honey 8
あのひとの目はただ真っ直ぐに敵へと向けられていた。
抗うものたち、逃げ惑うものたち、恐れをなして身動きの取れなくなったものまで一切容赦はしない。徹底的に抑えつけ叩き潰し、骨すら残さず焼き尽くす。
何故なら彼らは悪で、彼は正義だから。

ジョアナは道を見失っていた。戦の真っ只中で、馬鹿みたいに立ちつくしていた。寄る辺となる男はもはやそこには居なかった。彼は振り返らない。素振りさえも見せない。前へ、前へ。前だけを見据えて。
ずっと見ていてくれるのではなかったのか。あのひとが見ていてくれるから、私は周りを見渡せたのに。
怖くてたまらない。敵も仲間の海兵も次々と倒れていく。怖くて怖くて、とても目を開けていられない。

ふとジョアナが両目を閉じかけたとき、色のない喧騒の中でもはっきりと聞こえたのは空気を切り裂く音だった。それが彼女を引き戻させた。遥か向こうの物見台から誰かが放った鉛の玉が、己の足元に撃ち込まれたのだと理解するまでほんの数秒。次に顔を上げたとき、彼女の瞳に映ったのは大将の白い背に向かう二人の男の姿だった。

「危ないっ…」

言うより先に身体が動いた。駆け出しながら四肢を伸ばし、可能な限り速くがむしゃらに突っ込んだ。鋭い牙と爪を剥き出しに、手前の男の腱を切り裂きその勢いのまま大きく跳躍する。次の瞬間には常の何倍にも膨れ上がった体躯で奥の男に体当たりをし、爪をその背に突き立て牙を喉元に埋め込んだ。それでも大将は振り返らない。見慣れた彼の大きな背が、見る間に遠く小さくなっていく。人波の黒、彼の白、目の前で噴き出す鮮血の赤。


短い髪を梳く男の手があんまりにも温かくて、ジョアナは彼の膝の上でぽろりと涙をこぼした。今朝見た夢の内容も、目を覚まして隣に彼が居なかったのも、怖くて怖くて仕方なかった。だから、ありのままを伝えた。涙と一緒に言葉を発することに慣れていなくて、途切れたり戻ったりを繰り返したが彼は黙ってそれを聞いていた。

「この間…トニーに言われたんです…あ、あなたに…『大将赤犬』である以上のことを…求めたらいけないって…」
「ああ」
「あなたは…皆から…前を見ることだけを…求められているから…ほんとうは足を止めたり…省みることは…しないって…」

じっと妹の両目を見つめ、子どもに言い聞かせるようにそう言った兄の、見たこともない悲しい瞳を思い出す。
彼の優しい手もこうして髪を梳いた。昔よくそうしてくれたようにゆっくりと頭を撫で、こんなになるまで、と言ってあとの言葉を飲み込んだ。

今目の前にいる男は、片手でジョアナの小さな頭を抱え、もう一方で流れた涙を拭っていた。汗で額に張り付いた薄い色の前髪をかき分け、ぎゅうと閉じられた瞼に触れて彼女の目を開けさせる。
見返す彼の瞳は平静そのものだった。敵と相対しているとき以外の、いつも通りの起伏のない眼差し。ジョアナはそれを見るたび、あるときは落ち着き、またあるときは不安でたまらなくなった。何も読み取れない彼の両目が、それでもこちらを見ていてくれればと願ってやまなかった。

「サカズキさんの…目の届かないところでは…走れないんです……だから…」
「ジョアナ」
「……はい…」
「好きにしろ、と言ったのを覚えとるか」

その言葉にびくりと身を縮ませる。ああ、そう、そうなのだ。ついて行くも行くまいも、それはこちらの勝手で、彼は一切何も言わない。かつてジョアナの兄がそうであったように、大将赤犬のもとに留まるものもいた。また多くの兵士がそうであったように、彼のそばから離れていくものもいた。彼らもきっと、怖くて悲しくて、身を切られるほどつらかったのに違いない。今の自分のように。だから、もう目を開けていることは出来ない。

「ジョアナ、わしを見ろ」
「…う……」
「お前がここにおれんと言うなら、わしは止めやせん。今までならな」

顔を覆うジョアナの細い腕をやんわりと掴んで下ろし、痛がらないように、しかし決して抜け出せないように、彼女の手首を握った。そうしたことに自身でもひどく驚いていたが、彼は掴んだまま離さなかった。真っ直ぐに見返してきた彼の目に初めて戸惑いの色を見つけ、ジョアナは二、三度瞬きをしてじっとその瞳を覗き込む。

「今までずっと…そうしてきたが…お前を手放したいとは思えん」
「え…」
「お前は、わしが見とらんと思っちょったんじゃろう。そう見えてたんはわしが悪いが、お前のことは例え視界に入っとらんでも全部わかる」
「嘘…」
「嘘じゃあない。お前のこの髪の色も、時々また目を閉じているのもわかっとったんじゃ」

今までも数えきれないほど、ジョアナと同じような兵士を見てきている。何も言わず、何も知らせず、皆死ぬほどに苦しんで、己のもとから去っていく。
そうなったときがつらすぎて、いつからか執着することをやめた。残るもよし、去るもよし。止める間はない、一々気にしていたらきりがない。そうするしかなかった、そうすることしかできなかった。
彼は何も言わない。気づいていても触れることはない。彼の事務官の言うとおり、足を止めることも省みることもしなかった。そうしたところで何かが変わるとは思えなかったし、ひとの思惑などどうすることも出来ないと思っていた。だから彼は迷わなかった、そのために幾つかを諦めた。

「わかってはいたが、見て見ぬ振りをした。とんだ臆病者じゃろう」
「臆病…サカズキさんが…?」
「ああ。その上、身勝手にもほどがあるが…もしこのままお前が耐えられんようになって目の前から消えたとしても、致し方なしと思うことはできんじゃろうな」
「どうして…」
「わしはお前を好いちょる。お前が思っている以上に」

ジョアナの目を真っ直ぐ見つめたまま、彼はそう言い切った。
彼女が戸惑いの次に見たのは、これも今まで目にしたことのない、驚くほど優しい眼差しだった。

「…すき…ですか…?私のこと…?」
「ああ。お前はわしにないものを沢山持っとる。嬉しかったら笑う、納得いかんことには怒る、眠たければ大あくびをして寝るし、腹が減ったらよく鳴く。寂しいときや不安なときは、頭を擦り付けてくるだけで何も言わんが…お前のそういうところが心底愛しいし、これからもそうであればと思う」

そう言って彼はジョアナを引き寄せた。乾きかけの涙で強張る目尻に短く口付け、聞き取れないほど小さな声でここにおれ、と呟いた。

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