咲う花 3
今度からマリージョアへ向かう同僚を見かけたら、一言でもいいから何かねぎらいの言葉をかけようとこころに決めた。
きっと、行く前のげっそりとした顔も帰ってきてからの本気でやつれた顔も、すべては海賊風情にこうして好き勝手振る舞われるからなのだ。仕事とはいえ気の毒なことだと、今なら身に染みてよくわかる。
ただの海賊であればもっとやりようがあるのだろうに、政府公認の称号を振りかざし、こちらの出方をうかがうだなんてことは一切せず鼻で笑うだけ。馬鹿にされたものだ。怒り、苛立ち、憤りに屈辱。痛みに疲労に、それに孤独。今すぐに解放されたい。できることなら何もかも投げ出して、早く家に帰りたかった。
暖かくて明るくて、穏やかで柔らかくて気が休まる。世の平和のすべてがあそこにある。ああしかし、今彼女はそこには居ないのだ。もう避難は始まっている。まだしばらくは顔を見ることも、こうして抱きしめることもできないのだ。

「…うん?」
「……ん…」
「お、お前っ!何をしている!」

違う、と認識した瞬間、女の腹に回しかけていた己の腕を引っ込め、モモンガは尻をついたまま後退った。意味がわからない、まったくわからない。そうこころで思うだけでなく声に出してひどく狼狽えた彼を見て、指先で口元を押さえたクレオメは小さなあくびを漏らし、あとは件の穏やかな笑みを浮かべて羽織っていたマントを身体に巻き付けた。

「眠っていたのよあなた、薬の所為で」
「それはわかっている!わかってはいるが何故お前が…」
「寝息を聞いていたら私も眠たくなっちゃって。でも寒くなってきたし、毛布ないし、中将さん以外はこの通り冷たいし」
「だからってひとを布団代わりにするな!」

座ったまま眠り込んでしまい、そのあぐらの膝の上、すっぽりとはまり込むように女は膝を立てて身体を丸めていたのだ。
彼のように深く眠っていたのではなく、少しまどろんでいただけなのだろう。二、三度まばたきをすると今はもうすっかり先ほどの調子を取り戻し、茹でた蛸のような将校を見やって可笑しいひと、と今度ははっきりと口にした。

「ごめんなさい、先に言っておけばよかったわ。あの薬ね、表面の傷はすぐに塞がるんだけど、内側まで治すとなると時間がかかるから。その間は安静にするようにって…」
「安静も何も、強制的に眠らせているんだろうが!そんな妙な薬を…」
「そうなのよ。だから、ごめんなさい」

ね、と微笑むクレオメと、百の悪態でも吐き足らんとでも言いたげな中将の様子はやはりちぐはぐだった。苦虫を噛み潰したような顔をして頭を振り、罵りの言葉をすべて抑え込んだ上でため息をつく。そうして、理解できん、とだけ呟き、彼はのろのろと立ち上がった。

「それは、『妙な薬』を差し出したことが、ってこと?」
「違うわ…薬効も副作用も知りながら、それを見知らぬ男の前で使おうとしたお前の神経が理解できん…」
「あら、お名前も肩書きも伺っているのに?」
「それは知っている内には入らん…」

心底呆れたような物言いで腕組みをし、顔を背けるついでに海の彼方を見やる。優しいひとねえ、と彼を見上げて笑うクレオメを一瞥し、すぐにまた視線を戻した中将の背筋を凍らせたのは彼女の何気ない次の一言だった。彼にとっては聞き慣れた、あるいは言い慣れたそれは、しかし女のほうでは知るはずのないあるひとの名だったのだ。ざあ、と血の気の引く音が聞こえた気がしてモモンガは息を飲み込んだ。ゆっくりと振り返り、微笑みを絶やさぬ女をただ見下ろして微動だにしなかった。

「恋人?それとも奥様かしら。いずれにしても幸せ者だわ、羨ましい」
「……」
「寝言であなたが言っていたのよ。女のひとの名前でしょう?」
「……」
「間違えていたわねえ、私と」

クスクスと面白がるクレオメとは対象的に、彼はこの数時間で一番張り詰めた表情をしていた。奥歯をぎりと噛み締めて顎の筋肉を強張らせ、青ざめた顔をそれでも背けることはせず、目の前の女を睨みつけていた。
彼は何も答えなかったが、それがじゅうぶん答えになっていた。彼女の言葉に間違いはない。ただ一言、違う、とでも言っておけば良かったのだろうに、彼はそうしなかったのだ。

「嘘がつけないひとなのねえ」
「……」
「指輪はしていないみたいだけど…じゃあ、やっぱり恋人?」
「……」
「ああ、そんなに興味ないし、誰にも言わないから安心してちょうだい」

少しでも下手な動きを見せていれば、彼はきっと腰に下げているものを抜いただろう。けれどクレオメは単に立ち上がっただけで、それに少しだけ笑みを引っ込め、後ろを振り返っただけだった。通信機から鳴り響く着信音が、なんとも間抜けに緊張を破った。彼女のではない、艦に備え付けられているものからだ。

「お出になったら?」
「……」
「中枢からかもしれないし、島からかもしれない。どちらにしたって出たほうがいいわ、吉報かもしれないし」

そう言うと彼女は中将から顔をそらさず、二、三歩下がって彼のために道を開けた。彼のほうでも決して視線を外さなかった。大股に歩き、受話器を取ったところでようやっと意識を分散させ、スピーカーからの聞き取りづらい女の声に耳を傾けた。

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