魚の勇者と人間の少女


「そんな姿してたら、とても勇者さまとは思えないわね」

座るのにちょうどいい岩に腰を下ろした赤の少女が、微笑みを浮かべてそう言った。
目先に映るのは、少女の目線に合わせて泳ぐ、紫の魚の姿。
勇者さま、と呼ばれたその魚の正体は、海底王国ムウレアの女王セレンに姿を変えてもらったイデアだった。
魚になればムウレアの探索がしやすい、姿を変えてもらった理由はそれだ。
しかし、探索を終えて元に戻してもらおうと向かった矢先、少女、ベロニカがそれを止めた。

自由行動にしようというベロニカの突然の提案で、一行は不思議そうにしながらも自由行動を始め、今に至る。
ベロニカは魚になったイデアを抱いて運び、城の裏側へとやって来ていた。

イデアを解放すると、ベロニカはまじまじと魚姿の勇者を見つめる。
ベロニカの視線でそこから動けずにじっとしているイデアの周りをぐるっと一周しては、再度まじまじと見つめる。
暫くすると、魚姿の彼に彼女は改めてそっと触れてみた。
普段の感覚と全く違ったそれに、驚きを隠せずにはいられない。
魚ではあるが、元々人間だからなのだろうか、体温はしっかりと感じられた。

魚は水の中で暮らしている――海を見た事がない彼女は、生きた魚に触れるどころか見た事もなかった。
本に書き記された知識しかなかったベロニカは、ますます魚になった勇者を珍しそうに、同時に楽しそうに見つめたり何度か触れたりした。

『…………』
「……ん、何か言いたそうね、イデア。けど今は話が出来ないわ……」

魚になったイデアの言葉は、どうやら魚や人魚にしかわからない言葉になっているらしく、今のままではベロニカと話が出来ない状態だった。
不便に思ったが、もう少し、との好奇心が彼をもう暫く魚の状態にさせた。

会話が出来ない事に、普段無口なイデアがもどかしさを感じてしまう程時間が経っていた。
ベロニカは満足したらしく、座っていた腰を上げる。
女王の所へと向かおうとしたその足を止めた時、その後ろを泳いで着いて来ていたイデアも止まった。
ベロニカはそんなイデアがいた後ろへと振り返ると、両手を彼の頬と言える位置に添えた。

何をしようとしているのかイデアには全く分からなかったが――気付くと目の前には服や帽子と同じ真っ赤に顔を染めたベロニカの姿があった。
瞬きをした時彼女は既に離れていたが、何が起こったのか理解した時、紫の魚は真っ赤な魚になっていた。

「……イデアっ……早く女王さまの所に行って元に戻ってよ……!」

真っ赤な魚になったまま、ベロニカの突然の発言にきょとんとした表情を浮かべるイデア。
先程まであんなに魚姿の彼に興味津々だった彼女は、今は背中を見せこちらを一切見ようとしない、見る気配もない。
早く、と急かした時にようやく見えた一瞬で、イデアはベロニカが涙ぐんでいるのを確認する。
それは本当に一瞬だったが、彼女は間違いなく涙ぐみ、口元に手を当てていた。

イデアは早々に泳ぎ始めると、女王の元へと急ぐ。
魚から元の人間の姿へと戻ると、ベロニカの元へ急いだ。
ようやくイデアを見たベロニカは、安堵した様子で胸を撫で降ろす。
先程見せていた涙ぐんだ表情は、そこには無かった。

涙ぐみ口元に手を当てていた理由を、彼は知りたくないわけがなかった。
心配そうに先程の事を問いかけるが、ベロニカはなんでもない、としか口にしない。

「……魚になるのはいいけど、あんまり長い事そのままでいないでよね?」

なんでもない以外にベロニカが口にしたのはそれだった。
きょとんとした表情を浮かべながらもイデアは頷いたが、やはり先程の事が心配で仕方がなかった。
再度問いかけたとしても、ベロニカは先程と同じように、なんでもない、としか口にしないだろう。

「生臭いイデアなんて嫌よ……」

顔を俯けて小さな声でそう口にしたベロニカに、イデアは目を見開いた。
先程魚姿のイデアが受け取った、ベロニカからの触れるだけのキス。
彼女はその時痛感したのだろう――魚の“におい”と言うものを。

本での知識はあったが、においに関しても実際に鼻で受け取った事はなかったそれに、思わずベロニカは涙ぐんでしまった。
そして恋しく思ったのだ――“人間のイデア”を。

『……ベロニカ』

心配そうにしていたイデアの表情は、まるで今いる海底のように穏やかな表情へと変化していた。
声も同じように穏やかなそれは、俯いていた彼女の顔をあげさせる。
何よ、そう言う暇もなく彼女の唇はイデアのものによって塞がれた。
先程ベロニカがした時よりも少し長めのキス、離れた時二人の頬は海の青には目立つ赤に染まっていた。

間を開ける事無く、イデアはベロニカを強く抱き締めた。
何から何まで突然で、ベロニカは声を出すタイミングをすっかり見失う。
行動だけは何とか追いついているようで、イデアの背中にゆっくりと両腕を回していた。

『……大丈夫かい、ベロニカ』
「……ええ……」

仲間達の合流時間を既に過ぎていて、いつ探しに来て目撃されてしまうかわからない状況。
そんな事は、今の二人にはどうでもよかった――ただお互いが暖かく、いつもと同じだという感覚を噛み締めていた。
イデアはベロニカといつも通りの会話が出来、ベロニカは人間のイデアの温もりと“匂い”を感じている。
こうしていられるのが幸せだと、二人は感じずにはいられないのだった。

2017/11/4

書き終わった後、調理された魚は見た事があるかもしれないなぁなんて思いました。
ムウレアは呼吸が出来るなら恐らく匂いもわかる、と思います、はい。


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