I think I wanna
今日も一日よく働いたと凝り固まった首を捻り、書類を片付け資料をまとめ、コートを片手にさあ帰ろうかと執務室を出た矢先。お疲れ様です、という部下の声に振り返って手を上げ、別の何かを見つけたモモンガはその姿勢のまま固まった。用具入れの影から隠れきれていないでかい身体と同僚の顔とが覗いていて、もの言いたげにこちらを見つめている。気味の悪いことこの上ない。

「…一応聞くが、どうした」
「もう上がれるのか…?」
「ああ、お前は?ずっとここでこうしていたのか」
「今朝南の海から戻ってきたばかりで午後から非番だった。なあ…今いいか…?」

いつからなのかは知らないが、午後いっぱいこうしていたのだとしたら相当に怪しい。警備室に通報されていてもおかしくはない。とは言っても、同じ海兵を不審者として突き出したいものは居ないだろう。きっとすれ違うもの皆、目に入らなかったことにしたに違いない。
呆れ顔のモモンガがなんだ、と問えば、やけにおどおどと落ち着きのないステンレスがここではちょっと、と言い淀む。であれば出てくるのを待つのではなく訪ねてこればいいものを。しかしモモンガはそうは言わず、つい今しがた閉じた自室の扉を開いて同僚を招き入れた。今日は早く上がれると思ったんだがな。

話があるようなそぶりは見せるが、ステンレスは何も言わなかった。南はどうだったと当たり障りない話題で水を向けても、ああとかうんとかしか答えず、差し出された冷茶も握りしめるだけで口をつけようともしない。これは遅くなると連絡を入れるべきか、見切りをつけて立ち去るべきか。真正面に腰を据えて腕を組み、モモンガはため息ひとつ漏らして同僚を眺めた。どこか具合でも悪いのか、ずいぶんと顔色が悪い。と言うより何かを怖れているようにも見える。もしくは怯えか。とにかく、この男がここまで怖がるものと言えば心当たりはひとつしかない。

「イレーネ先生がどうしたんだ」
「ぶっ、ふぉっ…!…なん、」

やっと飲み込んだ茶を半分吹きこぼしそうになって盛大にむせたステンレスに、わかりやすいやつ、とモモンガはしごく落ち着いた表情でグラスを傾けた。彼のこの妙な態度は恋人に関わることであるのは明らかで、これはまた何か出先でやらかしてきたのかもしれないと思わず勘ぐってしまう。いつだったか、もう数年は前の話だが、任務後にのぼせた部下たちと酒を浴びるように飲み、気づいたら見知らぬ女の部屋で目を覚ましたという「不祥事」を起こした前科がある。隙だらけすぎるのよ、だらしのない、とはそのときのイレーネの言葉だ。ずいぶん寛大な、と当時モモンガは思ったが、彼女の冷静な態度はむしろステンレスをひどくさいなませた。もちろん自業自得だが。

「また自死するだとか、見苦しいことを言ってくれるなよ」
「な、んの…はなし…」
「南の陽気な島々で解放的な気分になるのはわからんでもないが、任務で行っているのだから当然羽目を外しすぎるのはよくない」
「なんか…ものすごく…勘違いされている気がするが…」

違うのか、違うんだ、の繰り返しでモモンガの誤解が解けたころにはステンレスの呼吸もだいぶ整ってきてはいたが、落ち着きを取り戻したかと思えばまた件のだんまりが始まる。神経質にグラスの水滴を拭ったり目を泳がせたり、不自然にまごつくステンレスを観察すること数分。いい加減にしろと言う代わりに盛大なため息をついたモモンガを見て、彼がようやっと絞り出したのが「なあ」の一言だ。

「なあ、あのさ…」
「うん?」
「あの、なあ…?」
「どうした」
「いや…ちょっと聞きたいんだが…」
「ああ」
「その…」
「…早く帰りたいんだがな」
「悪い…あの…お前さ…えーと…」
「だから何だ、はっきりしろ」

辛抱強くできるのもこの辺りまでだ。苛立ちを隠しもせず、モモンガはソファのアームレストを何度も指先で叩いた。それもそうだろう、今晩は彼の好物を作って待っていると妻が言っていたのだから。
冷ややかな物言いに流石に気づくものがあったのか、ステンレスはたじろぎ、すまん、と何度も謝ってきつく握りしめた己の拳を見つめた。一度思いきり眉間に皺を寄せて目をつむり、次に瞼を開いたときにはようやっと決心がついたように深く息を吐き出して止める。

「…どう、言った…?」
「どう、とは?というか何の話かさっぱりわからん」
「いや…あの…あれだ…ジョアナさんに…」
「ジョアナ?」
「ああ、その…彼女にさ…何て言ったんだ?その…したい、って?」
「そんなことわざわざ言葉で言うわけないだろ阿呆!」

八割がた怒りで顔を赤くしたモモンガはそう早口でまくし立て、ぽかんと間の抜けた顔をしたステンレスを眉をつり上げて睨みつけた。やや間を開けてはっとしたステンレスが、慌てふためきながら違う違う、と大袈裟な手振りで相手を取りなし落ち着かせる。そうでなくて、と何度も繰り返し、立ち去りかけそうなのをなんとか引き止めるために彼は大声を張り上げた。

「違っ、すまん…あの、け、結婚!結婚したい!」
「はあ?!何を…」
「結婚、したい!」
「聞こえとるわ!まったく、お前…大丈夫か?言う相手を間違っとるだろう」
「大丈夫じゃないからこうして聞いてるんだよ…」

そうしてまた拳を握りしめ、ぎゅうと目をつむったステンレスはことの次第をぽつりぽつりと語り出した。
任務完遂後、物資補給のため寄港した先で二日ほど暇ができた。二週間前の話だ。港以外何もない島では時間も潰せず、手の空いた部下たちととりあえず隣の島へ繰り出し、さてどうしようかとむさ苦しく飯を食っていたときのこと。わあという歓声が背後で上がり、揃って振り返った彼らが見た光景は、それはそれは盛大な結婚式だった。白い花嫁衣装を纏った女性の幸せそうな微笑みと、晴れて夫となった若い男のとろけそうな満面の笑み。左右から飛び交う祝福の声、フラワーシャワー。はにかむ花嫁を横抱きに抱え上げ、桃色の頬に軽くキスを落とす世界一幸せな男。年甲斐もなくそれに見とれた。部下たちに名を呼ばれるまでずっと。まるで女子供のよう、とからかわれ、うるさいと照れ隠しに一蹴したがこの話はここでは終わらなかった。シーズンだったのか何なのか、そのあとも五組ほど同じようなカップルを見たのだ。どの夫婦もこれ以上ないくらい幸福そうで、それに完全に当てられた。ほんとうに幸せそうだった。しまいにはこちらまでもらい泣きしそうになったくらいだ。あとで聞けば、時期にかかわらずもともとが挙式に人気のある観光地だったらしいのだが。

「単純なやつめ」
「ああ…だな…」
「したいのか」
「と、思う…」
「したいんだろ」
「したい…はずだ…」
「迷っているならやめろ、イレーネ先生にとったらずいぶん迷惑な話だ」
「やっぱそうかなあ…そうだよなあ…」
「でもしたい、と」
「…したい。ああもう、したいよ!けどな…」

気持ちはわからんでもないが、と何でもないように言うモモンガに、だからお前に聞いたんだ、となりふり構わずステンレスは尋ねた。ほかにこんな話、部下だろうが同僚だろうが、もちろんイレーネ本人にだってとてもじゃないが聞くことなどできない。今までだってまったく考えなかったわけではない。何度かこうしたい、と思ったこともある。けれどそのたび、どう言い出したらいいのかと思い悩み、悩みすぎ、結局機会を逃してここまできた。それに、ひとのプロポーズの話など、祝いの席でひやかしながら面白半分に聞いたことはあっても、まともに耳を傾けていたことなどなかったのだ。

「だから…どう言ったのかと…」
「参考にはならんぞ」
「そんなことないだろ、お前なら…」
「気づいたら言っていた」
「…は?」
「ぽろっとこぼれたんだよ。だから指輪も何も用意していなかった」
「は、ァ…お前が、何の考えもなく…言っちまったのか…」
「あとで散々考えたが、考えても考えてなくても結局答えは同じだった」

うわ、と声を上げたきり目を丸めたステンレスに、何だ、としかめ面のモモンガが返す。何を言われるものかと構えた彼をまじまじと見つめ、男前だな、とステンレスは呟き、ほうとため息を漏らして背もたれに深く身を沈めた。何をどう考えようと答えは同じ。そう言い切れる彼を心底羨ましく思う。己でもとっくに答えは出ているはずなのに、彼ほどはっきりとは宣言できない。どうしても、まだ。

「別に男前とは思わんが…そういうものだろう、多分」
「多分か…そうか…ぽろっと、ねえ…」
「まずは言ってみればいいんじゃないか。それで、彼女が嫌ならちゃんと断ってくれるだろうから」
「断られるの前提かよ!ひどいな!」
「じゃ、帰るぞ」
「ちょ、待って!おれが聞きたいのはだな…」
「『軍人である私の妻になってくれ』と言い出せない、ってことだろ」

引き止めるために前のめりになった身体を再びソファにもたれさせ、ああ、と短く応えた声は、相手の言葉を肯定したというより単なる呻きにも聞こえた。彼がもう少し気弱であれば、両手で顔を覆っていたのかもしれない。けれど彼はそうせず、腹の前で拳を硬く握りしめ、口の中で言葉を噛み締めながらああ、ともう一度呟いた。
ひとりで考えてもそれが正しいことかどうかわからなかった、とんだ意気地なしだと自分でも思う。ただ間違いは犯したくなかった。己のことは何とでもなる、しかし彼女の残りの一生を台無しにするようなことはとてもできない。

「なあ、ほんと…どう言やいいんだよ…」
「お前なあ…彼女が今さらそんなことに怯むと思うのか?」
「わからん…でも彼女…お前の嫁さんもそうだけど…家族居ないだろ…」
「ああ」
「こっちから、家族になってくださいってお願いしてさ、もし…もしもだよ…また…」

自惚れてものを言ってもいいのなら、彼女はきっと悲しむだろう。一言も弱音を吐かず、全部身の内に溜め込み、こころが引き裂かれても声も上げずに苦しむだろう。普段の振る舞いからそうとは見えなくても、一度情が湧けばとことん愛するのが彼女だ。その対象が何であれ、持ち得る限りの愛情を全力で傾ける。彼女の生い立ちと元来の優しさとがそうさせるのだろう、だからこそ愛しく思う。だからこそ、つらい思いはさせたくない。

「自分のことはどうだっていい。ただ…」
「彼女なら強いから大丈夫だ」
「お前、あのな…彼女、思うほど強くないんだよ!ああ見えてなあ、寂しがり屋で頑張り屋さんで、無理しちまうことあるし…でもそういうのぱっと見わかりにくいだろ、だからおれが居ないと…」
「お前が居なくたって、彼女なら大丈夫だ」
「いや、だからイレーネはなあ!」
「仮にお前が居なくなったとしても、誰も彼女をひとりにはせんよ」
「は…」
「ドナ先生も居る、子どもたちも居る。ジョアナと、それに私も、イレーネ先生をひとりにするようなことは絶対にない。安心しろ」

まるで「海は青い」と言うのと同じくらいの当然さで、口調も表情も変えずにモモンガはそう言い切った。ステンレスはまたしても間抜け面で言葉を失い、今度は俯き、両手をよりきつく握りしめて深呼吸をした。瞳が潤むのを感じて瞼もぎゅうと閉じる。年を食うと涙腺が弱くなるってのはほんとうらしい。

「お前…お前、ホントいい男だな…もういっそお前と結…」
「馬鹿言え。じゃあな、カミさん待ってるから、私は帰る」
「ああ糞、羨ましい!」

今晩はキッシュだ、と満面の笑みで荷物をまとめ、世界一の幸せ者はこちらを省みもせずさっさと立ち去った。残されたステンレスはひとのソファにぐったりと身体を預け、天井を見上げて羨ましい、ともう一度繰り返した。

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