marry you
これ以上ないくらいに完璧だろうというところまで仕上げることはできた。
彼がこの日のために作成したチェックリストはメモ用紙三枚にも及び、それは同僚が呆れるほどのものではあったけれど、そうでもしないときっとどこかでヘマをやらかしてしまうのではと思ったからだ。たったひとつの失敗で、すべてを台無しにしてしまうことだけはどうしても避けたい。
指輪は用意した。店と花の予約は何週間も前からしてある。クリーニングの受け取りも済んでいるし、靴だって磨いた。勤務日時の調整は可能な限り行い、あとは急な出動さえなければと手を合わせて祈っていたが、折良くここ数日海は穏やかで懸念していたようなことは起こらなかった。
彼は仕事を終えるとネクタイをきちんと締め直し、髪も髭も不自然にならないくらいに撫でつけ、深呼吸をし、まるで戦場にでも赴くかのような表情で一歩を踏み出した。
ひとつの手抜かりも許されない。

はずだった。

こんな時間に、と鳴った呼び鈴に応えたダルメシアンは自宅の扉を開き、どちらさまと言うより先に目を丸くした。口だって半開きだ。割とどんなことにも動じない方ではあるけれど、日暮れごろに何事か意気込んで職場を後にした同僚が、まるで戦から、それも負け戦から戻ってきたような顔で玄関先に立っていたら誰だって呆気に取られるだろう。

「どう…したんですか…」
「夜分遅くに申し訳ない、おれはもう駄目かもしらん」
「…聞いた方がいいですかねこの話」
「お願いします…」

子供達を風呂に入れている妻に代わって茶を淹れ、気を利かせた長男坊から菓子の袋を受け取りため息を漏らす。聞いたって面白くもなんともないから、お前は部屋に戻っていなさいと言い聞かせ、魂の抜けたようなステンレスの前に盆を置く。気付けのためにブランデーでも垂らしてやった方が良かったのかもしれないが、どうせ口をつけようとはしないだろう。そこまでしてやる義理もないが。

「それで、どうしたんです」
「おれはもう駄目だ…」
「それはさっき聞きました、何がどう駄目なんですか」
「…彼女に…イレーネに捨てられた」

は、と短く息を吐き出したダルメシアンが口元を掌で覆ったのは、思わず笑ってしまったからだ。幸い気づかれずに済んだが、十代の若僧でもあるまいに、と結局は声にしてしまったものだから、同僚は余計に打ち沈み頭を抱えた。ひょっとすると逆上されるかも、と咄嗟に考えたが、その真逆を行ったステンレスの様子はいっそ面倒臭くさえある。キレてくれたら追い出せたかもしれないのに。それはできそうもないと半ば諦め、だったら早く話を聞いて帰ってもらおうと頭を切り替え続きを促した。
彼が夕方あれほど気合を入れて出かけて行ったのは、ついに決心がついたからだったらしい。つまり恋人に結婚を申し込むために早めに仕事を切り上げ、内ポケットには小箱を、両手には花束を抱えて予約していたレストランへ向かったのだ、と。店の名を聞いて何故ここに来たのかわかった。自宅からほんの数分のところにある小洒落た老舗だったのだ。

「もう付き合い長いんでしょう?何と言われて断られたんですか」
「…何も」
「何も?無言で立ち去られた?」
「いや、来なかった…」

それはまた、と言い、今度は隠しもせずダルメシアンは笑った。どちらかと言うと苦笑に近かったかもしれない。どうだおかしいだろう、と半笑いになったステンレスが気の毒でもあり、情けなくもあったからだ。
はっきりと言葉にはしなくとも、きっと彼の言動の端々に気付くものがあったのだろう。話を聞けばずいぶん前から準備に準備を重ねていたようだから、もし嫌なのであれば決定的な一言を言われる前に逃げようとしたはずだ。そして、彼の恋人はそれを実行したのだろう。
何故気付かなかったんです、と思ったまま口にすると、多少不安はあったがきっと彼女なら、という確信はあったと言う。それこそ何年も一緒にいてくれたのだから、と言いかけ、むしろ長いことはっきりしない態度だったから、ついに愛想を尽かされたのかもしれないとうなだれる。そうと考えるのが妥当だろうと無言で頷いたダルメシアンの耳に、下の子供達の甲高い笑い声が届いてきた。風呂から上がったのに違いない。

「おれが悪いのはよくわかったが…彼女の態度がいまいちわからん…昨日だって普通に一緒に飯食って、喋って…」
「おれだってわかりませんよ。ああ、女の気持ちなら彼女の方が詳しいでしょう、今風呂から出て…」
「いや、いいよ…風呂上がりの大佐とか畏れ多いし…」
「何言ってんですか」

いいと言う割りにソファから動こうとしない、正確に言えば動くほどの余力もないステンレスが何かもごもご呟いているうちにジョアナがリビングに顔を出した。あなただったの、と柔らかく微笑みながら夫の隣に腰掛け、あの子たちはと問いかけるダルメシアンにウィルが、と答えて差し出されたカップを受け取る。珍しい客に驚くでもない彼女が優しく問いかけても、かつての上官を前にしたステンレスは「いや」とか「あの」としか答えなかった。顔を上げようともしない。代わりに答えた夫の掻い摘んだ話にジョアナは相槌をうち、一通り聞き終えたあとは少しだけ考え込むように視線を落とした。

「君には彼女の気持ちがわかるかい?」
「うーん…気持ちというより、ひとつ気になることはあるんだけど…」
「うん?」
「ねえ、イレーネさんは、今まであなたとの約束に来なかったことはある?」
「え…?あ、いえ、連絡なしには…」
「…やっぱりそうよねえ」
「何が…」
「今までがそうだったのなら、今回もそうなんじゃないかしら。いつも約束を破らない彼女を正として、だったら…」

ここまで聞いたステンレスはみるみる顔を青ざめさせ、ダルメシアンは真っ赤になった顔を背けたばかりか身体ごと後ろを向いた。噴き出しそうになったからだ。テーブルの上に広げられていたメモを手にしたジョアナがほら、と苦笑する。チェックが抜けていたのではない、『彼女を食事に誘う』という項目すらなかった。当たり前すぎてリストに加えるまでもなかったことを、彼はすっかり忘れていたのだ。

「あ…の…」
「はい、いってらっしゃい」
「…これ明日言いふらしてもいいですか?」
「ダメよダル君」

同僚は一目散に駆け出していった。メモを持って行くのを忘れていたが、もはや用をなさないだろう。
皺くちゃになっていたそれを丁寧にたたんだジョアナは、堪えきれなくなって笑い出した夫にもう一度ダメよ、と繰り返した。

今更彼のすることに驚きはしないから、いきなり何の前触れもなく家を訪れ、部屋へ上がりもせず正座をしたステンレスを見ても、イレーネは「何?」と言って彼を見下ろしただけだった。ごめん、と応えたきり乱れた呼吸を整えるのに精一杯といった様子のステンレスを観察し、謝られるようなことをされたのだろうかと考えても思い当たることは特にない。とりあえず上がりなよ、と言ってもここでいいの一点張りで、早々に諦めた彼女は吸いかけを灰皿に押し付けると目線を合わせるために腰を屈めた。時々、この十も年上の男相手に何故子供に接するようにしなければならないのか呆れることもあるけれど、これだって今更だ。それに、男なんていつまで経っても子供みたいなものだと、ドナ先生も仰っていたじゃないか。

「膝が汚れるわよ、これ気に入ってるんでしょ」
「ああ…いや…それはどうでもいいんだ…」
「こんな時間にどうしたの?明日休み?」
「ああ、うん…それもどうでも…いや、なあ、おれ…馬鹿だ…」
「そうねえ、今のあんたは誰が見ても馬鹿っぽいわね」

何をやらかしたかは知らないが、相当に落ち込んでいる彼の姿はもう笑ってやった方がいいのかもしれない。その通りにすると、彼は勢いよく顔を上げてイレーネの両手をぎゅうと掴んだ。これにはちょっと驚いた。掴まれた力にではなく、彼の顔を見て驚いたのだ。もう少しで泣きそうな顔をしている。

「何…」
「おれは、君に笑われるほど馬鹿だし、信じられないほど情けないし、底抜けに阿呆な男だ…」
「ん、まあ…そうだろうけど…」
「だけど、なあ、イレーネ…君は今までそんなおれと一緒に居てくれた…どうして…君は、おれのことが好きなのか…?」
「改めて聞かなきゃわからないほど馬鹿なの?」
「聞かないと駄目なんだよ…色々…色々考えたんだ…考えて答え出して、でもそれでいいのかわからない…」
「ねえ、さっきから何の話…」
「おれは、君と結婚したい」

長く視線を合わせていることができなくて、彼は結局掴んだ手の辺りを見つめてそう言った。彼女が一体どんな表情をしているのか、真正面から見るのが怖かったのだ。だから、イレーネが実際にはただ目をぱちくりさせていただけだったことにも気づかず、まるで裁きを待つもののような、実に神妙な面持ちでステンレスは浅い呼吸を繰り返していた。耳をそばだててはいたから、彼女がすうと息を吸ったのには気づいてわずかに身をすくめる。

「したいって、何それ、あんたの希望の話?」
「おれはしたい…が、君は…もしかしたら…」
「ねえステンレス、そうじゃないでしょ」

手の動きを封じられていたから、イレーネはさらに腰を折り、ほとんど座り込むようにして彼の顔を覗き込んだ。よし、目はちゃんと開いている。逸らそうとするのをなんとか捉え、子供じゃないんだからと苦笑する。まるで叱られているときのあの子たちのようだった。悪いことをしたのだと気づいた時の顔。悪いことなど何一つないのに、引け目に感じることが多すぎる、とでも言いたげな表情だ。

「ずっとなんか企んでるなとは思っていたけど、これだったの」
「ああ…」
「色々言うこと考えていたんでしょう?」
「…はい」
「じゃ、どうぞ」

そう言って立ち上がったイレーネの瞳を追うように、ステンレスも顔を上げてまともに彼女を見返した。膝は付いたままだったが片側は立て、かつて散々に嫌がられはしたがそうして自然と跪き、じっとイレーネを見つめた。彼女の長い睫毛の影を見るたび、出会った日のことを思い出す。

「イレーネ…おれは、見ての通り頼りない男だし、それに間違いなく愚か者だ…でも、誰よりも君を愛しているし、君が愛してくれているおれ自身を愛せるよう努力する…」
「うん」
「だから、どうか…どうかおれと、結婚してくれ」

ください、と言い直し、しよう?と呟き、彼女を真っ直ぐに見つめていた視線を泳がせる。しばらくして目線を戻し、イレーネの表情にはっとしてステンレスは反射的に口を噤んだ。しくじったと思ったのは、彼女の顔からはイエスともノーとも読み取れなかったからだ。どちらかと言えば怒らせた時のような顔をしている。だから、そう間も開けずに彼女の口からこぼれた言葉を理解するのに彼は数秒を要したのだ。

「すみません…もう一度仰っていただいても…?」
「いいよ」
「いいよ、って…言うのは、おれの申し出に対して、その…イエスってこと…?」
「うん、そう。いいよ」
「ああ!よかっ」
「でも中将になれたらね」

思わず抱きしめようと両腕を広げたまま、ステンレスはびたりと固まった。あんまり聞き返すのも嫌がられるから、自分の頭の中で言葉の意味を十分に噛み砕いて考えた。考えて分からなくて、中将?と問い返すと、そう、と短い答えが返ってくる。
ずっとあとになってから、彼はこの時のことについて尋ねてみたことがある。イレーネがおかしそうに答えたのは「階級上がればもっと自信持てるのかと思ったのよ」で、違いない、と苦笑するしかなかった。それほど自信がなかったし、確信が持てなかった。不安で仕方なくて、それは時が経っても拭えないことではあったけれど、それでもこの頃に比べればマシになった方だと思えるようにはなっていた。が、今の彼にはそんな余裕など少しもない。

「あの…イレーネさん…?その…中将ってそう簡単には…」
「大将は難しくても中将ならなんとかなるんじゃない?モモンガさんだってこの間なれたんだし」
「いやいやいや…あいつがなれたからっておれがそうとは…」
「それに、あんた自分で思ってるほど馬鹿じゃないし、弱くもないわ。私が知ってるステンレスはそうなんだけど、できない?」
「できます」

そう言われて「できません」とは答えられないだろう。やりとげますと固く誓い、じゃあね、と帰されたステンレスは自宅への道のりを歩きながらあと何ヶ月、いや何年かかるのかと考え込み、立ち止まって腕を組もうとした時に気がついた。内ポケットに硬い何かが、小さな箱が入ったままになっている。
全力で戻ってきた彼を見て、イレーネは流石に呆れて「何?」ともう一度繰り返した。

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