scarlet 2
彼が私を思い出したとき、わずかに彼の視線が下がった。ほとんど無意識だろうけれど、こちらの手元を見つめていた。確認して、確認してしまったことに気づいて、何気無い仕草で目をそらす。

思っていたより自然に振る舞うことが出来ている。思っていたより言葉に詰まることもない。ただ、沈黙を恐れて無理にでも話題を繋げようとしているのはやはりどこか不自然だった。ジョアナはそれに気づいていたし、彼の方でもまたそうだった。あのころであれば、言葉を交わさなくとも同じ時間を違和感なく共有できていたはずなのに。

「それでね、どうしてもって。センゴクさんから直々よ、断れないでしょ」
「ああ、そりゃまあね。医療部も人手不足だろうからな」

かつて所属した本部から遠く離れ、偉大なる航路のとある島で医師を続けていたジョアナが二年ほど前から再び軍に籍を置くようになったと聞き、クザンは純粋に驚いた。驚いて何か言いかけたのを押し留め、そうか、とだけ返した。彼のジョアナに対する情報は、真実から噂話の域を出ないものまで防ぎようもなく方々から聞かされていたけれど、ここ数年はまったく耳にしていなかった。最後は九年前だったはずだ。

「それは支部でも同じなんだけどね。うちの室長が嘆いていたわ、これ以上減らされたらたまらない、って」
「そりゃ悪いねえ」
「あなたが決めてることじゃないでしょ」
「うん、おれ全然その辺関われねえから」

苦笑したジョアナがカップを傾ける。中の紅茶はとっくに冷めていて、渋味だけが舌の上に残った。底に沈んでいた澱が揺れて奇妙な模様を作り、話を続けながらそれをぼんやりと眺める。
彼はこちらのソファではなく、自分の椅子に腰掛けていた。長い足を組み、腕まで胸の前で組んで少し頭を傾げていた。決してそこから動こうとはしなかった。まるでこれが適切な距離だと言わんばかりの態度で、ジョアナはそれにも苦笑するしかない。

「ねえ、サカズキさんって今出てるの?ご挨拶しておきたかったんだけど」
「朝は居たし、明日また集まるから遠くには行っちゃいないだろ。連絡しようか?」
「ん、別にいいわ」
「なんだよそれ」

笑うと浮き上がる目元の影が好きだった。もう何度目かわからない、心臓の跳ねる音が身体の内側で響いている気がした。

ジョアナが最後に乗っていたのはサカズキの艦だった。まだ彼が中将のころ、彼女はあの艦の船医のひとりで、彼の隊が遠征に行くたびに必ず乗船して何処へでも着いていった。丘にいるときはもっぱら本部の医療塔にこもっていたけれど、大抵は海の上で怪我人の手当を行っていた。
この二年は海軍支部の医務室に勤めていたし、その前は街の大きな総合病院で幾人もの患者を抱えていた。何処に居たってやることはいつも同じだ。治療して送り出す。それの繰り返しだった。
このたびの招集は三週間後に迫るある海賊の処刑のためで、数日前公式に本部から要請が入ったあと、元帥からの非公式の連絡を受けてジョアナは大勢の将校と一緒に再び艦に乗り込んだ。

ほぼ二十年ぶりに降り立ったオリス広場はほんとうに懐かしかった。偶然出迎えてくれた大参謀も本部の外観も懐かし過ぎて涙が出そうになった。あのころの仲間に会いたい。けれど今このとき、サカズキの顔を見たいかと言えばそれは違う。だから、あれほど椅子の上から動こうとしなかったクザンが、デスクの上に身を乗り出して電伝虫に手を伸ばしたのはジョアナを少し落ち込ませた。悔しいから、ちょっと仕返ししてやろうかしら。

「クザン」
「何?」
「今夜食事にでも行かない?なんだか懐かしくなってきちゃったから、もっと…」
「今夜は駄目」
「あら、約束でもあった?」
「約束はしてない」
「じゃあ、どうして…?」
「雨だから」

雨、と繰り返したジョアナに、そう、と言ったきり彼は口をつぐんだ。確かに艦から降りて見上げた空は雲行きが怪しかったけれど、思い切って言葉にした誘いを断られる理由としては納得がいかない。
けれどジョアナはにこりと微笑み、じゃあまた今度、と言って席を立った。聞き分けの悪い子どものように思われたくなかった。それに、今夜は、と言った彼の言葉にわずかに期待したのかもしれない。


夜も早いうちから降り出した雨は随分弱まり、彼らが店を出るころには霧雨になっていた。まとわりつくそれは普段ならあまり好ましく思えないけれど、今は火照った頬や身体に心地いい。隣を行く女もそれくらいは感じ取っているだろうか、とサカズキは、彼にしてはほんとうに珍しく、苦笑した。苦笑いだって笑いには違いない。
肘のあたりを掴む手の力は強かったが、ずしり、ずしりとまるで力なく引きずるように足を運ぶジョアナはもしかしたら眠っているのかもしれなかった。あれだけしたたかに飲んだのだから、意識が飛んでいたっておかしくはない。いっそおぶっていったほうが早いだろうけれど、歩きたい、と言った彼女の意思を尊重した彼は普段の半分以下のペースで暗い夜道を歩んでいた。
まったくしようのない、と言ったところで応えるべき相手がこの様子ではただの独り言だ。昔からそう強いほうではなかったが、ここまで呑まれることはまずなかった。
顎を引いている所為で緩く巻かれた長い赤毛が彼女の表情を覆い隠している。その隙間から、か細く途切れ途切れに何か聞こえた。もどしそう、と言ったか…?

「もちっと辛抱…」
「無理…」

できんのか、と問う前にジョアナはその場にしゃがみ込んだ。幸いにももどしはしなかったが、うんうんと唸って、何かをぽろぽろとこぼした。鼻から息を吐き出したサカズキも同じように身を屈めたが、見えるのは彼女のつむじだけだった。涙などすぐに地面へ吸い込まれてゆく。ただでさえ濡れているのだから。

「私…みっとも…ないわね…」
「ああ」
「サカズキ…さんは…ずっ、と…優しい…ね…」
「そう言うんはお前ぐらいじゃあ」
「う…そんなこと…ない…」

猫ちゃん、と訳のわからないことを呟き、ぐしぐしと拳で両目をこする。その仕草とほとんど崩れてしまった化粧の下から覗くそばかすは、ジョアナをずいぶん幼く見せていた。

「ね、…あのひとの…一番って、誰…?」
「誰の」
「クザン…、わかってる…くせに…やっぱ意地悪…」
「お前もわかっちょるんじゃろうが」
「うん…」

はあ、と一度大きくため息をつき、ジョアナはのろのろと顔を上げた。青白い顔には笑みが浮かんでいたけれど、ちっとも笑ってはいなかった。

サカズキは知っていた。しかし特別彼が詳しかったわけではない、あのころ共に過ごした者たちなら誰もが知り得ていることを、彼が覚えていただけだ。ジョアナの隠されていたそばかすも、かつてはこの赤毛がかなり短かったことも、自分の艦に乗っていた船医の昔の恋人のことも。今では単に知っている者が少ないだけだ。それくらい時を経ているのだから。

だから何故彼女がこうも落ち込むのか、考えるまでもなくわかっていた。彼女はあの男のもとを去った。何が原因かは聞いていない。が、だいたい予想はついていた。
彼女は軍も辞めてしまった。あの出来事の所為であることは明らかだ。当時サカズキの艦から降りた者は大勢居て、いちいち数えてはいなかったが彼女もその内のひとりだった。
九年前、とある島で大病院の院長に見初められ、後妻として納まったと新聞の片隅で見つけた。その後のことは知らなかったが、それから七年後夫が鬼籍に入り、彼女はその島からも去ったのだと先ほど聞いた。出来損ないの三文小説みたいでしょ、と彼女自身が言ったのは何杯目のグラスを空けたときだったか。あちらの家族との折り合いが悪かったのだろうことは、聞かなくともわかる。

阿呆だ。散々傷ついてきたのになお己を痛めつけようとしている。医者が聞いて呆れる。

「阿呆」
「声、に…出てるわ…」
「当たり前じゃバカタレ、聞こえるように言ったからな」
「やっぱ…優しいわね…あんまり…ひとに頓着ないくせに…」
「どうだかな」

相変わらずうなだれてはいたけれど、ジョアナは肩を震わせて笑った。立ち上がったサカズキに向かってずいと両腕を差し出し、ため息ひとつついた彼に引っ張り上げてもらうまでずっとそうだった。

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