indigo blue 2
さらさらと流れる風は潮の香りを孕み、部屋に漂う消毒液の匂いをいくらか和らげていた。白いカーテンがまるで寄せては返す波のように揺れ、無意識のうちにそれを眺めていた黄猿は女の深く息をつく気配に気づいて顔を上げた。ベッドに寝かせていた彼女の瞼がふるりと震え、ややあってうっすらと開かれていく様をじっと見つめる。彼女はぼんやりと辺りを見回し、木目の天井や簡素な家具や柔らかなシーツを見つけ、今まで閉じ込められていた狭く有限の水の世界とは違うことに気づいてゆっくりと頭を持ち上げた。途端に鈍い痛みが襲う。青白い顔をくしゃくしゃに歪めた彼女は再び枕に頭を埋め、まともに声を上げることもできずに噛み締めた歯の間から何とか酸素を取り込もうとした。散々に殴られ蹴られた顔や腹よりも、幾千もの針で刺されたような後ろ首が異様に熱を持っている。

「やっと起きたねェ」
「…っ…ぁ…」
「そこに鎮痛剤があるから、飲むといいよォ」

そうは言ってもまだろくに動くこともできないだろう。固く目をつむったまま荒く短い息を吐き出し、その合間に喘ぎ声を上げるのを見かねた黄猿は彼女をそっと抱き起こした。口を開けさせて丸薬を含ませ、水の入ったグラスを傾けて飲み込ませる。じきに効いてくるだろうと言いながらヘッドボードに枕を立て掛け、身体に障らないよう彼女の背を凭れさせた。

「まだ痛むだろうけど、ここでゆっくりしていなさいね〜」

状況がわからずに混乱する気持ちをどうにか抑え込んでいるのだろう。怯えた目は硬く握りしめた自身の両手だけを見つめ、震える唇から言葉が漏れ出ないように時折息すら飲み込んでいる。頬にかかった長い髪を彼が指先で流してやると、彼女はびくりと身をすくませて顔を背けた。そんなに怖がることはない、ここは君が居たところからずいぶん離れた海の上だから、と彼は微笑んで手を引っ込め、彼女から少し距離をとる。

「丸二日は眠っていたかなァ。今はグランドラインのある島に向かっている途中でねぇ、起きねえからそのま連れてきたんだよ〜」
「あ…あの…」
「んん〜?」
「あなたは…」
「ああ、わっしはボルサリーノ。海兵だよォ」

海兵、と繰り返した彼女はただ怪訝そうに彼を見上げた。彼の纏うコートの背にある文字には見覚えがあったし、となるとある程度地位ある者だろうというくらいの知識はあったが、彼が実際にどんな人物であるかは知らなかった。そもそも海兵というのは「あちら側」の人間で、彼女の遠い記憶にあるのは泣き叫ぶ自分から目を逸らし背を向けた者たちの姿だけだった。何の気休めにもならない虚ろな二文字。しかしこの男は少なくとも衣服やベッドを与えてくれたし、手枷や首輪をはめるようなことはしなかったのだから、恐らくはあの時の海兵とは違うのだろうとぼんやりとした頭で考える。名前はと尋ねられ、ジョアナと短く答えた彼女は、少し落ち着きを取り戻した胸を軽く押さえて深く息を吐いた。ここはだいぶ海に近い。

「腹は減ってるか〜い?」
「いいえ…」
「まだ無理かァ。何か足りないものは…」
「何も…」
「じゃあ勝手に見繕って持ってくるかァ」

変わらず微笑んだまま彼は部屋をあとにした。鍵をかけるようなことはしなかった。

数日間航海を続けていくうちにジョアナの身体の痣は薄れ、首の傷も癒え始めていた。男は時折数時間姿を見せないこともあったが、大抵はこの部屋にいてしばしば彼女と言葉を交わした。今日は海が荒れているだとか退屈はしていないかだとか、当たり障りのない会話をしてしばらく過ごし、あとは心地のよい沈黙と静寂が訪れる。彼は何も要求しなかった。それは彼女も同じだった。求めることなど許されない環境に長く身を置いていたのだからそれが当たり前だったが、彼がそうしないのが不思議でならなかった。最初の時以来必要以上に近づいてくることもなかったし、新しい服や温かな食事を与えてくれるだけで決して見返りなど求めない。ある日穏やかな表情で書類に目を落とす男に話しても?とジョアナが問い掛けると、彼は顔を上げてわざわざ聞かなくてもいいと柔らかく微笑んだ。

「お邪魔でなければ、歌でも…」
「歌?」
「はい、私にはお返しできるものが何もありませんし、主にいつも歌えと…」
「わっしは君の主人じゃあねえが…」

ほんの一瞬、彼の顔から表情が消えたが、結局はまたいつもの笑みを取り戻した。彼女が怯えたように目を見開き、口を噤んだからだった。好きにするといいと言って再び書類に目を落とすと、ややあって微かな歌声が聞こえた。途切れ途切れの節が次第に繋がり、それは今まで聞いたこともない旋律だったが、身体に染み渡るような穏やかさに満ちていて、彼はいつしか書類を捲る手を止めて聞き入った。ある地方の言い伝えによると、人魚の歌声は不吉の前兆、人を惑わせ死に至らしめるものだとどこかで聞いたことがある。確かに魅せられるが、そこまでだった。聞き惚れて我を忘れるようなこともない。何故ならそこにいるのは夢や幻の伝説ではなく、生き身の女の人魚なのだから。ただ、美しいことには違いない。
緩急をつけて繰り返される歌声に耳を傾け、窓から入り込む潮風に頬を撫でられながら彼はそっと瞼を閉じた。

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