indigo blue
深い藍色はまるで海の底を思わせた。
眼鏡越しではなく横目でそれを捉えた彼は一瞬息を飲み、真正面に向き直ると長く揺蕩う美しい髪をじっくりと眺めた。何故だか強く興味を引かれたが、彼以外の誰かがそれに目を止める様子はない。よくよく見ると白い鼻先だけが覗いていて、しかし髪に隠された持ち主の横顔を窺うことはその位置からは叶わず、半ば無意識に彼は歩を進めた。そうして、あと一歩というところで結局はぴたりと足を止めた。影になっていた滑らかな白い頬には、見るも無惨な赤黒い痣が浮かんでいたからだ。
天竜人たちが用をなさなくなった奴隷を解放、むしろまるでゴミのように捨てるのはよくある話で、その後処理をするのも公にはならない軍の職務のひとつだった。逃げ出したのではなく、それらに一切の興味を失った貴族たちがいち奴隷の処遇など気にするはずもなく、死にかけかあるいはすでに手遅れになっている者を除いては、大抵はひっそりと故郷に帰された。中には戻りたくないと頑なに拒む者もいたが、その場合軍は特に手を貸すでもなく彼らの好きなようにさせていた。勝手に姿を消すもよし、その場から動かぬもよし。これ以上の援助をする義務も法も何もない。いずれにせよ誰かがどう手を尽くそうとも、あの者たちの行く末はさして変わりはなかったからだ。今まで張りつめていたものが途切れた途端に気が触れるか、それに耐えても世間から人外と指差されているうちに自ら命を断つか。元奴隷に構いつける物好きなど、この世にはそう多くはない。
だから海軍大将のひとりが彼女を見出したとき、彼は誰に断ることもなく腕を伸ばし、その女を静かに抱え上げた。息のあることを確かめながら薄汚れたシーツに包み直し、物言いたげに顔を上げた部下の一人を目配せひとつで黙らせる。そうしてなるべく目立たぬように人混みを抜けると、黄猿は停泊していた自船へと戻っていった。

船室に据え付けられているベッドに女をそっと下ろし、冷たい水に浸したタオルを固く絞って腫れた頬に当てる。意識のない女の瞼がわずかに動きはしたが、目を覚ます気配はまったくなかった。先のことは何も考えつかないが、取り合えずこのなりを何とかした方がいいだろう。どうやら先ほど念入りに巻き付け直したシーツだけが彼女に唯一与えられたものらしい。いつまでもこのままという訳にもいくまい。
そう思い立った黄猿がシーツを取り除くとむき出しの肩や胸、なだらかな腹が目に入ったが、こちらにも頬と同じような痣がいくつも残されていた。しかしその痛々しい上半身より特異なのは彼女の下半身だった。ほっそりとくびれた腰から下、当然あるべき生身の足の代わりにそこにあったのは、髪色と同じ深い藍色の鱗に覆われた二股の尾鰭だったのだ。
外界と隔てるように固く扉を閉ざしていたのにも関わらず、いつまでも潮の香りが漂っていたのはこれのためだったらしい。不自然に折れ曲がった鰭の端を真っ直ぐに整え、黄猿は手近にあった椅子に腰かけて女をしげしげと眺めた。何故彼女の持ち主がこれ程までに美しい生き物を手放したのか合点がいく。月日を経て二つに分かれたこの尾鰭が、ただ観賞用に彼女を買い求めた貴族の不興を買ったのだろう。人魚のあるべき変化に腹を立てた持ち主は、まるで壊れた玩具に癇癪を起こす餓鬼のように拳を振り上げ、滅茶苦茶にしてしまったに違いない。そしてそれをなんのためらいもなく捨てたのだ。
苦しそうな呻き声が上がったことで黄猿は深い物思いから意識を引き上げた。目覚める様子のない女が身じろぎをし、寝返りをうつと長い髪がさらりと肩から流れ落ちて後ろ首があらわになる。そうして目についたのはあの紋章。竜の蹄、とだけ呟いた彼は静かに腕を伸ばして指先をその痕に這わせた。ごわごわとした皮膚の感触がことさら不愉快で、手を引っ込めながら浅いため息を漏らす。彼女の首筋、盆の窪の真下に焼き付けられたそれは、ほかのものと比べると随分と小振りに見えた。恐らく、あくまで観賞用の人魚の背や腹に醜い烙印を焼き付けたくはなかったのだろう。水中であっても髪で隠されるような位置につけられたそれが、見れば見るほど厭わしく思えてならない。
しばらくそれを眺めたあと、黄猿は眠る女の傍らに座り直し、彼女の上体をゆっくりと抱き起こした。力なく傾く頭を支え、薄く畳んだタオルを噛ませると自分の身体に凭れさせて腰に腕を回す。

「ちょ〜っと我慢しなさいね…」

藍色の髪を胸の前に垂らし、あらわになったうなじに左手をかざす。眩い光が発せられた瞬間、女の口は咥えたタオルを噛み締めるのではなく悲鳴を上げるために大きく開かれた。およそ女とは思えぬ獣じみた叫び声が鼓膜を震わせても、彼はまったく意に介さずただ向こう側を見つめていた。彼女の後頭部に掌を添え、舌を噛み切ってしまわないように己の肩に彼女の口を押さえつける。喉を貫いてしまわないように、表面の忌まわしい烙印のみを消し去るように、手加減はした。皮膚が焼けるいやな臭いが鼻をつき、細めた横目で彼が改めてそこを見ると、上手い具合に焼けただれたうなじからはじくじくと黄色い体液が滲み出ていた。

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