月と星

1-2.ナベかま亭


 どうやら、『彼』はいわゆる記憶喪失の状態にあるらしい。
 それが、扉の向こうからやってきた女の人……アンジュとの会話で分かったことだった。

 大きな大きな『世界』に数多く存在する地方のひとつが、ここ『タルミナ』。一番栄えているのが中心にある『クロックタウン』で、その四方には沼、山、海、谷、牧場などがある、自然豊かな地方だ。
 このような当たり前の知識すら、『彼』は持ち合わせていなかった。

「一ヶ月ほど前に、西門の外に倒れていたあなたを、大工の親方さんが見つけて……ここに運びこまれたんです」
「もしかして、それからずぅーっと寝てたんですか、オレ」

 遠慮がちにアンジュはうなずいた。彼女はこのクロックタウンにある唯一の宿『ナベかま亭』の一人娘。肩にかからない程度に伸びた滑らかな栗色の髪の毛、垂れ目がちだが大きな瞳を持つ、なかなかの美人だ。看板娘に間違いない。

「そ、そうですか……」
「外傷は全くないのに、不思議なことですね」

 アンジュは穏やかに微笑んだが、かえって申し訳ない気分になり『彼』は恐縮する。

「あ、ここ、宿屋でしたよね。大事な部屋を一ヶ月も占領して……」
「ああ、構いませんよ。今年はそれほどお客様もいませんし」
「今年は?」

 ふっと表情が曇ったアンジュに、『彼』が心配そうに声をかけた。
 その視線に気づき、アンジュは軽く髪を揺らす。

「すみません。ですが……このことはやはり言うべきでしょうね」

 何やら思い詰めた表情で、静かにアンジュは語り出した。





 三日後、ここクロックタウンでは『刻のカーニバル』が開かれる。何百年も前から続く、伝統のあるお祭りだ。
 しかし、今年はこのカーニバルを開催するか否かで、町が真っ二つに分かれてしまったらしい。
 というのも……。

「あの月が、カーニバルの開かれるその日に、落ちてくる。そんな噂が町に広まったのです」

 『彼』はもう少しで笑ってしまうところだった。月が落ちてくるだって? 馬鹿馬鹿しいにも程がある! と。
 だが、アンジュの思い詰めた表情を見るとそんな言葉は吹っ飛んでしまった。

「あの月って……」
「タルミナのどこからでも見えますよ。ほら、そこの窓からも」
 アンジュの示す方にすっと視線が移る。失礼して『彼』は窓を開けた。

「……あれ、本当に月なんですか!?」

 思わず『彼』は叫んだ。無理もない、というようにアンジュが首を振る。
 空を見上げた『彼』の目に、真っ先に飛びこんで来た月には、巨大な人間の顔が張りついていたのだ。目のあたりはくぼんでいて、暗い光を宿している。ずらりと並んだ歯が不気味だった。
 しかも、まだ昼間だというのにこんなに近くに見えている。刻一刻と近づくているようでさえあった。

「半月ほど前、町の東にある天文台で発表がありました。あの月がだんだん町に近づいていると……」

 そして、誰ともなく、人々は噂をたてた。つまり、

「月が町に落ちてくると……ですか」
「はい。その噂を信じる人は、町から離れた牧場に避難しています。
 ですから、あなたも今から避難していた方が……」
「え、アンジュさんは?」

 そこまで分かっているのに、何故彼女は逃げないのだろう。あくまで噂とはいえ、まったく信じていないようにも見えないが。

「私は……人を待っているの。一ヶ月前から行方不明で……」

 アンジュの肩が震える。まずい話に触れたのか、と『彼』はあたふたした。だがアンジュはすっと手を伸ばし、制止する。

「すみません、こんなことを。
 気にしないでください。私のことより……あなたはどうするの?」

 いつの間にか、アンジュは『彼』に対して敬語を使わなくなっていた。
 そのことに気づいたのか、少し頬を紅潮させて『彼』は答える。

「オレですか? とりあえず……記憶を探してみようかと思います」
「あの、すみません、そうではなくて」
「避難するかどうか、ですよね? そりゃ、落ちたら困りますけど。落ちないかもしれませんし、いいかなって」

 一体何を言っているのか、とアンジュは呆気にとられ、絶句した。
 しかし『彼』は気づかず、嬉しそうに続ける。

「クロックタウンって、さっき窓からちらっと見ただけですけど、素敵なところですよね……。
 あ、まだオレ一ヶ月分の宿代払ってませんでした。いくらですか?」

 財布は、と探し始めた『彼』に、アンジュは荷物をまとめて置いた場所を示す。彼女は微笑んでいた。





 階下から宿帳をとってきて、ぱらぱらとめくっているときに、アンジュがはっと顔を上げた。

「あの……すみません、お名前はどうしましょう」

 言われて初めて『彼』は気がつく。

「な、名前ですか……」
「やはり思い出せませんか。不便でしょうから、仮にご自分で決めておいたらどうでしょう」
「あ、はい。そうします」

 うーん、と唸りながら部屋内を見回す。目覚めたときに見た壁掛け、机、椅子、鏡――。
 ふと、『彼』の目が『あれ』に留まった。

「あ」

『あれ』は、長針と短針を重ねてまっすぐに時を示した。同時に低く、のんびりとした鐘の音が外から聞こえてきた。その回数はぴったり十二回。

「あら、もう零時なのね」
「ゼロ!」

『彼』は突然叫んだ。びっくりしたアンジュが振り向く。

「オレの名前、ゼロにします。零時に起きたから、ゼロ。アンジュさん、これからよろしくお願いします」

 ゼロはアンジュに、丁寧にお辞儀した。


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