何度も、何度でも
後悔している、などと思いたくはなかった。
それは自分自身に対して許しがたいほど腹が立ったし、何より彼女に対して不誠実にすぎる。後悔の二文字が脳裏をかすめただけで頭にかっと血が上り、下手をするとそこらじゅうに当たり散らしてしまいそうにもなるが、いつものように唇を引き結び奥歯を噛み締め、硬く腕を組むことで抑え込む。
そうして結局思考の行き着く先は「情けない」の一言で、己はこんなにも臆病者だったのかと、考えれば考えるほど気分は沈んでいった。それに、多少の後ろめたさと。

「申し訳ない、どうにも長引いていて…まだしばらく掛かりそうなんだ」
「そうなんですか…どうかお気を付けて、頑張ってくださいね」
「…ああ、ありがとう」

通信を終えてまず出たのは深い深いため息だった。何に対しての謝罪なのか、特に意味もなく口をついて出てしまうのがいい証拠だろうと頭を抱える。彼女から遠く離れた海の上、外界と隔てられた船室にひとりきりなのをいいことに、モモンガは首を垂れてしばらくの間目をつむった。
予定に遅れが生じたのは嘘ではない。そんな風にいいわけじみた言葉を考えてしまうことすら厭わしい。自身のもっとも醜く嫌悪している部分がどうして今こうもあらわになってしまうのか、むしろ今だからだろうが、普段は蓋をして閉じ込めてあるものと改めて向き合うのは実に困難を極めた。

この艦に乗り込む前日、もう二ヶ月近くも前になるが、彼はジョアナと一緒に街へ買い物に出かけていた。買い物と言っても約束して出かけたわけではなく、単に夕飯の食材を買いに出たと言うくらいで、なんてことのない普段通りのひとときだった。
そう、特別なきっかけがあったわけではない。日が暮れる少し前、隣を行くジョアナが橙から濃紺に変わりゆく空にうっすらと浮かぶ三日月を見つけ、こちらの名を呼ばわり「お月様」と言って嬉しそうに指差した。それだけだった。
次に彼女が発した言葉は「はい」だった。彼が自分の言ったことに驚いたのはその後だ。「綺麗だね」でも、「明日も晴れかな」でもない、どうしたことか「結婚しようか」と彼は言い、ジョアナは少しも戸惑わず迷うこともなく同意した。とても嬉しそうに。
その日の夕食が何だったのか、彼はずっと思い出すことができない。帰り際、明日も早いでしょうから、と言った彼女におにぎりを持たされたのは覚えている。それに、その時の笑顔が少し薄らいでいたことも。

ジョアナはきっと気づいているのだろう。彼女の夫になろうと言った男が、何年も彼女の隣にいた男が、辺りを見渡しても中々見つけられないほどのとんでもない臆病者だと気づいている。だのに責めるようなことは一切言わない、彼女はそのような女ではないからだ。正確に言えば、彼女の恋人が真実を突きつけられてもきっと受け入れられない男だとわかっているからだろう。だからこうして時間を与えてくれるのだ。

ジョアナは幸せになるべきだ。誰よりもそうなってしかるべきひとだ。誰に対しても笑顔を向け愛情を傾け、彼らの幸せを願い続ける。自身が幼いころに失ったもの、後に取り戻したものを大切にし、誰にでもどんな時でもそれがあると気づかせることができるひと。彼女が不幸になることなど、決してあってはならない。
しかし彼女の幸福が何を指すのか、彼にははっきりとはわからなかった。月を見て笑う、美味い飯を食べて笑う、こちらの手に触れて笑い、髪に触れられても笑う。笑っている時の彼女はとても幸せそうで、だからこちらも自然と笑顔になれる。そうして、ジョアナの隣にいる男が、必ずしも自分でなくて良いのではと思い至ることもあった。いつまでも彼女の隣にいられるとは限らないからだ。ひとはいずれ去るものだが、己の場合はひとよりもよほど早いかもしれない。可能性、確率、起こるかどうかもかわからないことを考えても仕方ないが、早くに失われた命をいくつも見てきたし、それは事故や病気で失われるよりもはるかに多かった。恋人を、家族を、幼い娘と老いた母だけを残し、いってしまった人もいる。強さや能力だけではどうにもならない状況を、今までにも沢山目の当たりにした。
それに、彼女自身を失ってしまうことをひどく恐れた。考えすぎと言われるかもしれないが、万に一つも起こらないとは言えない。海兵であれば誰だって思い当たることがあるだろう。そうなった時、かつてのあの人のように耐えうる自信はまったくない。
そうならないように、そうさせないように、何か悪しきものから守り抜くと言い切ることも彼にはできなかった。その上、己の行いが彼女にとっての悪にならないとも限らない。自分では正しいと信じている振る舞いが、彼女には正しくないことなのかもしれない。理解はしてくれているが、受け入れられているのかどうかがわからなかった。誰になんと言われようとどんな批判をされようと、己の信ずるところをねじ曲げるようなことはしなかった。だが何故だか彼女にだけは、もし否定されたとしたら途端に足場を失うだろう。彼女は彼にとってもっとも善きものなのだ。
公と私がない交ぜになってしまっているのはわかっているのに、切り離して考えることができなかった。彼はいつだって海兵であったし、これからもずっと変わることはない。だったら。だったらいっそ、と考え、その後がどうしても続かなかった。続けられないというのが本当のところだ。もし彼女の隣にいるのが自分以外の男なら?もし彼女の笑顔がこちらに向けられることがなくなったとしたら?二つに一つの道、その一方にはもっと様々な分かれ道があって、それは末長く続く道なのかもしれない。こちらは行き止まりになるかもしれない。今までにも数え切れないほどの選択をしてきた。ある時は思うがまま突っ走り、またある時は立ち止まり、考えに考え抜いて。そうして正しい方を選び取ってきたつもりだ。だから後悔は、ほとんどしていない。

「この間のことは…なかったことにしてくれないか」
「この間の…」

あれからさらにひと月ののち、帰港したモモンガが向かったのは当然ジョアナのもとだった。いつまでも避けられることではない、区切りをつけなければ一歩も先には進めない。彼女の笑顔が曇るようなことはしたくなかったが、彼にはこう言うほかに手がなかった。
この間と言われて思い当たることはひとつしかないジョアナの、ケトルにかけられた手は止まり柔らかだった表情も強張った。それでもどこか予期していたような、そんな顔をしている。
キッチンで立ち尽くしたままの彼女の手を取り椅子に座らせ、自分はその前に跪いて真っ直ぐに見つめた。ジョアナも視線をそらすようなことはない、じっとこちらを見つめ、彼から発せられる言葉をひとつも聞き逃さないようにと耳を傾けていた。

「あれは、君も気づいているだろうが私に覚悟が足らなかった。思いつきで軽々しく言ってはいけないことを口にしたし、間違いだったと思う」
「…そう、ですか」
「ほんとうに申し訳ない。あんな風に言うべきではなかった。この数ヶ月君にはとても不安な…もしかしたら不快な思いをさせてしまったんじゃないかと、ずっとそう考えていた」
「不快だなんて…そんなこと…」
「だが君を困らせた。今もそうだろう?それで…その上もっと困らせてしまうかもしれないが、どうか言わせてほしい。君の答えが『ノー』であっても驚きはしないが…ジョアナ、私と結婚してくれないか」

包み込んだままだった彼女の両手が、きゅうと握り締められた。見開かれた瞳が次第に潤み、それを隠すようにうつむいてしまう。

「時間をくれてありがとう。おかげで色々考えることができた。でも結局答えは同じだったんだ。君を幸せにできるだろうかと考えて、君は君自身で、誰かに与えられなくても幸福になれる人だろうと思った。ただ、私も少し手伝いたい」
「少し、ですか…?」
「できれば大いに。君の隣は私の居場所で、これからだって生涯誰にも明け渡したくはないと…結局はそれだった。私は君の隣でなければ幸せにはなれないんだ。自分が物凄く欲が深いってことを、再確認して呆れたよ」

今だって、と付け加えて彼は笑った。ほんとうに呆れたと困り果てたような顔をして、ジョアナの手を握り返した。この手を離したくはないと心底思う。
顔を上向けた彼女もやはり笑っていて、それでも少し、目尻が滲んでいたけれど。

「いやです」
「ああ、やっぱり駄目か…」
「違います、なかったことになんかしません」
「…うん?」
「何度プロポーズしていただいても答えは同じです。多分、あたなたは間違えたくないって思っているんでしょうけど…間違ってしまっても、正しくなくってもいいんですよ」

お仕事じゃないんだから、と言ってジョアナは微笑んだ。とても幸せそうな、満ち足りた表情で。彼女はきっと鏡に違いないなと思う。きっと自分だって同じ顔をしているはずだ。

「でもひとつだけ、約束してほしいことがあるんです。お願い、と言う方がいいかもしれませんが…」
「何でも言ってくれ」
「もし何かあっても、必ず私のところに帰ってきてください。お願いできますか…?」
「それは絶対、何があっても約束する。だから君も…」
「もちろん。でもあんまり公平な約束じゃないですね、モモンガさんの方が大変だわ」
「そんなことないさ」

そう言って彼はリングを取り出し、ジョアナの薬指にはめた。少し緩かったかもしれないねと微笑み、彼女の指先に口付けた。

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