少し妙に思った。その人上官じゃないのか。今まで、例え心の中でどう思っていようと面白いくらい上司に諂い、綺麗な言葉を並べ立てていたのにその無礼はどうした?

「今度は少しばかり勝手が違うが、まあいいでしょう」
「?」
「あなたが望むものをくれてやろうという話ですよ。まあ代替品にはなりますが、あなたにとっては似たようなものだ」
「……キンブリー少佐、一体どうした」
「つまり――わたしが賢者の石を持っていることを知っているのは、貴方がただけということです」

 朗々と、まるで歌う様に。劇を演じるかのように。
 ゾルフはおどけた仕草で舌を出し、赤い石を飲みこんだ。周囲の軍人たちが何かを察知し色めきだつ。彼はわたしを見ている。嫌な予感がした。

「”共犯者”になってください」

 ゾルフは両手を合わせ、紅蓮の名のままに床と空気を爆破させた。両掌の周囲から猛烈な熱風が押し寄せ、わたしは部屋の中から廊下の壁に吹き飛ばされ叩きつけられた。
 その後のことはあまり覚えていない。爆発に巻き込まれてわたしも建物の下敷きになったが、運よく重傷には至らなかった。わたしは自分の錬金術で自分を治せる(錬金術の研究で自分の身体を使って実験したので、誰よりも深く損傷することができる)から、意識さえはっきりしていればちょっとした傷は治せた。ただ頭を強く打っていたので、キンブリーがわたしをがれきの下から引っ張り出して、周囲の兵士が何事か叫んでいるうちもまだ状況を把握できていなかった。
 気づいたときには、セントラルの軍用拘置所でベッドにくくりつけられていた。わたしは唯一の目撃者となったキンブリー少佐の証言で、あの場にいた五人の軍人を殺害、一人を殺害未遂(勿論キンブリーのことだ)した罪で逮捕された。すぐに内部調査局(軍内部での警察機能を持つ組織)によって事情調査が行われ、わたしは無罪を主張した。
 基礎的なものを除いて特に国家資格を取ったような人間が行う錬金術は、本来1人1人固有のものなので当然錬成痕にも特徴が残る。別々の方法で同じ効果を狙った錬成を行っても同じ錬成痕は残らず、これを錬成紋と言い、特殊犯罪捜査ではよく指紋のように扱われ貴重な資料となる。当然わたしは「より精密に調査してもらえれば、わたしが犯人でなく濡れ衣を着せられただけであることはわかるはずだ」と主張した。なによりわたしの錬成陣ではあのような大規模爆破は行えない。
 しかしどうにも有罪の方向で話が進んだ。わたしが昏倒している間に彼が何かしらの根回しをしていたのかもしれない。作戦行動中にゾルフと組んで時限式人間爆弾を作ったことも、わたしの犯行理由を後押しした。

「兵士の証言によると、君はキンブリー少佐を殴ったことがあるとか。この戦時徴用そのものに大きな不満を抱いていたという話を多くの人から聞いているよ」
「一度前線に出たとき、時限式人間爆弾とかいうものを作ってイシュヴァールの民を多く殺したそうだな。あれを上官にもやったんじゃないのか」
「勿論、君のことを庇う者もいる。だが親しい人間の情がさせることかもしれないからねえ」

 わたしは自己弁護を諦めた。
 決して事情聴取が苦しかったわけではない。ゾルフがこんな形でわたしを陥れたということが信じられなかった。一応事実として、己の無実とあの場で起きた真相を語ったが、厳しい声色で詰め寄る内部調査局の人間を前にわたしはずっと心の中で自己問答を繰り返していた。返答は力なく、反論できると思ってもする気力が失われていた。
 軍事国家のアメストリスでは、軍部で起きた犯罪については民間人が逮捕された場合とは異なった流れで罪が確定する。わたしは事情聴取の後二週間で無期懲役が決まり、セントラル内の刑務所に投獄されることになった。

 爆破の直前にわたしを見た彼の表情が脳裏にこびりついている。
 わたしが最も奇妙に思ったのは、路地裏でわたしの頬にキスを落としたときに見た瞳と、爆風の中で見た瞳が重なることだった。
 あの瞳が湛える紅蓮の炎が。
 その奥に見え隠れする、強烈な怒りと諦観が。
 
月の果てまで逃げきって

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