scarlet
例えば、だけれども。
あのひとがもうどうにも立ち行かなくなっていたり、ひどく疲れていたり、見ていて気の毒なくらい頑張りすぎていたとしても、それを和らげてあげることができない。そう思って、ああこれが失恋というやつね、ってどこか他人事のように考えたの。
それはもう私の役目でなくて、昔はそりゃあ、できてたと思うのよ私のところに帰ってきてくれていたから。でも今は違うじゃない。悔しいのかな、悲しいのかな、羨ましいのかな。もうわかんなくって。今の彼のこともちっともわかんなくって。あんなに好きだった煙草どうしてやめちゃったのかしら、私今でも同じもの吸ってるひとを見るとどきっとしてたのに。馬鹿みたいじゃない?それはもう彼じゃないのよ、私の知ってる彼じゃない。あー、もうなんなんだろよくわかんない。

そうやってくだを巻くのがそこらの小娘ではなく、実際はわからないがとにかくそこそこ年を重ねた女性が、仕立てのよいブラウスの袖をまくり豊かな赤い髪をかき上げ気だるそうに頬杖をつき、つまりは完全に酔っ払って目の前の無言の男相手に聞いてる?と突っかかる姿は、カウンターの向こうでグラスを磨くバーテンを常にハラハラさせていた。実を言うとその磨く手もおざなりになっていて、彼の意識はずっとテーブル席の二人組の言動に向けられていたのだけれど、無意識でもピカピカのグラスがもう十数個は並んでいる。それだけ長い間、彼女の懐古談は続いていた。
それに、彼がこんなにも気を揉むのには理由がある。もうすぐ店じまいだからとか厄介な客だなとか、そんなことではない。厄介には違いないがその厄介を一身に受けて聞き役に徹している男がこともあろうかあの海軍大将、赤犬だったからだ。

「ねえ聞いてる?」
「ああ」
「それでね、最悪なのはきっとこれ、あのひとも気づいてるんじゃないのかってことなのよ」

大将が手酌で傾けた徳利から最後の一滴が垂れる。女性の方のグラスももうほとんど解けた氷しか残っていない。それでも薄くなった酒をいつまでもちびちびと舐め、ぬるくなって乾きかけた野菜スティックを弄んでまだ何か言っている。聞き耳を立てているわけではない。他に客は居なかったし、今かかっているレコードの音はずいぶん絞られていた。いつもはもっと大きな音を奏でているのに!マスターこれ壊れてるんですかね!
そうしてバーテンはまたハラハラした。もう何度目かわからないが、テーブルの上に無造作に放り出されていた大将の左腕を女性がばしばしと叩いたからだ。どうしてあのひとあんな、と言って口ごもり、もうそうよ、どうしようもないのよ、と自嘲気味に笑って俯く。頼むからこんなところで寝てくれるなよ。
それを敏感に感じ取ったか、とっくにラストオーダーの時間が過ぎているのに気づいていたのか、そびえ立つ大山のようにでかい大将が立ち上がり、女性の二の腕を掴んでしゃんとしろ、と呟いた。無理じゃないかなそれ。

「遅くまで悪かったな」
「いえいえ、毎度どうもー」

ひとのいい笑みを浮かべたマスターが奇妙な二人組を見送って扉を閉める。何で今まで奥に引っ込んでいたんだというバーテンの無言の批判を肩で受け、そう恨みがましい顔をするなよとこれまた気さくな笑顔で応える。おれが居たんじゃ彼女話しづらいかと思って、とかなんとか。
どっと疲れが押し寄せたバーテンは半ばカウンターに寄りかかり、差し出された皿を力なく受け取ってため息をついた。

「なんなんですかあのひと…赤犬大将にあんな…」
「昔々、この海軍本部で働いていたお医者さんさ。軍医だったかな?ジョアナさんって言って、大将とも深い付き合いだ」
「え…つまり大将の恋…」
「あの話の内容を聞いていてどうしてそうなる。ま、でも、当たらずといえども遠からずかな」

意味深な台詞を残して厨房へと消えたマスターを追いかけ、年若いバーテンは素晴らしく早い動作で彼の前に回った。生ゴミのバケツを持ち上げた店主のために裏口を開け、それで、と話の先を催促する。彼がここで勤め始めて半年、こんなに面白そうな話題はほかにはなかった。
やや呆れた表情のマスターは使い込んだパイプに火をつけ、それを咥えたまま器用に口の端を歪めると、大将の恋人、と煙とともに言葉をぷかりと吐き出した。何処か遠くを見るように両目を細め、しかし何かを懐かしむように目尻の皺の溝を深める。

「恋人、だった。そう、昔ね」
「じゃあやっぱり…」
「赤犬さんでなくて、青雉大将の。いや、あのころは中将か」
「なんなのあのひと」

答えを聞いても結局これが口をついて出た。マスターはひとり可笑しそうに笑って胡麻塩の顎鬚を掻き、明日も頼むよ、と言って合点のいかない困惑顔の青年を裏口から送り出した。


どこもかしこもみなあのころと同じとは言い難かった。
兵たちの顔ぶれもそう、建物の作りもそう。勝手知ったる本部内を歩いているつもりでも、ここに部屋があったはずなのにとか、こんなところにトイレが出来たんだとか、記憶と違う部分が次から次へと出てきて彼女はふと足を止めた。たどり着いた懐かしい中庭も思っていたのと違う。案内をすると言ってくれたサングラスの少佐に遠慮せず、素直に従っておけばよかった。何階のどの辺りかだけ聞いて部屋を出たはいいが、五分と経たぬうちに早速迷子になっていた。
あっちだったかしら、とひとりごちながらうろうろと廊下を行き来していると、急に後ろから声を掛けられてジョアナはぱっと振り返った。相手の女の子、多分事務官だろう、は廊下の向こうから彼女の不安げな後ろ姿に気づいていて、ごく穏やかな声で呼びかけただけなのにずいぶん驚かせてしまったらしいことに申し訳なさそうな表情を見せる。

「すみません、あの…何かお困りですか?」
「ごめんなさい、ちょっと迷っちゃって…クザン、大将の部屋って…」
「青雉大将の執務室でしたらこちらです」

ふわりと微笑んだ彼女のあとを着いて行くと、もう一度角を曲がるだけであっさりと到着した。開き切った扉にノックの必要はなかったけれど、どうぞ、と言ってジョアナを部屋に通したあと、事務官も同じようにその敷居を跨いだのはここが彼女の執務室でもあるからだった。しかし部屋の主は居なかった。
もっと何か、心臓が口から飛び出しでもするんじゃないかと思っていたのに、ひとひとり居るだけで案外冷静でいられるものだとため息をつく。手際良く用意してくれたお茶で一息つくころには、のんびりと部屋を観察できるようにまでなっていた。ああ、コートが白い。あ、あのペンまだ使ってる。相変わらず大きな椅子ね。そんなことに気を取られていたからなのか、初めて出会った事務官と他愛ない世間話をしていたからか、しばらくして近づいてきた足音が聞き覚えのあるそれだとジョアナは気づけなかった。

「ただいま。食堂空いてたよ、今から行く?」
「おかえりなさい、お疲れ様です。今日はパティと約束してて…それより、お客様がお見えになってますよ」

自分の執務室に入ってクザンがまず視線を向けたのは部屋の右手側、事務官のデスクに向かっていた黒髪の彼女だった。立ち上がった彼女の言葉のどれかに顔をしかめ、振り返り、ジョアナの緑色の目を見つめてしばし彼は固まった。
一瞬、ほんの一瞬だったけれど、彼はこちらが誰なのか気づかなかった。

「お久しぶり」
「ジョアナ」

名前を思い出してくれただけでも良しとしようじゃない。
何か言われる前にとびきりの笑顔で彼を黙らせた。うまく笑えていたかどうかは別にして、この作戦は概ね成功したと言えるだろう。
彼はそれ以上何も言わなかった。両足が床に釘付けにされたように、その場から動きもしなかった。

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