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※現パロ


彼氏欲しい。
そうこぼす恋人の声をしっかりと拾ってしまい、京楽は人知れず苦い笑みを顔いっぱいに広げた。


「彼氏いないんだっけ、みょうじ」
「いない」
「あれ?付き合ったとか言ってなかった?」
「言ってない」


なまえは見るからに不機嫌だ。ジョッキをあおった顔はぶすっと不貞腐れ、京楽のほうを一瞥もしない。

それなりに人を集めて行われる飲み会は、裏通りにある小さな小料理店を貸し切って行われた。
長かった催事が先日やっと終わりを迎え、それぞれの会社から派遣された担当者たちがアルコールと美味しい料理でその疲れを癒している真っ最中なのだ。
恋人の自棄気味な飲みっぷり、周囲はきゃらきゃら持てはやしたが、京楽は心配で気が気ではない。それでも声がかけられないのには理由があった。
催事の準備期間中、それまでも面識のあった二人はようやく結ばれてお互いを名前で呼ぶようになったのだが、京楽はなまえが想像した奔放で軽薄な男とは違った律儀さや誠実さを持つ節度ある大人の男で、…………つまり、まだ抱かれていない。ベッドでお互いの温もりを確かめ合うまでに至っていない。付き合って二ヶ月。今時高校生でもやることやってるのに。彼女は尖らせた唇を隠しもしないで京楽を睨んだ。

『どうして?私のことそういう目で見れないの?』
『そういうんじゃなくてさ』
『なんでエッチしてくれないの、…私、だめ?思ったのとちがう?』
『なまえちゃん、違うよ、…』

言い訳すると、百戦錬磨の京楽は、もちろんすぐにでも手を出したかった。それでもキスより先に進まないでいる。大切にしたいと言う気恥ずかしさを『こういうのは焦らずに進みたいんだ』との余裕で覆い隠し、腑に落ちないといった恋人の頬にキスをして宥め続けていた。
京楽のファンならきっと、なんて思いやりのある人だろうと感激し、いつまでも待ちますと千切れるほど首を縦に振っただろう。でもなまえは京楽の上品な奔放さを魅力的に感じていたわけだし、彼ほど年上の男に恋をしたのだって初めてだから、大人の男がどんな夜の顔を見せるのか楽しみで仕方がなかったのだ。
それで、拗ねている。
不貞腐れている。
臍を曲げて、もう知らないとそっぽを向いている。
だってこんな、中学生みたいな恋愛をしたいわけじゃない。
なまえは、下心丸出しで隣に座る男に対して悪い気はしなかった。仕事中でもやけに口説くそぶりをみせたり、ランチに誘ってきたりした他社の営業の男。彼はアルコールメニューを差し出しながらこっそり腕をくっつけてきた。なまえより5つ上、手に取るようにわかりやすい男。嫉妬でもしてくれたらいいのに、京楽は何も言わなかった。それどころか、恋人の眼差しは階級がずっと上の上司や有名な銘柄の日本酒に注がれている。なによ、もう。なまえはぬるくなったビールを喉に流し込んだ。自宅に招いた時はお酒も飲まずにすぐ帰って行ったくせに、こんなつまらない会社の飲み会では何を飲もうかとわくわくしている。なにが楽しいんだ、いったい。私がいない方が楽しいっての、ありえない。抱かないくせにキスはするし(これがめちゃくちゃ上手いのでたまらない)、色っぽい雰囲気にはなるし、あの男はたまらなくセクシーだし。生殺しだ。どうしろっていうのだ、いったい。なまえは気持ちを振り切るように、男の肩に寄り添った。


「…二次会行く?」
「どうかなあ…みんな行くかな」
「それか一緒に抜けようか」
「あはは、それもいいね」
「本気で。どう?彼氏いないって言ってたじゃん」


思い出すとイライラしてしまい、どうせあの男は勃たないのだと決めつけ、ジョッキの底に溜まった泡をこくんと飲み干した。「いいね、いこっか」。なまえはかわいい声を滲ませて言った。男はすけべったらしい笑みを浮かべる。5つ上といっても言動は高校生みたいな男だ。自分にはこういうタイプがお似合いかな、と冷めていく。もう京楽の方は見なかった。向こうはどうだろうか。隣の男が邪魔をするので分からない。
会計を済ませ、例の男をきょろきょろ探すと、先に声をかけてきたのは京楽のほうだった。


「みょうじさん。誰か探してるのかい」
「………京楽さん」


飲み会となればびっくりするぐらい酔う京楽は、珍しくはっきりとした顔色をしている。彼に対して言い訳すべきかどうか少し悩み、結局、「先輩と飲み直すの」と曖昧な事実だけを述べた。京楽の顔色はやっぱり変わらない。ムカつく男だ、ちょっとは機嫌を損ねたらいいのに。男心を知らない女は身勝手に拗ね続ける。
店を出て少し行ったところで人集りをやんわり抜けて、あの男からなまえを背中で隠し、京楽はまるで仕事の話をしているかのように真面目なトーンで囁いた。


「ねえ、飲み直すならボクと行こうよ」
「なにそれ。私の機嫌取るために言ってるでしょ。無理しなくていいよ、京楽さん」
「隣の男の子、やけにきみに声かけてたけど」
「誘われてるの。あの人の誘いに乗った方が手早くヤれるかも」
「なまえちゃん。怒るよ」
「怒りたいのはこっちよ。手も出してくれないくせに」


ああ、めんどくさい。できることなら大きくため息をついてやりたかったが、そうしたらもっとめんどくさいことになる。京楽はなるべく慎重に言葉を続けた。


「言ったろう、こういうのは順番守らなきゃって思ってたんだ」
「順番守るようなお利口な恋愛なんかしたことないでしょ」
「まあね。だからこそ大切にしたかったんだ」
「そんなの頼んでない」


頼んでないだって?
色男の顔がキュッと引き攣った。
ああそう、こっちだって頼まれちゃいない。ただ、久しぶりにできた年下の可愛い恋人をじっくり知って、こっちのことも知ってもらって、気持ちと心をきちんと重ねた恋愛がしたかったんだ、と、舌の根まで言葉が這い上がってきた。見栄で飲み込む。プライドで蓋をする。しかし、それでも苛つきは後から後から湧いて出てきた。
京楽はため息ひとつつく暇もなくなまえをビルとビルの間に引き摺り込んだ。一方通行を知らせる標識の後ろ、街灯の当たらない仄暗い路地は2人のほか何もなく、土のやわらかな感触が足元から伝わってきた。

ちいさな顎を掴んで上を向かせ、びっくりして固まった唇をむりやりこじ開けてやる。生き物のようにぬるぬる動く舌は頑なな唇をぱっくり割り、難なく口の中を蠢いた。なまえは目を大きくして、きっと何が起こったのか理解が追いつかないのだろう、何度かの瞬きのあと体を捩ったが、大きな手で掴まれた体は自由は全くきかなかった。


「んっ、…んぅ、っ、きょうらくさんッ」
「静かに。聞かれちゃうよ」


頭上から注ぐ月明かりが照らす男の顔は、息を飲むほど色気があった。薄く伏した垂れ目といい、陰影の濃い顔だちといい。会社で見かける京楽本人かどうか疑わしいほどセクシーだった。触れ慣れた厚い唇は感動するほど柔らかで、顎に触れる指先だってこんなにしっかりと硬い感触をしているなんて知らなかったし、なにより、力強さがなまえを黙らせる。悪い気はしない。ただ、こんな男の顔を誰かに見られるのだけは困る。


「っ…、まって、見られちゃう…」
「静かにって言ったろ」


脅迫めいた低い声が体の隅々まで染み渡り、女心がきゅんと高鳴った。
この男の声には女に聞かせるためにあるのだろう。こんな声で囁かれて耐えられる女がいるだろうか。口づけの合間にこぼれる吐息すらいやらしくて、なまえは、おとなしく京楽の腰に手をやった。がっしりとした、太い腰に。
角度を変えて愛らしいリップ音をたてて、食むようなキスのあと、潤んだ瞳で恋人を睨みつけた。やればできるんじゃない。それもそのはず、彼女の相手は京楽春水なのだ。


「京楽さん、」
「なあに?」
「……も、もう1回…」
「だめだよ。家まで待てるかい」
「…待てる……」
「はは、さっきはいやだって言ったくせに、手のひら返すの早いね」
「っだ、…だ、って、」
「じゃあさっきの子にきちんとお断りしておいで」
「……はい…」


よろめきながら歩き出すなまえの肩を支えてやり、あの男の姿を探す。まるで事後を思わせる湿った表情で、どんなふうに断るのだろう。裏通りの狭い道を照らす薄く曖昧な街灯の下を行きながら、京楽はぎらぎらとした眼差しでなまえの肩を見下ろしていた。




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