優しい目
もし彼を陥れたいと思うのなら、ほんとうにそのつもりがあればの話だが、まずは彼の恋人とおしゃべりをしてみるのが一番だろう。一時間、いや三十分でもお茶の席を共にすれば、弱みの一つや二つ簡単に握ることができる。もちろん彼女にそのつもりはないし、一般に言うスキャンダラスな話があるわけでもないが、とにかく彼女の知るモモンガと周囲が見ている彼との間に隔たりがありすぎて、もはやそれがひとつのからかいの種になるという話なのだ。
職業、海兵。趣味、仕事。実際的で無駄を嫌い、良くも悪くも実直な男。彼の同僚に聞けば皆概ねこのように答えるだろうが、その男が一人の女の前で見たこともないような穏やかな笑みを浮かべるだとか、隣を行く彼女を気遣って歩調を緩めるだとか、時には赤面し言葉を詰まらせることまであるというのだから、これだけでも一週間は話題に困らないだろう。
惚気ているつもりのない会話の途中で恋人を「可愛らしい」と表現した彼女に、あいつにはおよそ似つかわしくない言葉だけれども、とヤマカジは苦笑した。あなたが言うのなら、きっとそうなのだろうね。

それを聞いて食堂に響き渡るほど盛大に噴き出したのはオニグモで、丼を手にぽかんと間の抜けた顔をしたのはステンレスだ。「可愛い?」と口にしてみても、まったく理解できないといった具合だ。しかしほんとうに、と揚げ物をつまんだままの箸を宙に浮かせていたドーベルマンは訝しげに同僚を見やった。あいつの不在に彼女と二人だけで?と怖いもの見たさで確認し、彼女に呼び止められたのさとヤマカジが答える。わざわざあいつに申告するつもりはないがね、と水差しを持ち上げながら言葉を続けると、最初から笑いも驚きもしないストロベリーはそれを受け取って頷いた。いつもの無表情ではあったが口の端をほんの少し歪ませ、自殺の手段だとしても随分と手間のかかることだからな、と独り言のように呟いてグラスを傾ける。まったくその通りで、と一番可笑しそうにしていたダルメシアンが同意し、食べかけのチキンをほとんど丸ごと口の中へ放り込んだ。


同僚たちがにわかには信じがたい振る舞いを彼がしてしまうのは、モモンガの所為ではなく「可愛らしい」と評した彼の恋人にほとんどの原因があると言ってもいい。おそらく彼はジョアナの前でなければこうはならないし、彼女が側に居るからこそほかには見せない、もっと言えば彼自身も気づいていない一面があらわになってしまうのだろう。
例えば彼らが恋人となり、ふたりきりで会うことにもすっかり慣れてきた頃、モモンガはジョアナからの視線を多く感じて不思議に思ったことがあった。それまではふとした瞬間に見つめられても見返せばすぐにそらされてしまうばかりだったのに、その時ジョアナは彼の目線を捉えてまったく離そうとはしなかったのだ。それどころかにこりと微笑んで見つめ続けられたものだから、柄にもなく面映くなった彼はそれを誤魔化すように咳払いをしてからぎこちない笑みを返した。

「あー…ジョアナ?私の顔に何か付いているかい?」
「え?あ、いいえ、綺麗だなーって」
「綺麗?」
「はい、モモンガさんの目の色、琥珀みたいですごく綺麗です」
「そう…か?言われたことないが…」

綺麗ですよ、と駄目押しのように言うジョアナの笑顔をまともに見ることができなかったし、君の榛色だって、と上手く返すこともできなかった。彼女のことだ、他意がないのは明らかで、だからこそ言葉通りに捉え…要するに大いに照れ臭くて、ついに彼は明後日の方を向いてしまった。緩む口元を掌で隠し、餓鬼じゃあるまいに、と心の中で叫ぶのに忙しくて、この間子供達とべっこう飴を作ったという彼女の話はまるまる聞き逃してしまった。

ジョアナからじっと見つめられるのはこの時ばかりではなかった。ある時など、やはり会話の内容などそっちのけで、じっとと言うよりまじまじと見つめる彼女に、モモンガはどうかしたのかと尋ねたこともあった。するとジョアナは自身の眉の上を指先でさすり、傷があると言いながら座っていた椅子から腰を浮かせて今度は彼の額に触れた。ここまでは、いい。はっとした彼女がすぐに離れて腰掛けてくれたし、まだ何とか気を紛らわすことができた。しかしそこで終わりではなかったのだ。

「今まで気がつかなくって…」
「ああ、これは随分昔の傷だから、あまり目立ちもしないし自分でも忘れているくらいで…」
「痛むことは…」
「大丈夫、なんてことないよ。これよりも…あー、いや、あまり気持ちの良い話ではないな…申し訳ない」
「いえ、私こそ!…あ、そうだ!私も小さい頃思いっきり躓いて転んじゃって、その時の傷が今でも残っているんですよ」

そう言ったジョアナが出し抜けに長いスカートの裾をたくし上げ、膝の傷を見せようとしたのには流石に彼も面食らった。自宅でならまだ良かったかもしれない。しかしここは街中のカフェだったし、店の中ではなく往来に面したテラス席だった。いっそいきなり大雨でも降ってくれたらと埒もないことを考え、ね、と小さな傷跡を指差す彼女に、ああともうんともつかない微妙なうめき声を上げて答えるしかなかった。やんわりと言って裾を元に戻してもらったが、もう少し無防備なところをなんとかしてもらえないかと伝えるにはどうしたら良いのかと考えるのに忙しく、二度名を呼ばれるまで差し出されたスコーンに気づけなかったくらいだ。

こうして彼女が目の前に居る時だけではなく、側から離れてしまった時もまた彼らしからぬ言動を見せてしまうことがあった。
待ち合わせに来ない彼女を迎えに行ったら入れ違いになった、という程度でも彼はわずかに動揺したが、これはまだ付き合いを始める前の出来事が思い出されたからで、その後すぐに出会えた時には浅いため息一つで気持ちを落ち着かせることができた。
それくらいで済まなかったのは出先でジョアナを見失った時だ。船を降りた時は一緒だったし、人で賑わう街に入った時もまだ隣を歩いていたのに、目当ての店を見つけて指差し横を振り返ると彼女はそこには居なかった。代わりに居たまったく見知らぬ老紳士と目が合い、互いに怪訝な顔をしてモモンガは足を止めた。もちろん相手は立ち止まりはしなかった。右手ではなく左手側かと半回転し、見当たらずに後ろを探し、まさか彼女の足で先に行ったとは思えないがと念のため行く先にも目を凝らしたが、そこにもジョアナの姿はない。実際には彼女は数メートル後ろの露店に並ぶ小物を眺めていたのだが、折り悪く屈んでそれらを手に取っていた所為で人混みに紛れてしまったのだ。泡を食ったモモンガは来た道を戻って探したが、彼が居ないことに気づいた彼女は彼女で目的地へと向かって行ってしまった。別の通りにも居ない、港の船の前にも中にも居ない、そこらじゅう走り回っていた彼の頭に不吉な考えが過りだした頃、やっとのことでジョアナを見つけることができた。街の案内所の前で手を振る彼女に脱力し、ベンチに腰掛けて乱れた呼吸を整えることで精一杯だった。

「…どこに…行ったのかと…」
「ごめんなさい、お店の前で声を掛けたんですけど…」
「いや…こちらこそ…気づかなくてすまなかった…」
「あんまり見つからないから放送してもらおうかと思ってここに来たんです。会えて良かった」

心底安心した笑顔を見せるジョアナに、もういっそ泣きたいくらいだと彼は首を垂れた。もっと人の少ない時期に来れば良かった、手を繋いでおけば良かった、今度からはそうしよう、とても心臓に悪い、子電伝虫を持たせるのも良いかもしれない…が、しかし、これではまるで保護者のようだ。
一通り考えた後に頭を上げた彼の顔を見て、ジョアナはもう一度微笑んだ。彼が隣に座る迷子の男の子とまったく同じ表情をしていたからだ。


話の仔細までは聞かなかったが、「子犬みたいな顔」と言っていたジョアナをふと思い出し、ヤマカジは飲みかけの水をそっと置いた。もう少しでむせるところだった。どう頑張っても犬には見えないとひとりごち、何か?と反応したダルメシアンにお前じゃないよと苦笑する。それと同時にあれ、と大きな声を上げたステンレスの視線の先を見て、ストロベリーが帰還は明日じゃなかったかと平坦な声で続けた。ありゃあ逃げた方がいいんじゃないか、とドーベルマンが目配せし、いやもう少し様子を見ようじゃないかとオニグモが意地の悪そうな笑みを浮かべる。あれは相当お冠だな、というのが、荒い足取りでこちらへ向かってくるモモンガを見た一同共通の意見だった。

「だいぶ早かったなあ」
「お前…ほかに言うことはないのか」
「偶然街で出会うことくらい、良くある話だろう」
「それだけではないだろう!」
「重たそうな荷物を幾つも抱えていたら、おれでなくても手伝うだろうよ」
「問題はその後だ!」
「お礼にと言われて茶を一杯ご馳走になるのが問題と言うのなら、まあ、そうなのかもしれないが」

至極落ち着いて返すヤマカジと食ってかかるモモンガとを見やり、ほかの者は皆同じように呆れたため息を漏らした。
別に彼女の部屋でって訳じゃないんでしょう、とステンレス。
職場の応接室だったんだから、当然ほかの目もあっただろうな、とオニグモ。
恋人と言うか父親みたいだな、と言ったのはドーベルマンで、それにしても過保護ですねと笑ったのはダルメシアンだった。
ストロベリーはさっさと盆を片付け、午後二時の艦に間に合わせるためにその場を後にした。それに、これ以上見なくとも、どう落ちがつくのかは目に見えていたからだ。

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