scarlet 4
あの航海のあと、何人もの兵が軍を去った。
怪我を負ったからではない、激しすぎる正義の姿に怯み、足が竦み、耐え切れずに顔を背けて踵を返した。
大きな戦いのあとにはよくある話だ。特別珍しいことではない。

彼女の専門は外科だった。傷を縫い合わせ弾を摘出しあるいは切り開き、そうして身体の傷を癒すことはできたがこころはまた別だった。
彼女が一番治したかった男は、やはりこころに傷を負っていた。そう見えた。もとよりロギアの能力者は身体が傷つくこと自体がまれで、彼女が手を施す機会はまずなかった。いつだったか、浴室で滑って受け身を取り損ねたとき、擦りむいた膝に消毒液を掛けてやったくらいだ。

そう、彼は傷つかない。傷ついても決してそれを見せない。浅く小さく些細な傷はいくつかあったし、それであれば時には彼女にさらけ出すこともあった。しかし、彼は一番大きな傷を隠した。彼女にも誰にも見せようとしなかった。ひとりで抱え込み、自然に癒えるまで何年かかるかわからないのにそれまでずっと痛みに苦しむ。そうして自分を罰していた。

だから推し量るしかなかった。予想するしかなかった。診断とも言えない、傍に居るものだけが気づけた小さな変化の積み重ね。
彼は喋らなくなった、食べなくなった、眠らなくなった。ひとの前に居るときはいつも通り振舞っていたが、彼女の前ではそうでなかった。彼女に触れることもしなかった。触れられれば拒絶した。今思えばあれは、彼なりに助けを求めていたのだ。気づけなかった、受け止めてあげることができなかった。だから彼女は彼のもとを去った。軍に残ることも当然できなかった。どれだけ手を尽くしても治すことができないと、己の非力さを恨んだが結局医師としてしか生きてゆけなかった。


化粧は全部落とした。長い髪はひとつに束ねた。ほんとうは切ってしまおうかとも思ったけれど、結局そこまではしなかった。
沈みかけた夕日が水平線をほんの少しオレンジ色に染めているのを横目で眺め、今度は間違えることなく長い廊下を歩いて行く。今日は一日とてもいい天気だった。今だって雲ひとつない。じゃあ今夜なら?というところまで考えてやめた。辿り着いた先で深呼吸をして扉を叩き、間延びした彼の声が聞こえて両目が潤む。

「そんなに身構えないでよ、誘いに来たわけじゃないから」
「…どしたの」
「理由がなきゃ来ちゃ駄目?」

はっきりとした目的はあったが、いきなり切り出す気にはなれない。それに、思った通り、彼はジョアナを見て一切の動きを止めた。ペン持つ右手も頭を掻いていた左手も、瞬きすらせず椅子の上から動かずにいる。相手の動揺を認めたジョアナは音を立てずにドアを閉め、勝手にソファに腰掛けて微笑んだ。こちらだけこころがざわついているのも、なんだか悔しいじゃない。

「昨日サカズキさんと『ジンジャー』に行ったから、今日は大人しくしているつもりなの。ちょっと飲みすぎたわ」
「へえ、懐かしいな…」
「でしょ、マスターも全然変わってなかったし。ご飯もお酒も美味しかった」
「そうか…」

この口ぶりだと、たぶん、もう何年も訪れていないのだろう。ジョアナの方でもそれは同じだった。実に二十年ぶりだったけれど、あそこだけは時が止まったようにほとんど変わったところがなかった。
彼も、見た目はほとんど変わらない。皺の一本でも増えているかと思っていたのに、ここから見ているだけではわからなかった。ただ、最後に目にしたときと比べると、今の彼の姿はずいぶん健やかに見える。

「今日はあの子居ないのね」
「誰が?」
「黒髪の、事務官さん」
「ああ…今日はもう上がったから…」

彼の言葉に適当に相槌を打ち、ちらりと右手の空席を見やる。綺麗に整頓されたデスクの上には幾つかのファイルとメモ帳があるだけで、持ち主の人となりを窺い知ることはできない。しかし、昨日のあの短い時間でのやりとりを思い返してみれば、彼女はとても思いやりのある優しい子だった。名前を聞くのを忘れてしまったけれど。

「よく気がつくいい子だわ。部屋がこんなに綺麗だもの。あなた、片付けるのが苦手だったじゃない?昨日見てびっくりしたのよ」
「ん、あー…そうだな…」
「それに、とっても可愛らしいし」

ああ、と短く答えたクザンをじっと見つめても、それ以上は言ってもらえなかった。不自然な数秒のあと、堪えきれなくなった彼がおどけた調子で何?と言ったところで、ジョアナはついに諦めがついた。
彼は覚えていなかった。思い出しもしなかった。わかりきっていたのにどうしても期待してしまった。雨が降っていなくたって、髪を短くしたって、彼はもう私のところには戻ってこないのに。そもそも彼が居なくなったんじゃない、私が彼の隣から遠ざかっていったのだ。

「あー、もう…駄目だわ」
「うん?何だよ急に」
「私、昨日からずっとあなたの嫌な部分を必死に思い出そうとしているの。でもそれって、結局好きって言っているようなものね」

目の下の影も、大きな手も、煙草の香りも私の名を呼ばわるときのあの柔らかな声も好きだった。ほんとうに、大好きだった。
好きなの?と冗談めかして言う彼に、さあ、ととぼけてみせる。そりゃどうも、と返した彼は少し照れているようにも見えたけれど、気のせいかもしれなかった。

「ああ、そうだ、ガープさんに呼ばれてるんだったわ。美味しいお饅頭があるからって。あなたも行く?」
「いや、おれはいいよ」
「ん、じゃあ、またね」

勢いよく立ち上がり、昨日と同じようにこれ以上は近づかず、彼女はくるりと背を向けた。その数メートルがずいぶんと遠く感じた。もう少しだけ近寄りたかったけれど、それももうできない。扉を開く寸前、彼の名前を呼びかけようとしたのに、結局はそれも叶わなかった。

「ジョアナ」

クザン。

「なあに?」
「ごめんな」
「…馬鹿ね」

お互い様、と言って笑ったジョアナに、彼もまた苦笑した。長い赤毛を揺らして出て行く彼女の後ろ姿を見送り、その日の仕事を終えるために彼はまたデスクの上に視線を戻した。

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