scarlet - epilogue
からころと鳴ったドアを振り返り、バーテンは営業用の爽やかな笑みを浮かべていらっしゃいませ、と言いかけた。言いかけて、入ってきた男のあまりのでかさに驚いて、ああ確か昨日もこんな、と思い出しながら気を取り直して今度こそ客を出迎える。
男はカウンターの一番奥まった席に腰掛け、ひとつため息をついた。メニューを見るでもなく差し出されたおしぼりを受け取り、並ぶ酒瓶の首にかかったタグをぼんやりと眺めている。

「おや、いらっしゃい」
「どうも、お久しぶりです」
「ビール?」
「んー…いや、水割りで」

厨房から出てきたマスターが青雉大将の前にタンブラーグラスを置く。何かつまむ?と彼がにこやかに尋ねると、とりあえずいいやと大将が答え、一口飲み込んだあとはグラスの中の氷が解けていく様子を見つめていた。
そう言えば氷のひとなんだっけ、それより昨日の今日だけど、一緒じゃないのか、どうなったんだ。バーテンの顔には言いたいこと聞きたいことの全部が表れていたが、マスターは苦笑して一度だけ首を振った。なあ、野暮なことは聞くなよ。

「例えばさァ…」
「ん、うん?」

無言のやり取りをしていた所為で反応が遅れたマスターが視線を戻したとき、青雉大将はどこか照れ臭そうに笑ってグラスを傾けていた。後ろでテーブル席の片付けをしていたバーテンも、一瞬出遅れはしたが明らかにぴくりと反応して聞き耳を立てている。

「むかーしむかし、好き合ってた女がさ、急に目の前に現れたとして」
「ええ」
「中々無下にはできないっすよねえ…いっくらひどい別れ方してても」

それ例えばの話なの?つい最近の現実の話でなく?もう少しで口にしてしまうところだったのをバーテンは必死に堪えた。気になって仕方ないが、これ以上同じ空間に居たらきっとほんとうに突っ込んでしまいそうで、彼はこっそりと厨房に隠れて洗い物に集中した。あとでマスターに聞けばいいよね。

「ひどい、ですか」
「んー…おれが全部悪いんだけどね、なんつーかもうゴメンとしか言えなくてさあ」

情けないでしょ、と頭を掻くクザンにさり気なく灰皿を出し、ええ、とだけ答える。例え話じゃなくなってますよ、とは言えなかったけれど、マスターは相変わらずにこにこと相手の昔話に付き合っていた。グラスは昨日あらかた磨かれていたから、彼は一言断ってからパイプを取り出して火をつけた。市民の避難が少しずつ始まっている所為か他に客は居なかったし、唯一のお客も次の一杯までずいぶん時間がかかりそうだった。それまでがどうしても手持ち無沙汰になってしまう。

すっげー綺麗になってて、一瞬わかんなかったんですよ、びっくりし過ぎて。
それで、思わず指輪してるかどうか見ちまって。見たってどうなるわけもないのに、つーかこっちだってどうするつもりもないのに、ですよ。ほんと情けねえな…でもしてなかったんですよ彼女。いやいや、何で、どうしちゃったのよって、聞けなかったですよねやっぱ。
聞いたところでさ、ほんとどうしようもないですもん、昔みたいにはいかんでしょう。それで、きっとこれ、彼女も全部承知の上なんだろうなって。

こんなに喋るひとだったかなあ、と煙をふかしながらマスターは微笑んだ。饒舌なのは酒の所為ではない。それに、決して寡黙なタイプではなかったけれど、口は喋るために開かれているより煙草を咥えていることの方が多かったような記憶がある。そう言えば今日は一本も吸わない。時が経てばそれなりに変化はあるのだろう。いや、でも相変わらず髭は伸ばさないんだな。

「なーんで今頃…」
「今だからじゃないですか」
「…ですかねえ」

苦笑してぐっとグラスの中身を飲み込み、ふと目を上げた大将が突然何かに気づいてマスターの背後をじっと見つめた。みるみるうちに眉間の皺が深くなっていく。
不思議そうに肩越しに振り返ったマスターがもう一度彼に向き直ると、あいつも来てんのか、とうんざりしてため息をついていた。彼が見ていたのはボトルキープされたウィスキーだった。黄色いタグにはある将校の名前が書かれている。

「ああ、パティ君。ちょっと前に来てくれたんですよ、彼も久しぶりだったなあ」
「あいつしばらくこっちに居なかったですからね…」
「そうみたいですね。可愛らしい女の子連れて来てくれましたよ、黒髪の…」
「あー…」
「ガールフレンド?って聞いたら、誰かの事務官兼恋人って」
「えーと…」
「今度連れて来てくださいよ」
「いやいやいや…どうなんすかそれ…」
「常連さんが戻ってきてくれたら僕は嬉しいんですけどねえ」

結局彼は一杯だけで席を立った。
帰り際、少し考えたあとでボトル入れといてちょうだい、と支払いを済ませた大将の背を見送り、毎度どうも、とマスターは朗らかな笑みを浮かべてひとりごちた。

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