咲う花 2
お掛けになったら、と声を掛けたのはこれで二度目だった。最初のときより何気ないふうを装ったのは、そうでもしないと彼は決して身体を休めることはないだろうと考えたからだ。
ちらとこちらに視線を寄越し、さもお前の言葉に従ったわけではない、とでも言いたげな表情で彼は甲板に直接腰を下ろした。緩慢な動作で胡座をかき、ベンチの足に背をもたれさせた彼を見て笑みがこぼれる。強情なひと、と言うつもりのなかった言葉を思わず口にしてしまうと、男は片眉を吊り上げてそっぽを向いた。

「男って皆そうなのかしら。前に見た商船の船長さんも、全然こちらの話を聞かなかったの」
「……」
「まあ、聞いても聞かなくても石になっちゃうから、関係ないんだけどね」
「……」
「でも、あなたは同じ男でもちょっと違うわね。蛇姫様の攻撃を受けても石化しないひとなんて初めて見たわ」
「……」
「中将さんならそれくらいふつうなの?そう言えば私、軍の中将を見るのも初めてだわ。余裕で、とは言えないでしょうけど、それでも大したものよねえ」
「……」
「ところで、傷診てあげましょうか?痛むんでしょう?」

男の髭に隠された唇は硬く引き結ばれたままなのだろう。彼女の問いかけには一切応えず、険しい表情を崩しもせずに腕を組んで甲板を睨みつけていた。が、組んだ腕の右の掌はわずかに浮いていて、それに気づいた彼女、クレオメは、やはり柔らかく口角を上げて微笑んだのだった。
だんまりを決め込む男と目線を合わせるためにしゃがんだ彼女が小首をかしげると、肩の後ろに垂らしていた豊かな髪がさらりと揺れる。横目でそれを捉えた男は、しかし忌々しそうに一、二度頭を振るとついには瞑目して鼻でため息をついた。

「二日後、と言っていたわね。それまでずっと手当もしないままそうしているつもり?」
「……」
「…わかったわ、薬とガーゼをここに置いておくから、どうぞお使いになって」
「……」
「敵の薬なんて使えないかしら。でもこれは、私たち九蛇の戦士が昔から愛用しているものなのよ。薄く塗っておくだけですぐによくなるし、傷跡も全然残らないから重宝するの」
「……」
「見る間に傷が塞がっていくのよ、信じられないのなら今見せてあげましょうか?」
「…よせ」

背負った矢筒から引き抜いた一本の、鋭い矢じりに人差し指を近づけたクレオメの動きを止めたのは男の呆れたような声だった。
きょとんと目を丸めた彼女は、ふふ、と声を立てて笑うと立ち上がり、彼の手の届く範囲に薬瓶と白いガーゼとを置いた。そうしてぱっと身を翻し、下げた袋の中から電伝虫を取り出しながら彼の視界から外れたところへ姿を消す。もちろん、彼が手を伸ばしやすくするためだ。


島との通信を終えたクレオメが再び姿を見せると、男はしげしげと眺めていた右手を下ろして握り締め、またふいと目線をそらした。
礼を言う、とだけ言って薬瓶を差し出し、しかし言った本人はそれが意図したような響きを持たなかったことに気づいて、今一度彼女に視線を戻してありがとう、と言い直した。
ほんとうに可笑しいひと!と言ってしまいそうなのを堪えた彼女は、にこにこと笑ってどういたしまして、とだけ応えて薬瓶を受け取る。

「ね、凄いでしょう。一日もすると傷跡まで嘘みたいに消えるのよ」
「ああ…」
「私たちは、別に怪我をするのはなんとも思わないんだけど、跡が残るのはやっぱり嫌なのよね」
「…お前たちでも怪我を負うことがあるのか」
「そりゃあ、ねえ。完璧なひとなんて居ないわよ」

痛みが引いたのと、おそらく話し相手が居るというのは気が紛れるのであろう。相変わらず腕組みをしてあまり視線を合わせようとはしないが、男はずいぶん態度を和らげて少しずつ会話に応じるようになった。
クレオメはそんな彼のわずかな変化を、監視というよりは観察に近い目で見つめていた。船で遠征に出る彼女にとって、何度か目にしている男の姿はそれほど珍しくはないのだけれど、それでも目の前の男は今まで見てきた誰よりも興味深かった。

「お腹空いてない?干し肉くらいならあるけど」
「いや…いい」
「そう。でもきっと長く待つことになるわ。たぶん、蛇姫様はこのまま何もしないだろうし」
「そうなったら…お前、どうやって帰るつもりだ…?」
「えーと、あなたたちの艦に隠れて中枢なりどこかの島なり、たどり着いたらそこで降りる手はずになっているの」
「は、ぁ…迎えはないのか?」
「私一人のために船は動かないわ。でも戻る方法はいくらかあるから。外界に出たものたちも、そうして帰ってくるのよ」

そうか、と声にしたきり急に黙り込んだ男は、三日月型に細められたクレオメの両目を見返してひどく狼狽えた。舌が回っていない。彼が異変に気づいたときにはもう手遅れで、瞼も頭も、全身が鉛のように重く、まともに背を起こしていることもできなくなっていた。次に彼が何かを言おうとしたとき、それはただ口の端から漏れ出る吐息にしかなっておらず、ああ、と朗らかに微笑んだ彼女を睨みつけることすらできずに目を閉じるしかなかった。

「ごめんなさい、言い忘れていたわ。その薬ね、塗ったあとに物凄く眠たくなっちゃうの」

おやすみなさい、という彼女の穏やかな声は、彼の耳には届いてはいなかった。

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