indigo blue 3
それは強い雨が降る日のことだった。
いつものように朝食のトレイを手にした黄猿が部屋の扉を開けると、ジョアナはベッドではなく床の上にぺたりと座り込んでいて、憔悴しきった表情で濡れた窓を見上げていた。目を丸めた彼が訳を問うと、彼女は喉元に手を当てたまま苦しいと一声囁き、そのままずるずると窓辺に這っていこうとしたのだ。

「ん〜、包帯がキツすぎたかァ?」
「なんだか…息が…」
「ちょっと失礼〜」

冷たい床からひょいと抱え上げ、乱れたシーツの上に彼女を座らせると黄猿は長い髪を避けて包帯の具合を確かめた。昨日取り替えた時と何も変わったところはなかったが、あまりに息苦しそうなのを放っておくこともできずそれを取り除く。彼女があらわになった首をこわごわと撫で、深く息を吸い込むが、それでもまだ眉根を寄せて口で呼吸を繰り返した。

「大丈夫か〜い?」
「はい…」
「まァ、この分なら要らねぇかァ」

瘡蓋の周りの皮膚が突っ張り所々が剥がれ、乾き、新しく薄い表皮の下は桃色に赤に、痛々しい。しかし確実に癒えてきていた。ガーゼも包帯も脇に避け、まじまじと傷跡を見つめていた黄猿は、相手の苦しそうな吐息に訝しげな顔をする。

「どうしたんだ〜い?」
「窓を…開けさせて下さい…」
「ンン〜?そんなことしたら部屋中がずぶ濡れになっちまうよォ」
「お願いします…」

慣れない「足」を不自由に動かし、必死にベッドから這い出たのはどうやらこのためだったらしい。何が彼女をそうさせるのかはわからないが、余程辛いと見える。何も言わずに彼女の横顔を窺い、すっと立ち上がった黄猿はジョアナを抱えるとそのまま窓縁に近づいた。窓を強く打つ大粒の雨が気にならぬのか、真っ直ぐに外を見つめた彼女は取っ手に手をかけるとぐっと窓を押し開く。見る間に吹き付ける風雨が二人をぐずぐずに濡らしたが、深く息を吸い込んだジョアナは灰色にけぶる荒れた海を見てうっすらと表情を和らげた。

「綺麗な海…」
「綺麗?」
「はい」

そう言って彼女は微笑んだ。初めて見せた笑顔らしい笑顔だった。頬に張り付く髪も男に抱え上げられたままなのも構うことなく、ジョアナは窓から身を乗り出すように外へ向けて腕を伸ばす。
烙印と共に小さく焼き付けられていた識別番号をもとに照会し、十二年ほど前に売買された奴隷なのだと知ったのは彼女を連れ帰ったその日の夜のことだった。それ以来、海底の生まれ故郷からも海面からも遥かに引き離された大陸の上で、ある貴族の屋敷で恐らくはずっと水槽から出されることもなく、絶望の中ただ生かされていたのに違いない。見世物として。痩せ細っていたわけではないから、食べ物には困らなかったのだろう。そこいらの子どもですら、飼っている生き物に餌をやらねばやがては死ぬことを知っている。

「帰りたいのかい?」
「出来ることなら…」
「でももう家族もいねぇだろう?」

悲しみに揺らぐ美しい瞳を覗き込み、黄猿は笑みを浮かべた。一緒に人攫いにあった彼女の姉が数年前に死んでいたことも、連れ去られる姉妹を助け出そうとした両親が殺されていたことも彼は知っていた。最早彼女に帰る場所などない。はじめは何の気なしに拾った女を、自分の手元にいつまでも置いておきたいと考え始めたのはここ数日のことだった。この藍色の髪を、白く透き通った肌を、日々目にするたびに己のものにしてしまいたくてならなかった。だからその髪も肌も横目でちらと見るだけにとどめていた。彼女があまりにも哀れだったからだ。しかし改めてこうして触れてみて、間近に体温を感じ、濡れた豊かな髪に指を通したことで最早その抑えは効かなくなっていた。最初のときに彼女の烙印を焼き尽くしたのがそもそものはじまりだったのだろう。この人魚がひとのものだったことに、無性に腹が立ったのだ。これほどまでに強く惹かれる理由が彼にはわからなかったが、女はひどく美しく、そして弱っていた。
今、この軽く柔らかな身体を抱え、気づき、黄猿はつとめて隠していた感情をあらわにした。頬に叩きつけられる雨を鬱陶しそうに肩口で拭い、濡れて視界の悪くなった眼鏡を外して放り投げる。深く鮮やかな藍色がことさら美しく見え、細い目をさらに細めてあくまでも彼は笑った。支える手に力を込めて強く抱き締めながら彼女の耳元に歪んだ唇を近づけ、激しい雨音の中で聞き取れるかどうかの小声で黄猿は囁いた。

「今手を離せば君は逃げるよねェ、ジョアナ…でも“元奴隷”に居場所なんてあるわきゃねえよなァ」
「あの…ボルサリーノさん…」
「ずっとここにいるといいよォ。わっしは別に君を飼い慣らすつもりはねえし、なんでも欲しいものは与えてあげる。海以外は」

そう言って、彼はジョアナの唇を塞いだ。突然むき出しになった男の狂気じみた笑い顔に彼女は怯え、しかし声を上げることも出来ずに分厚い舌で口内を犯される。この十数年、魚として生かされていたジョアナにこういう扱いをするものは居なかったが、それでもこれが何を意味するのかくらいは分かった。男はただ女を求めているのだ。
息つく暇もなく角度を変えて貪る男の広い胸を必死に叩いても止むことはない。酸素が足りない頭の奥でがんがんと音が鳴り響き、意識が遠退く。そうして徐々に力の抜けていく両腕が垂れ下がり出したころ、やっと彼は顔を離して閉じかけたジョアナの目を真正面から見据えた。荒れた波飛沫の所為か女の涙の所為か、唇に残るわずかな潮の味を舐めとり口の端を曲げる。

「人魚でも、溺れることがあるのかい?」

彼は腕を伸ばして窓を閉じた。
それが開かれることは二度となかった。

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